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「……あぁ、わかった。もういい、切り上げてくれ」
零さんの声で目が覚めた。
滑らかなシーツが素肌を擽って、もぞりと動くと髪を梳くように撫でられる。
……すごかった、の一言に尽きる。お風呂から上がると、零さんは入れ替わりでシャワーを浴びに行って、わたしが髪を乾かす間に潮の香りを落としてきた。それから寝室に連れていかれて、本当に、何も考えられなくなるほど甘やかされた。
幸せで、きもちがよくて、だめになりそうで。夢みたいな、時間だった。
隣を見上げると、こちらを穏やかな表情で見下ろしていた零さんと目が合った。
「おはよう」
「ん、おはよう……電話?」
零さんは頷いて、スマホを枕の横に放った。
「もう終わった。朝食はどうする?」
彼を家に呼ぶことを想定していなかったので、食材の在庫の記憶があやふやだ。
何を買っていたかと寝惚けた頭をフル回転させて思い出しつつ、体を起こした。腰が痛い。脚も痛い。うぅっと唸ると宥めるように腰を撫でられた。
「昨日のスープがあるでしょ……んー……パン……食パンがあった気がする……フランスパンだっけ……?」
「何かしらパンはあるんだな。準備するから、シャワー浴びてこい」
零さんはくすくすと笑って、昨夜着ていたスウェットのシャツを渡してくれた。
端から泊まるつもりで後部座席に着替えを積んでいたというのだから恐ろしい。
それはともかくとしてありがたく受け取って、とりあえず頭からかぶって着た。
昨日着ていた服は洗濯して乾燥機にもかけていたから、零さんはその服を着て帰れる。
着替えがいるだろうと乾燥機から引っ張り出してきて服を渡したら、零さんに渋い顔をされた。
「……俺は朝から誘われてるのか?」
「何が?」
零さんは頭を振って、前髪をぐしゃりと掻き上げながらベッドから降りた。
「いやいい、俺の頭に花が咲いているだけのようだ」
パジャマと下着も拾い集めて、早々に脱がされたからまた着ればいいかと畳んだ。
パジャマはしまって、浴室に入る。下着は洗濯カゴにひとまず置いて、シャワーのお湯が出ることを確かめて、鏡を見て、はたと思い至った。
「……あ」
零さんの言葉の意味がようやくわかった。
ぶかぶかとはいえ、借りたスウェットの裾のラインはだいぶ際どい。寝惚けていたとはいえ見苦しいものを見せてしまった。
蒸し返すのもなんだし忘れることにして、零さんのスウェットも脱いで裸になり、シャワーを浴びた。誰に見られることもない。当たり前であり、幸福なことだ。
さっぱりして体を拭いたところで、着替えを持ってくるのを忘れていたことに気がついた。
「……零さーん」
「どうした?」
脱衣所の扉を少し開けて呼びかけてみると、すぐに返事がきた。
「着替えをね、忘れちゃって」
「……寝室のクローゼットか?」
「うん。今日は出かける予定ないから」
「わかった、少し待っててくれ」
パジャマもうっかりタンスにしまっていることは零さんも覚えているはずだ。
一人なら下着姿だろうと遠慮なく出ていったのだけれど。
居た堪れない気持ちで下着だけ身につけて待っていると、コンコンと脱衣時の扉がノックされた。少し開けると、服が差し込まれる。
「ありがと……」
渡されたのはブラウスとロングスカート。出かけない日はゆったりした服で過ごしているのを理解してくれている。
服を受け取って扉を閉めると、零さんが扉越しに声をかけてきた。
「目は覚めたか?」
「ばっちり。スウェットどうする?」
「洗濯してここに置いておいてくれるか」
「いいの?」
「また泊まりに来た時にあると助かる」
"今度"があるのか。泊まってもいい場所として認識してくれていることが嬉しい。
「わかった、置いておくね」
服を着終えて、髪がまだ濡れているので首にタオルをかけて、ヘアゴムで髪を緩くまとめてタオルの上に載せ、扉を開けた。
零さんはわたしの髪を見て、苦笑する。
「あぁ。もう食べられる……が、髪を乾かすのが先か。風邪をひく」
「ごめんね」
「いいよ、待ってる。いや、その間にシャワー浴びるかな」
やりとりはどこまでも穏やかで、どこか引っかかる。
水族館での電話。今朝の電話。別に彼が誰かと連絡を取っていても、不思議ではないのに。
いやな、胸騒ぎがする。けれど、その理由に気づけるわけもない。
わずかな引っかかりを覚えたまま、朝食を食べて、少しのんびりして、午後からアルバイトだという零さんを見送った。
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