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 零さんはわたしを床に座り込ませたことを謝って、ソファに落ち着かせてくれた。
 言いたかったことを言えてすっきりしたのか、零さんの表情はいつも通りだ。

「千歳は……今も、帰りたいと思ってるのか?」

 投げかけられた問いに、首を横に振った。
 すんなりと返せる答えに、自分でも驚いた。

「……帰るのが、怖いの。元の場所に戻ったとして、ちゃんと生きていけるか不安で。……零さんと会えなくなるのも、怖い」
「……そうか」
「向こうには家族もいるのに、薄情だって思う?」
「いや。……人は忘れる生き物だ。生きるのに精一杯で、ホームシックになるのも避けて、考えないようにしていたんだろう。意識しないと、接触しなくなった人物を覚えているのは難しい。覚えていれば情が深いとは思うが、覚えていないから薄情だとは思わないさ」
「……うん」

 零さんはわたしの頭を一頻り撫でると、"夕飯を作るから"と言ってソファから立ち上がった。
 そしてわたしが取ることの叶わなかったエプロンを手に取り、少しサイズの小さいそれを身につける。

「夕飯、うどんが良かったのか?」
「え? ……あぁ、買い出しに行ってなくて、出るのも面倒で……冷蔵庫にあったのを食べようかと思って」

 キッチンに立って手を洗った零さんは、呆れた顔をした。

「最近そんなのばかりだっただろ」
「……うん。あ、でも今日は月見うどんにしようとしてた」
「卵を割るだけだな。いや、ゼリーで済ませていないだけ褒めるべきか……?」

 零さんは眉間を揉んで、調理台の上に置いた袋の中身と出したっきり放置されていたうどんを冷蔵庫や戸棚に仕舞い始めた。
 結構な量買い込んであるのに、全部置いていく気なのだろうか。
 買い物に行っていなければお金も下ろしてない。財布の中がだいぶ寂しかった気がする。……お金を返すのは明日にしようか。

「金はいい。しばらくここに泊まるからな。そっとしておくと悪い方向にばかり勘違いしてしまうことはよくわかった」
「え」
「困るか?」
「……泊まるのは、いいんだけど。なんで問い詰めるような真似したのかなって……」

 買い物袋を見ているわたしが何を考えているのかすぱっと当ててきたのに、さっきの察しの悪さは何だったんだ。そう疑問を覚えてしまうのも仕方がないと思う。

「千歳の口から、何を考えているのか聞きたかっただけだよ。いじらしい問い詰め方だったじゃないか」
「なっ、か、からかってるの……!?」

 零さんはくすりと笑いながら、お米を研ぎ始めた。

「からかってるよ。別に嫌だとは思っていないからな」
「……そう」

 ソファに転がっているクッションを掴んで、膝とお腹の間に挟んで膝ごと抱え込む。
 冷静になると、癇癪を起こしたみたいで恥ずかしかった。
 結局一番聞きたいことは聞けずじまいだったな、と思う。零さんは"手放したくないのは本当だ"と言ってくれた。だけど、"手放さない"とは言わなかった。
 望むこととやることが違うだなんてことは、ありふれている。そうしたくなくても、やらざるを得ないことだってある。
 零さんが嘘をつかないようにと気遣ってくれているからこそ、そんな些細な違いが気にかかった。
 ぼんやりしていると、いい匂いが鼻腔を擽ってきた。
 手持無沙汰でもあったので、クッションを脇に置いてソファから立ち上がり、カウンターに近づく。
 カウンターテーブルに両腕を載せてキッチンを覗き込むと、零さんがくすくすと笑った。

「味見するか?」
「する」

 零さんが作っていたのはきんぴらごぼうだった。
 ごぼうと人参を一切れずつ、箸で口元に持ってこられる。
 ぱくりと口に含んで咀嚼した。細く切られた野菜に程よく醤油が絡んで、いいおかずになりそうだ。

「おいしい」
「良かった。いつもの癖で作ったからしょっぱいかと思ったが、大丈夫そうだな」
「確かにちょっと濃いけど、おいしいよ。晩酌するの?」
「時々な。千歳はビールも日本酒も飲まないからなぁ。実はビールを買ってきて冷蔵庫に突っ込んだんだが」
「どうぞお好きに飲んでください」

 並行して作られている鶏肉の煮物やわかめのお味噌汁も、とても美味しそうだ。
 早炊きでしかけられていた炊飯器が、お米が炊けたことを知らせてくる。
 流石に手伝おうと思い立ち、食器棚から来客用の食器を取り出した。元々がファミリー向けに造られているマンションのキッチンだから、後ろをうろついていてもぶつからない程度に広いので助かる。
 手際よく調理を進めていくのを眺めていると、"もう少し我慢な"と子どもみたいに窘められてしまった。
 そんなに物欲しそうに見ていたのだろうか。

「手際がいいなって思って眺めてただけですー!」
「はは、からかい甲斐があって楽しいな、千歳は」
「またからかったの……!?」
「そう拗ねるなよ。テーブル拭いてくれるか?」

 手伝いならちゃんとしないと。
 調理台の隅に置いていた布巾を手に取って、水道のコックに手を伸ばした。

「わかったわママ」
「せめてパパで頼む。いや違う、そうじゃなかった。もっと恋人に呼びかける感じだろうそこは」
「……"pretty"?」
「千歳、からかってるな?」

 "pretty"は一般的には女性に対して使われる呼びかけだ。あからさま過ぎたかな。

「仕返し」
「……降参だ」

 零さんは苦笑して、調理を終えたきんぴらごぼうや煮物を器に盛りつけ始める。
 テーブルを拭いたらお役御免にされたので、お風呂の準備でもしておこうと浴室に向かった。

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