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プレーヤーの電源を切り、イヤホンを外す。
知らず知らずのうちに詰めていた息を吐き出して、目を開けた。
「……よくこんなの録れたわね」
「悟られやしないかとヒヤヒヤしていたさ。このことが知れたら今度こそ頭に風穴が開くかもしれない」
「冗談に聞こえない……」
額から目にかけてを右手で覆い、溜め息をつく。
赤井さんがわたしにこれを聞かせるか否か迷ったのは、聞いたわたしの答えが変わることを危惧したから、だろうか。
「……君は、帰りたいと思っているのか」
「ここに戻ってこられる保証があるならね」
「理由を聞いても?」
顔を覆った手を外して、イヤホンのコードを指先で絡め取った。
「初めはね、帰りたかったのよ。知った環境が遠ざかったことが、両親に会えなくなったことが、わたしの居場所がなくなったように思えたことが……どうしようもなく悲しくて、どうしても受け入れたくなかった。でも、帰るためには生きていなくちゃいけなくて、わたしは安全に生きていくには危険な情報を知り過ぎていた。だから……全部受け入れろって、零さんが言ってくれたの。あんなバカみたいな話を信じてもらえた、それだけで救われた。あの瞬間に、やっと泣くことができたの」
コードを弄りながら、言葉を続ける。
赤井さんもコナンくんも、口を挟まずただ聞いてくれていた。
「それから、コナンくんに出会って、赤井さんに捕まって――わたしの"知らない"ことが、次々と起きた。だけどその後、赤井さんは一度死んだ。零さんは車を半分へこませたし、ミステリートレインで哀ちゃんが危ない目に遭った。あなたたちが、バーボンがスパイであることを暴いた。……それはわたしの知っていたとおりで、何も変わらなかったのよ。だから、わたしがいてもいなくても、きっと世界は何も変わらない。それは、わたしの故郷も同じことだって……そう、思ってしまったの」
傲慢だとわかっていた。それでも、わたしがいなくなってはいけない理由を、どうしようもなく探していた。
両親は確かに心配してくれるだろう。あの日わたしに帰るようにと気を遣ってくれた上司は、もしかしたら後悔しているかもしれない。――でも、時間が経てば、きっとそれも薄れていく。
わたしが、声を忘れてしまったのと同じように。
「どこにいようと同じなら、わたしはここで生きていたい。何も変わらなくたっていいの。……ただ、零さんに、生きてほしい。――結局、中途半端に投げ出してきたことが嫌だったのよ。"いつでも会えるだろう"って実家から足が遠のいて、半年近く会わなかった両親とか。手をつけ始めて放り出してしまった仕事とか。でももう、諦めがついた」
長い時間は、わたしの"帰りたい"という思いを風化させてしまった。
ここで生きることを楽しいと感じている。手放し難い交友関係ができた。わたしを愛してくれる零さんに、恋をした。そして、何もかもを投げ出せるほどに、愛してしまった。
「死ぬのが怖くないわけじゃない。痛いのだって多分わたしは耐えられないし……苦しければ無様にのたうち回るでしょうね。それでも……零さんが生きてくれるのなら、わたしは守られなくたっていい。だから、どこにも逃げないわ」
赤井さんは"わたしの希望を優先する"と言っていた。身を隠している赤井さんに、リスクを負わせるような真似もしたくない。
だから、守られることも望まない。
「……恨まないの?」
コナンくんが、聞くに堪えないといったようすで口を挟んだ。
その声には遣る瀬無さが滲んでいて、諦めないでくれと説得されているような感じもあって。
後部座席を振り返れば、苦しそうに眉を寄せてわたしを睨むようにして見ていたコナンくんと目が合った。
「恨むって? 誰を?」
いつも通りに笑って答えると、コナンくんは奥歯を噛んだ。
「公安警察は……千歳さんとの約束を破ったんだよ?」
「零さんには、どれだけ危険か――話が広まればどんな人間が欲を出すかわからないって、教えられていたもの。端から信用なんてしてなかった。やること為すこと予想通り過ぎて、いっそ笑えてくるぐらいだわ」
「安室さんは、千歳さんにひどいことを言って突き放す気だよ。そうやって、千歳さんを放り出す気なんだよ」
わたしが感情的になるように。そんな言葉選びだ。
でも、乗ってあげる理由もない。
「嬉しくてしょうがないわよ。零さんにどれだけ愛されてるか、痛いほどにわかったもの」
そう、痛いほどに。
零さんの気持ちはわかった。故郷に諦めはついた。
零さんは一緒にいることを選んでくれなかったけれど、苦しむことを選べた。
「いっそ使い尽くして始末してくれるような下衆なら、わたしだって……もっと楽になれたのにね」
コードをプレーヤーに巻き付けて手遊びの片づけをしていると、ぽんと頭を撫でられた。
赤井さんの大きな手が、不器用に髪を掻き乱した。
「だが、君はそんな男を好きにはならなかっただろう?」
「……そうね。優しいひとだったから、好きになった」
彼が優しかったから、わたしのせいで苦しんだ。
何を、間違えたのだろう。零さんだけを信じていると言えなかったことか、恋人になることを了承してしまったことか。オットマー・トラウト逮捕のために協力することを選択したことだろうか。
わたしが、ここで好きなように生きてきてしまったことだろうか。
もう一度後部座席を振り返って、答えを返すことにした。
「……誰のことも恨んでないけれど、後悔はしてる。わたしの命でけじめがつけられるのなら、それでいいの」
「良くないよ! 灰原はどうなるんだよ、ボクだって、千歳さんがそうやって死んじゃうのは悲しいよ! エドガーさんや宇都宮さんだって、千歳さんのことを大事にしてるのに! どうして自分を大事にしないんだよ!」
赤井さんが、ボウヤ、と落ち着いた声で窘めた。
小さな体で叫んだコナンくんは、荒くなった呼吸をそのままにわたしを睨んでいた。
コナンくんの正しさは、まっすぐで眩しい。
誰も死なない未来が欲しい。そんなのは、わたしだって同じだ。
「――何かひとつだけしか選べないのなら、わたしは零さんを選ぶ。わたしは零さんを殺してまで生きていたくない。理由はそれだけ」
これが零さんを苦しめた報いだというのなら、尚のこと受け入れられる。
今ここで、彼に死なれるわけにはいかない。わたしが"知る"未来のためにも、わたしが望む未来のためにも。
コナンくんはぎちりと歯噛みして、シートに拳を叩きつけた。
「……ボク、諦めないから」
赤井さんは口角を上げて、"好きにさせてあげよう"と囁いた。越えてはいけない一線は、赤井さんが弁えてくれるだろう。反対しすぎて一人で突っ走らせたくもない。
赤井さんには、心労をかけてばかりだ。
「ボウヤなら、欲張りを押し通せる手段を思いつくかもしれんな」
それが希望的観測でしかないことを、わたしも赤井さんも理解していた。
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