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 零さんの絶望したかのような顔を見て、少しだけ溜飲が下がった。
 端から答えを得られるなんて思っていない。
 もう、十分だった。
 何にも気がついていないと思われていたとか、深く関わりすぎたことを後悔しているんだろうとか、そういうのがわかったから。
 気がついていないと思っていたから何も説明しなかった。でもきっと、説明しようとも思っていない。
 わたしが半ば依存するかのように頼りきりになっていたことを、零さんは自覚していなかった。だから恙無く手放すことができなくなっていることを悟って、絶望した。
 零さんの心がないのなら、もうそれでいい。
 わたしに残ったできることは、彼が疑われないように振る舞うことだけ。利用されてあげることだけ。
 何もわからないことが嫌だった。わかった今、涙もすっかり引っ込んで、普通に笑えていた。
 重ねられた手を抜き取って、椅子を下げて席を立つ。

「……ポアロにはちゃんと行くわ。わたしが逃げたって思われたら、お互いにとって良くないもの」

 頬を濡らした涙の跡を指で拭ってそう告げて、食事の準備をするために、零さんが座っている椅子の背凭れにかけたままだったエプロンに手を伸ばした。
 しかしエプロンに伸ばした手は触れることが叶わず、零さんに手首を捕まえられてしまった。

「……なぁに、降谷さん」

 いつもの調子を崩さずにそう呼ぶと、じろりと睨まれた。
 でも、もう怖いとも思わない。
 沖矢さんの――否、赤井さんの言葉は正しかった。刹那的だと判断したものに対して、わたしは感情的になれない。手放さないでいてくれると思っていた。少なくとも、元の世界に帰るまでは。でもそれが、叶わない夢なのだと理解してしまった。あとはもう、それに必死になることは労力の無駄遣いだ。
 彼に触れられて嬉しいと思うこともまた、事実なのに。

「……はは」

 乾いた笑い声が聞こえて、首を傾げた。
 零さんは椅子を引いて体をこちらに向けると、突然わたしの右足を払ってきた。
 まさか暴力を振るわれると思っておらず油断していた体は、力強い足払いに耐えられず膝がくず折れる。
 驚いて緩んだ脇の下に手を差し入れられて、そっと座り込まされた。強引に座り込ませるくせして、痛みのないように気遣われているとわかりやすくて。零さんの怒りがどうなったのか、さっぱりわからない。

「何を……」

 両手で頬を挟まれて、上を向かされた。
 体を折った零さんの顔が視界の中心を陣取る。

「え……?」

 零さんは、眉を寄せて目元を緩ませ、ゆるりと口角を上げていた。涙が出ていると錯覚するほどの、――涙が出ていないことが不思議に思えるほどの、こちらの胸を締めつけるような"泣き笑い"だった。

「俺は……どうしようもない男だ。千歳が塞ぎ込むほど俺のことで悩んでくれたことに喜んで、用事がなければ会いに来ようとしない人間だと思われていたことに腹を立てて。……名前を呼んでもらえなくなることが、惜しくて仕方がない。自分勝手で狭量な……どうしようもない、男だ」

 あぁ、怒っていた理由はそれだったのか。
 ぼんやりとそう考えて、顔を見つめる。
 零さんは苦しそうに顔を歪めて、椅子から降りて私の体を痛いほどに抱きしめた。

「信じさせてやれなくて、こんなになるまで追い詰めてごめんな。もう、疲れきっていたんだな」

 "疲れきっていた"――言われてみると、自分の今の状態にぴったりな表現だと思った。
 窮屈な腕の中で頷くと、後頭部を撫でられた。

「気づいてはいたんだ。風見に電話をしたと報告を受けたときからな。だから風見を警護に当たらせて、様子を見ていた。安室に会いに来ないことに怒っていたわけでもない。多少間が空いたって、言い訳なんかいくらでもできる。少し……千歳が落ち着いて考えるための時間をつくってやりたかった。そうしたら塞ぎ込んだ様子で、ここ最近は買い物にすら出かける気配がない。ネットスーパーを利用しているわけでもなさそうだった。それで心配になって会いに来ようと思った。必要なら食事も作ってやる気でな」

 持ってきていたスーパーの袋の中身は、わたしのために買ってきたものだったらしい。

「数日前は"予定が空いてなくても会う"と言ってくれていた千歳が、夜にするだとかの譲歩もなく断るのはおかしいと思ったよ。脅かして強引に会いに来たのも良くなかったな、余計に不安にさせただろ。ごめん」

 怒っていたのはわたしが零さんの好意を"用事がなければ会いにこない程度のものだ"と思っていると考えてしまったから。
 ここ最近のわたしへの心配も重なって、わたしに会うのに強引な手段を取ってしまった。
 すべてわたしへの好意や心配からきた行動だとわかって、責める気もなくなってしまう。
 首を横に振ると、零さんはほっとしたような小さな溜め息をついた。

「それと、これが一番大事なことだが……千歳のことを好きなのも、手放したくないのも嘘じゃない。本当のことだ。だが質問には答えられない……言えないんだ。言えないんだよ、……千歳」

 苦しそうに告げる声に、何を伝えたいのか察することができた。
 丸められて普段より小さく感じる背中に手を回すと、ぴくりと零さんの体が動く。でも、振り払われはしなかった。

「言わないんじゃなくて……、言えないのね?」
「あぁ」

 苦し気な、でも力強い返事に、ほっと息を吐く。
 今の関係に、零さんの心が伴っていないわけじゃなかった。
 それがわかっただけで、救われた気分だった。

「……いいよ、だったら言わなくていい。何も聞かないから……もう謝らないで。わたしもごめんね、零さんのこと、苦しめてた」

 何かにつけて謝るほどに、零さんも苦しんでいた。
 自分のことで精一杯で、知っていながら気づけなかった。わたしだって十分、自分勝手だった。
 お互い様だと謝ると、零さんはわたしの肩に額を擦りつけて、こくりと一度だけ頷いた。

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