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 約束のとおりカルーア・ベリーとガトーショコラを携えて部屋に入ってきたのは、褐色肌と明るい髪の色が目立つ、眉目秀麗な男性だった。


 風見さんには、わたしから名乗るから部屋に入っても口を開かないようにしてほしいと伝えてあった。それはちゃんと目の前の彼にも通っていたらしい。
 口を閉ざしたままの彼からは、素なのか、それとも他の誰かを演じようとしているのかは感じ取れない。
 彼が扉を閉めて内鍵をかけたことを確認して、諦めて名乗ることにした。

「はじめまして、穂純千歳です。暗号がちゃんと解けたようで何より」

 "安室透"と名乗るなら、"自分を謀ろうとする雰囲気を感じた"と言って約束を反故にしよう。
 わたしの唯一のアドバンテージ。彼の正体を知っている、信頼できるかの判断材料がある。
 グレースーツを着た彼は、ローテーブルにトレイを置くと、部屋の中を一通り確認した。盗聴器の類がないことを確かめたのだろう。
 そうして身元がわたし以外に割れる心配がなくなると、こちらを向いて姿勢よく立った。
 彼は人のいい笑みは向けてこない。視線は冷徹でなく、真摯なものだ。

「はじめまして。警察庁警備局警備企画課の降谷零といいます」

 ――まさか、こんなに簡単に彼が出てくるなんて。
 提示された警察手帳について、スツールから立ち上がって"しっかり見せてほしい"とお願いすれば、特にためらいもせず応じてくれた。
 風見さんが、ひいては彼に指示を出している組織が、わたしの信用を得ようとしていることはわかった。
 リスクを冒してでも本当の身分を明かすことで、誠実さを示そうと考えていることも。
 だけど、……だけど。

「笑えない冗談ね。まさか本当に来るだなんて思わなかった。あなたが本当に警察官なのだということは信じるわ。暗号をつくって警察庁に持ち込んだのはわたし自身だもの。……でも、わたしの経歴がおかしいことだらけだってことぐらい、自分でわかっているつもりよ。それについてはどう考えているのかしら」

 何も疑問に思わなかったのなら、その程度だということだ。
 エドや宇都宮さんにわかったことが、警察にわからなくてどうする。
 挑発的に笑って返すと、降谷さんは言葉を選ぶようにして口を開いた。

「確かに、あなたはパスポートがないため正式な出国もできず、海運会社を営むクラウセヴィッツ氏との交流が始まったのも四ヶ月ほど前。既に七ヶ国語の翻訳・通訳を請け負っている――つまり、仕事とできるほどのレベルで身につけているというのはおかしい。特に、通訳ができるほど精通しているということが。……これに関しては、あなたの法務局への相談記録も疑うべきと見ています。ですが、我々には時間がありません。トラウトを、なんとしても四日後に捕まえたい。多くの人の命にかかわります」

 法務局の相談記録も調べることができているのなら、アルバイトでようやく食いつないでいたという話も知っているだろう。そんな状況で、一ヶ国語をマスターできるような高度な教材をいくつも買えるのか、という話である。となると、エドの手引きで密出国した、それか就籍許可を得てからパスポートをつくって海外に行った線が残るけれど、そうなると時間的にわたしが七ヶ国語も身につけているのはおかしいのだ。渡航記録もないだろうし。
 わたしが経歴をごまかしていることについては、白ではないとはっきり認識しているのだろう。
 そのうえで、組織とその勢力を増長させようとするトラウトの存在の危険性と、単に経歴をごまかしているだけで、あとは信用商売の通訳・翻訳業をリピーターをつくって続けているわたしの危険性を秤にかけて、とりあえずわたしの協力を得てトラウトを阻止したい、という考えに至ったわけか。
 経歴に関して見落としたわけではなく、そのうえで協力を望んでいることもわかった。

「……いいでしょう。あなた方警察に全面的に協力します。あなたの身分、わたしへの疑い。それらをごまかすようなら、適当に理由をつけて帰るところでした」

 挑発的な笑みも口調も消して答えると、降谷さんの口元にようやく笑みが浮かんだ。
 エドに電話をして、降谷さんがわたしの経歴を疑っていることも含めて説明をして、トラウトとわたしの危険性を秤にかけた結果の合理的判断で、ひとまずわたしのことを置いておいてトラウトの捕縛に尽力したいとの方針を示してくれたことを、降谷さんにもわかるようにスピーカーフォンの状態で、英語で伝えた。
 それに納得してくれたのはよかったのだけれど、"いい加減トラウトに付き纏われるのにもうんざりしていたところだ"と告げる声は普段より低く、つい苦笑して肩を竦めてしまった。
 じっと見つめられて、何かあるのかと首を傾げつつ、スマホを持たない手で発言を促す。

「もう一組潜り込めるようにしてほしいんですが」

 招待状を配り終わっている今、たしかに新たに参加させるのは難しい。
 少し考えて、ふとある人物が浮かんだ。

≪エド、宇都宮さんも誘っていたわよね≫
『うん? あぁ、誘ったよ』
≪トラウトがくることを伝えて、参加を控えてもらった方がいいんじゃないかしら。彼、奥さんを危険な目に遭わされているし。警察でもう一組潜らせたいらしいから、無駄にはならないわ≫
『そうだな、宇都宮君にはすぐ連絡しよう。少し非常識な時間かもしれんが、まぁ慌ててみればいいだろう』
≪そうね。明日の十時から……警察庁とか警視庁は、トラウトの尾行があるとまずいし。わたしの家で打ち合わせしましょうか≫

 降谷さんに視線で尋ねると、頷きを返された。
 エドはそれより早く宇都宮さんに会って、招待状を回収してくるらしい。

『住所は変わらないかい?』
≪変わらず米花町のマンションよ。入り口のインターフォンで呼び出してちょうだい、お迎えに上がるわ≫
『了解したよ。それじゃあ』
≪えぇ、おやすみなさい≫

 通話を終えて、ふぅと息をつく。
 緊張で知らず知らずのうちに渇いていた喉を、カルーア・ベリーを飲むことで潤す。
 氷が溶けてしまって薄まっていた。
 だいぶ汗もかいているグラスを、備えつけのコースターの上に置く。
 降谷さんとの会話やエドとの電話に気を取られて気づいていなかったのだけれど、トレイの上にはバーボンウイスキーのボトルとショットグラスが載っていた。酔わせて何か吐かせようとかいう魂胆じゃ、いやまさか。
 溶けちゃったし、別のでも作ろうかな、とグラスを手に立ち上がると、"やりますよ"と言ってグラスを取り上げられた。
 降谷さんは取り上げたグラスを一旦テーブルに置いて、ジャケットを脱いで背もたれにかけ、ワイシャツの袖も少し捲り上げる。
 そしてわたしのグラスと、ショットグラスを持ってカウンターの奥に行くと、シンクにカルピス色になったカクテルを流して二つのグラスをすすぎ、軽く拭いた。

「何がいいですか?」

 さっき冷蔵庫を覗いたとき、何があったっけ。
 ティフィンとマリブは記憶にある。ミルクティー風味と、ココナッツ風味。ちょっと迷って、ココナッツにした。

「マリブミルクで」
「はい」

 気になってカウンターに近寄り、向かいから頬杖をついて眺める。降谷さんはちらりとこちらを見たけれど、特に気にするでもなく作業を始めた。
 氷を入れて、マリブとミルクを注ぎ、軽くかき混ぜる。手慣れてるなぁ。
 いつも飲むのより濃いけれど、気にしないことにした。馴染みのバーテンダーの彼は、わたしがいつも"弱めに"と注文するからミルクを多めに入れてくれるのだ。

「疑われているのに協力してくださるんですね」
「経歴がどうあれ一応善良な市民ですので」

 どうやら腹の探り合いをしたいらしい。

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