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 海を眺めながら国道を走り、着いた海浜公園。駐車場に停まった車から降り、体を伸ばしながら潮の香りのする空気を吸い込んだ。

「体がぱきぱき鳴る……」
「乗りっぱなしも疲れますよね」

 さらりと安室さんに切り換わり、軽い調子で話す零さんに差し出された手を取る。
 指を絡めていわゆる恋人繋ぎをされた。手のひらに熱が伝わってきて、ひどく安心する。

「あそこに赤い屋根の建物があるの、見えます?」

 指差された先、丘の上に確かに赤い屋根の建物が見えた。

「えぇ」
「道は舗装されてますし、丘をぐるりと囲むように造られているので、坂はきつくありません。着く頃にはお腹が空くと思いますよ。行きましょうか」

 頭上を飛ぶカモメに気を取られたり、時折びゅうと強く吹く風に乱される髪を直してもらったり。
 あまりたくさんの言葉はかわさなかったけれど、手を繋ぎながら歩けることが幸せで、満たされた気分だった。
 半分ほどの道のりを歩いた頃、零さんが徐に口を開いた。

「……千歳さんは」
「?」

 やけに真剣みを帯びた声色に、隣を歩く顔を見上げる。
 穏やかに笑う顔はどこか寂しげで、不安から繋いだ手に力を込めてしまう。

「まだ、"帰りたい"と思ってますか?」

 落とされた問いに、即座に頷くことができなかった。
 "帰りたい"と、思ってはいる。けれど、零さんの元を離れるのが寂しいのも事実だ。くわえて、いま彼の元から去ってしまったら、組織から変に疑われてしまうのではないかという不安もあった。明確な答えを、返せない。

「……最近、少しわからなくなっちゃった」
「なぜ?」

 問いを重ねる声は変わらず穏やかで、本音を零すことを優しく促されているのがわかる。
 抗おうとは、思わなかった。

「ここにいることを受け入れて、あまりにも長い時間が経っている気がして……帰りたいけれど、帰るのが怖い。ここで得たものを失うのが怖い。元の居場所はきっともうないだろうって、それがわかるから怖い。……あなたに、大事にしてもらえてるんだって感じるたび……元の居場所の何もかもを捨ててでも、手放さないでほしいと思いそうになる自分が怖い。わたしはこんなに、薄情だったっけ……」
「ここで得たものは、千歳さんにとって大事になりかけているんですね」
「ううん、もうとっくに大事になってるわ。それでも少し前までは、割り切れていたはずなのに……」
「割り切れないほど、大事になったんですね」

 優しい声が、確かめるように落とされる。
 頷くと、頭を撫でられた。

「元の居場所はないだろう……というのは」
「職場って、結構人の入れ替わりがあっても成り立つでしょ。きっと世界も同じ。わたしが追加されても、いなくなっても……たぶん、結局あまり変わらないの。職場はわたしがいなくなった分、きっと人が補充されて……行方不明ってことになって名前は残っているかもしれないけれど、元通りにはならない。それに今の仕事も楽しいから……居心地の悪い元の場所に戻ったり新しい場所を探したりするのが億劫で、捨て難くなってるの」
「ちゃんと今の生活を楽しんでいるんですね。良いことじゃないですか」

 けして否定しない優しさに、涙が出そうになる。
 零さんが足を止めて、わたしに向き直った。繋いでいた手は解かれたけれど、すぐに捕まえられる。相変わらず、寂しそうに笑う顔。無性に切なくなる。

「……僕だって、手放したくないですよ。千歳さんがそれで幸せだと思えるなら。僕が欲しいばかりに、千歳さんに何もかも捨てさせたいと思っているんです。それでいて、何より守りたいものはあなたじゃない。……あなたよりずっと、ひどい男だ」

 捕まえられた手を持ち上げられて、指先に唇を寄せられた。唇の柔らかい感触と吐息が触れて擽ったい。

「あなたが一番に守りたいのは、この国でしょう? そういうストイックなところ、わたしは好き」

 だから、自分を卑下しないでほしい。捕らえられたままの指の腹を、そっと零さんの唇に押しつけた。
 零さんは困ったように笑って、手を解放してくれた。重力に任せて落とした手は、たらりと体の横に落ち着く。

「……今日、あなたの家に泊まってもいいですか?」
「え……?」

 徐に切り出された相談の意図を掴みかねて、顔を見上げる。
 穏やかな瞳の奥にちらつく熱を感じ取って、どきりと心臓が跳ねた。

「丘の上で美味しいランチを食べて、また来た道を戻ってきて。休憩や寄り道をしながら帰って、それでも着くのは夕方でしょうから、早めの夕食にしましょうか。潮の香りを落として、そうしたら――」

 零さんが身を屈めて、耳元に唇を寄せてきた。
 背中に触れる大きな手が、体が離れることを許さない。

「恐怖心なんて忘れてしまうほど、大事に愛してやるから」

 内緒話をするかのような低くて甘い囁きが、耳に流し込まれた。
 かぁっと熱を持つ頬を、少し冷たい潮風が撫でる。
 零さんは穏やかに笑って、またわたしの手を取った。

「明日の朝まででいいです。難しいことは考えないで、僕に大事にされているって、それだけを考えて過ごしてください」

 捨てたくない。捨てられたくない。何も考えずに、ただ愛されていたい。
 心の奥底に置いていたどうしようもない願望を、零さんは叶えようとしてくれていた。
 潜入捜査、哀ちゃんたちから疑われることへの疲れ。自分の心境の変化への戸惑い。わたし自身も気づかないうちに緩やかに積もっていた心の疲れに、零さんの方が目敏く気がついたのかもしれない。自分だって潜入捜査で神経を擦り減らすような生活をしているのだろうに、けしてわたしの疲れを軽く見ることもしないのだ。
 胸を締めつけるような喜びと切なさが喉の奥に痞えて、言葉は出そうになかった。かわりに温かい手を握り返して頷くと、零さんは嬉しそうに笑って頭を撫でてくれた。

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