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サービスエリアでわたしのことを話した後、赤井さんは車に新品の煙草の箱を投げ込んで零さんに"話がしたい"と言外に伝えた。そして、コナンくんにわたしを遠ざけるように指示をした。
そうして、煙草を吸いつつ他人のフリをしながら交わされた会話だ。
足音の後、マッチを擦る音がした。先に喫煙所に着いた赤井さんが立てている音か。その後、もう一人分の足音が聞こえて、今度はライターで火をつける音がした。
『用件は』
落ち着きのある零さんの声が聞こえてきた。
赤井さんを前にしても、激情を露にすることがない。ひどい違和感だ。
『君と千歳のことだ。俺の感じたことが間違っていないのなら、君達は……』
『交際中だと言いたいんでしょう、合っていますよ。上にも報告はしています』
『身辺調査があったはずだろう。通ったのか』
警察官に交際に関する報告の義務があるのは知っていた。
どうせ何もわからない、通るかも怪しいなとは思っていたけれど。
零さんは上から許可が下りなかったとも言わなかった。
『条件付きで。近親者はいない、本人にも犯罪歴や危険な思想はない。……あとは、千歳を飼い慣らしたいという上の思惑ですよ。上には詳細に伝えていない異常な語学力を差し引いても、彼女が持つ人脈は有益です。特に、エドガー・クラウゼヴィッツ氏と宇都宮貴彦氏は、家族ぐるみで彼女に入れ込んでいる節がある』
『……それを千歳は』
『知るわけないでしょう。そんな思惑は知らなくていい、いずれは帰るのだから――そう考えていましたから』
過去形なのが引っかかる。
赤井さんが新しい煙草に火をつける音がした。一口目を吐き出す間、沈黙が下りる。
『わからんな、君は本当に千歳を好いているのか? 別れを前提とした付き合いであんなに甘やかして……後のことは考えているのか』
『その点については、僕も自分のことを最低な男だと思っています』
きゅ、と心臓を締めつけられるような感覚がした。
『千歳が僕以上に愛せる男を見つけなければいい。そう思って、とびきり甘やかしてきたんですから』
「……!」
零さんは、どんな顔をしてこの言葉を口にしたのだろう。
好いてくれていることは信じられるようになった。だけど、ここまでだなんて思わなかった。
『……なら、なぜ今になって俺やボウヤを頼ったんだ。千歳は秘密を暴かれることに怯えていた。それを裏切るように俺たちに調べをつけさせ、"千歳を傷つけない"という約束をボウヤと取り交わして、ボウヤが仕掛けた発信器も見逃した。……そうまでして、君は何がしたいんだ』
赤井さんが口にした"約束"というのは、わたしを傷つけないことだったらしい。コナンくんの話し方について、わたしを追い詰めないようにしてくれていると感じた理由は、これだったのだろう。そして、赤井さんは不用意な発言を避けようと口を閉ざしていた。
零さんが何をしたいのかわからないのは、赤井さんも同じだったようだ。
『できることなら、手放したくなんてなかったんですが』
今度はライターで火をつける音がした。煙を吐き出す間の沈黙が、いやに長く感じる。
『千歳を、僕から逃がしてやりたい』
その言葉は、弱々しかったのに、わたしの鼓膜を強く打った。
自分以上に愛する存在をつくらないでほしい。でも、自分からは逃げてほしい。
どうしてそこまで、彼らしくもなく矛盾した発言をしたのだろう。
『僕の"巣"は、千歳の身分証明書を預かっていたんです。"自由に調べても構わないが、きちんと保管して、帰れることがわかったら返却してほしい"。その言葉に頷いて、要求の方が多いことを気にした千歳に今後もでき得る限り協力をしてもらえるように頼みました』
『…………』
『預かったのは運転免許証、健康保険証、キャッシュカード、クレジットカード、それから帰る手掛かりになるかもしれない定期券と時刻表。どれを調べても、偽造されたものではないことと――彼女の本籍地や住所地、勤めていた会社、利用していた金融機関やカード会社が存在しないことがわかっただけでした』
『君は、"千歳を逃がしてやりたい"と言ったな。君の"巣"は、それほどまでに信用できないのか』
赤井さんは遠慮容赦なく切り込んでいく。
余計なお喋りで時間を稼ぐことを、咎めるかのように。
零さんは短く溜め息をついた。
『……流石に鋭いですね。えぇ、はじめに定期券と時刻表がなくなりました。スキャンしたデータについても、USBメモリは破壊され、僕のスマートフォンにまでハッキングして消されていた。……電車に関するものがヒントだと知っていて、そこまで高度なことをできる人物は――僕の"巣"の中では、一人しかいない』
零さんは、これまでわたしにしっかり隠し通していたらしい。預けた物がなくなっていただなんて、少しも知らなかった。
彼の言葉から推察するに、それをやったのは藤波さんだろうか。わたしに関する真実は、ごく少数の人間しか知らないと教えられていた。その中で、機械に強い零さんの、更に上を行くような技術を持っている人間なんて、一人しかいない。
ストーカーの一件のあと匿ってもらったホテルでの謝罪は、零さんより上の人間の思惑に噛まされていることに対して。その後も多分、同じ。
『それから間もなく、健康保険証、キャッシュカードとクレジットカードがなくなりました。昨今の社会で最も身分証明に役立つ運転免許証ではなく、これらを狙った理由が……"元の場所に帰れたとしても、生きていくのに困ればいい"というメッセージを送りたかったからなのだとすれば。千歳が僕に半ば依存して力を貸してくれているのをいいことに、利用してやろうという魂胆も見えてきます。すぐに残された運転免許証を"巣"から引き上げて、千歳を遠ざけた状態で信頼の置ける部下に捜索させました』
『見つかったのか』
『えぇ。翌朝まで見つからず、一度は切り上げるように命令した後も、熱心に探してくれたようなんですが――使えないほどに切り刻まれた状態で、元の場所に戻されていたそうです』
きっと、あのデートのときだ。あの日の夜の重ねた謝罪は、わたしが預けた物を"紛失"してしまったことに対してのもの。
零さんは水族館でわたしに聞かせないように電話をしていたし、翌朝も"もういい、切り上げてくれ"といったような発言をしていた。
探してくれていたのは風見だろう。ここまでの話に噛んでいるのなら、防犯カメラの映像の保存期間についてだって嘘をつけたはずだ。
零さんは、わたしの身の安全に関して、風見以外を信用していない。
そして、この件に関してだけは、赤井さんを信頼している。
"千歳にとって、あの二人は信頼できない人物か?"
"まさか。零さんの次に信頼できる人たちだと思ってるわ"
わたしの言葉に相槌を打った零さんの声は、何かを諦めたようだった。
自分の手では守れない。わたしが赤井さんたちを信頼できる人物だと言った。――だから、自分の手で守ることを諦めた。
零さんは、"零さんだけを信じている"と言ってほしがっていた気がした。わたしが彼の望む答えを返せたのなら、もう少しだけでも、諦めずにいてくれたかもしれない。
彼が悩んだ末に諦めたんじゃない。わたしが決定打を放ってしまった。答えを間違えたのは、わたしだった。
わたしが彼を、諦めさせてしまったのだ。
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