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 チェーンロックはかけたまま、ドアを開けて訪問者を確認する。零さんであることがわかって、チェーンを外してドアを人が通れる幅まで開くと、零さんはするりと入ってきてドアを閉め、鍵をかけた。
 かさかさと音がすると思ったら、近所のスーパーのビニール袋を左手に提げている。
 零さんは無言のまま上がり込んで、持っていた袋をキッチンの調理台の上に置くと、部屋のチェックをし始めた。それを見守っているうちに、ブランケットやマグカップを綺麗に片付けていないことを思い出す。
 ちょっとだらしないと思われるだけなら、まだいいけれど。いやだめだ、作り始めの夕飯がうどんだけなことに気づかれたかもしれない。体調が悪い人の行動パターンだ。
 一通りのチェックを終えると、零さんはそばに立っていたわたしをダイニングチェアに座らせた。寛いで話をしたいわけではないらしい。
 脇に立ってテーブルに手をつくと、無表情に見下ろしてくる。……取り調べをされる気分だ。

「千歳。仕事が立て込んでいるんじゃなかったのか?」
「……立て込んでるのは本当。行き詰まったから休憩していただけ」

 嘘だろうと何だろうと、まっすぐに目を見て答える。
 尤も、まったくの嘘ではない。零さんに対して後ろめたい思いがないかと言われれば、それには頷きかねるけれど。

「警護に当たらせていた風見から報告があった。ここ数日、買い物にも行っていなければ宅配便だって届いていないだろう。何か塞ぎ込むようなことがあったのか」

 気づいているだろうに、白々しい。
 多分零さんは、カメラの映像の保存期間について風見に口止めをすることができなかった。大きな案件のために動いている最中に、別件の、それも些末なことで連絡を取ることは控えていたからだろう。連絡が取れるようになったときに、零さんより先にわたしが電話をかけた。映像は保存期限を過ぎてとっくに消されているはずなのに、それを赤井さんが入手していたことを知ってしまった。
 それだけの情報でも、わたしが違和感を抱いていることに気づけているはずなのに。コナンくんたちと何かやり取りをしているのなら、コナンくんとわたしのサービスエリアでの会話だって筒抜けのはずだ。

「……あった」

 嘘をついても仕方がない。正直に答えると、零さんは向かいのチェアに座って視線の高さを合わせた。

「何があったんだ」

 本当にわからないのか、意地悪で訊いているのか。
 テーブルの上に置いた手を握って、発する言葉を考えた。
 でもだめだった。
 悪い方向にばかり考えてしまう頭は、零さんを問い詰めるような言葉しか浮かべてくれない。
 言わなきゃ伝わらないって、わかっているけれど。これまでずっとわたしを甘やかすみたいに先回りしてくれていたから、改めて言うのが怖くなっていた。
 本当に気づいてほしいことには気づいてくれた。だから言わずに済んでいた。――これも本当に気づいてほしいことだって、わかってくれているはずなのに。

「千歳」

 悪い子を叱るような呼び方に、手に力が入って爪が手のひらに食い込んだ。
 制することもできずに落ちた涙に、零さんが目を見開く。
 それなのに、口角は上がった。困らせたくないから、あんまり深刻にならないように、笑わなくちゃ。

「……零さんのことが、わからなくなっちゃった」

 自覚はしていた。取り繕うことができないほどに、ぼろぼろになっていると。
 人は、他者のことはまず声から忘れていくという。疎遠だった友人、親しかった友人、職場の上司や同僚や後輩、――そして両親。彼らの声を忘れていることに最近気がついて、帰ることが怖くなり出していた。
 こんな薄情な自分を、誰が受け入れてくれるだろう。
 今、わたしはどんな扱いになっているの?
 いっそのこと七年経って、死亡扱いされた方がいいんじゃないか。こんなに長期間失踪したら、職場復帰は難しいどころか解雇されていて、きっと社会復帰にすら苦労する。そうなったら、面倒を被るのは間違いなくわたしの両親だ。失踪している間のことだって、説明できる自信はない。
 こちらの世界で生活基盤が完成してしまった今、元いた場所に帰る方が苦痛が多いのではないかと考え始めてしまっていた。
 それなのに、ここにきてその基盤を支える存在だと言っていい零さんが、不可解な行動を取り始めた。
 最後の思い出づくりみたいにデートをして、コナンくんたちがわたしにとって信頼に足る人物であることを確認してすべてを調べさせた上で、自分の手助けがなくてもわたしが二人と対峙できることを確かめて。
 ――まるで、手放すための準備だ。
 元の世界に帰ることを恐れてしまっている今、零さんにまで見放されてしまったら、わたしはどうなる?
 そこまで考えたときに、理性が思考にブレーキをかけた。
 きっとそれが、わたしがわたしでいられるギリギリのラインだった。

「どうして……わたしのことなのに、何も教えてくれないの。コナンくんたちと、何を約束したの。……わたしを、"手放したくない"って言ってくれたのは、嘘だったの? どうして、信じさせてくれないの……!」

 矢継ぎ早にぶつけた問いに、零さんは目を見開いて固まった。けれどもすぐに持ち直して、身を乗り出して机の上で握り締めたわたしの手に自分の手を重ねてきた。

「俺のことで……そんなに悩んだのか」

 頷くと、零さんは重ねた手をぎゅっと握ってきた。
 焦点の合わない目。引き結ばれた唇。絶望したかのような、表情だった。

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