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 翻訳の仕事をしている最中、零さんから電話がかかってきた。
 最近はポアロにも足を運んでいなくて、杯戸市に出かけたついでに風見と情報媒体のやりとりをすることが増えた。
 いい加減避けていることに気づかれているだろうとは思いながらも、会って口を開けば零さんを問い質してしまいそうで、それで鬱陶しがられるのが怖くて。
 そうやって会うのを先延ばしにしていたら、零さんの方が痺れを切らしたらしい。
 通話ボタンをタップして、スマホを耳に当てる。

「穂純です。どうしたの?」

 自分の口から出た声は、思いの外普通だった。……取り繕うのが上手くなっただけだろうか。

『降谷だ。明日会えないか』
「あー……ごめんなさい、ちょっと仕事が立て込んでて……」

 嘘ではない。考え込むことをやめたくて、エドから翻訳の仕事を大量に受けたのだ。取引先がたくさん増えるらしく、契約書を作成してほしいという依頼だった。
 各国の契約書の慣習だとかの調べ事も多いので、時間もかかっている。
 明日休んだぐらいでどうにかなってしまうような仕事ではないけれど、口をついて出たのは断り文句だった。
 少し前なら無理をしてでも会ったのに。きっと記憶力の良い零さんも疑問に思ったはずだ。

『それなら仕方ないな。……無理はしてないか?』
「うん、楽しいから平気」
『そうか』
「何か受け取るものでもあった?」

 仕事の依頼なら、少し無理をしてでも受けないと。
 そう思って投げかけた問いに、電話の向こうでほんの数秒、沈黙が降りた。

『……いや』

 あってもなくても軽い調子で即答されると思っていた問いに、低い声での返事がされる。

「……?」
『あまり根を詰めるなよ』

 訝しく思って首を傾げていたら、調子の戻った零さんの声が頑張りすぎることを窘めてきた。

「うん、ありがとう」

 通話が終わったことを確認してから、スマホをデスクの上に置いて溜め息をつく。
 頬杖をついて、転がるアザラシのぬいぐるみを指でつついた。
 会わないと、零さんがわたしを取り逃がしたと組織から疑われる可能性だってある。けれども会うことを強制してこないのは、どうしてだろう。
 考えれば考えるほど悪い方向に思考が働いてしまって、気分が落ち込む。

「……殺処分、なんてわけないよね、ふふ。いや笑えない、笑えない……」

 ぽろぽろと涙が落ちるのは、悲しいからか、怖いからか。自分でもよくわからなくなってしまった。
 立て込んで忙しいと言ったくせに、仕事が手につかない。
 進めるのは諦めて、書類を棚に仕舞い書斎から出た。
 電子レンジで蜂蜜を入れた牛乳を温めて、ホットミルクを作る。
 ソファの上でブランケットに包まって、甘いホットミルクをちびちびと飲んだ。マグカップを空にして、ソファに横になる。
 お昼寝しよう。眠れば、少しは思考だってマシになるはずだ。
 ブランケットの中で丸くなりながら、ぬくぬくとした温かさに身を任せて目を閉じた。


********************


 昼寝から目を覚ますと、部屋の中は薄暗くなっていた。時計を見れば、今が夕方であることがわかった。
 リビングのカーテンを閉め、洗面所で涙の跡を洗い流して少しさっぱりしてから、放置していたマグカップと蜂蜜を混ぜるのに使ったスプーンをシンクに置いた。
 ……夕飯、何か考えないと。そう思い至って冷蔵庫を開けてみると、料理を作るのが面倒な時に茹でているうどんぐらいしかまともな食材がなかった。
 明日は流石に買い出しに行かないといけない。そう思いながら、うどんを取り出す。季節でも何でもないけど、卵もあるし月見うどんにしようかな。
 少しだけ食に楽しみを見出しつつ、エプロンを着けて戸棚から鍋を取り出したところで、来客を知らせるチャイムが鳴った。
 誰だろう、今は人に会いたい気分じゃないのに。
 少し湿っていた手をしっかりと拭ってから、エプロンを外してダイニングチェアの背凭れにかけ、インターフォンのモニターをつけた。

「!」

 来客は零さんだった。安室さんの顔をして立っているのが妙に怖い。なんだかいつもと雰囲気が違う。
 居留守を使ってしまいたい。でも、彼にはできるだけ嘘をつきたくない。ベランダのすぐそばに隣の建物があるとはいえ、電気が点いていることぐらいはわかってしまう。
 ためらっていると、ローテーブルの上に置いていたスマホが着信を知らせた。モニターを見ればスマホを耳に当てている零さんの姿が映っている。あ、これ確実に零さんだ。
 スマホを手に取って画面を見ると、予想通り零さんの番号からの着信だった。
 恐る恐る通話ボタンをタップし、スマホを耳に当てる。

「あの」
『開けろ』

 わたしが声を発して通話音声を聞いていることを確認した瞬間、怒気の込められた低い声がドアを開けるように命令してきた。
 探りを入れられているときですら物腰だけは柔らかかったから、驚いて固まってしまう。
 モニターを見ると、カメラをきつく睨んでいて。視線が合っているわけでもないのに、カメラ越しに睨まれていると錯覚してしまうほどだった。
 それっきり口を閉ざしてしまった零さんに対して、通話を一方的に終える勇気もないわたしはエントランスの自動ドアを開けた。
 ぶつ、と通話を切られた。
 背後はしっかり気にして入ってくるところからして、怒っているけれど冷静ではある気がする。
 そんなことを考えて現実逃避をしていたら、玄関のドアをノックされて肩が跳ねた。

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