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「失礼、先ほどのお電話口で"エド"、"トラウト"という名前が聞こえましたが。――それについて伺ってもよろしいですか」


 話しかけられて、なんだなんだと斜め後ろに立った男性を振り返る。神経質そうな顔に、生真面目な印象を強調する眼鏡。映画で見ました。その後漫画にも登場していました。公安の風見裕也である。
 現実逃避をしている場合ではなく、状況的にまったくよろしくないのだが思考を巡らせる。
 なぜか浮かんできたのは、ここ数日の自分の行動だ。
 三日前は喫茶店、ノートパソコンを持ち込んで仕事をするサラリーマンの振りをして。一昨日はファミレス、小説の校閲結果を話す編集者として。昨日はそうだ、パーティードレスをレンタルする予約を取りに行ったときに、近くに夫婦がいなかったか。生真面目そうな旦那さんだと横目で見ていたじゃないか。
 サラリーマンのときはくたびれた安っぽいスーツ、編集者のときは少しおしゃれなカラースーツ、夫婦のときはまめな性格を想起させるシャツとニットと細身のジーンズ。ついでに眼鏡を変えたりコンタクトにしたりしていたようなので、思い返してみるまで気づかなかった。

「あぁ、この四日間わたしに張りついてたのね」

 口にしてから"あっ"と思ったけれどもう遅かった。
 風見(仮)さんは"えっ"という顔をして、その後渋い顔で眉間を揉んだ。

「……気づかれていましたか」
「いえ、いま気づいたわ。そういえば似たような顔の男性を見かけることが多かったって」

 わたしが"そういう気配"に鋭く、気づいていないフリをしていたなんてことはない。
 "エド"と"トラウト"について聞きたいとか言っていたっけ。
 日本でも県警ではどうにもできなくなり警察庁に管轄が移ったのだろうか。いや、彼が動いているのなら、トラウトがあの組織に武器を流しているという可能性も否めない。
 トラウトがエドに付き纏っているのは同業者や警察関係者なら大体知っていると聞いた。
 さて、そんなトラウトがご執心のエドが日本で顔を広げるためのパーティーを開くことになった。顔を広げるためのパーティーなのだから、とても入り込みやすい状況だ。トラウトももちろん寄ってくる。そこを突きたいので、なんとかエドとの繋がりをつくってパーティーに参加したい。本人に突撃するのは無謀なので、その周辺からコンタクトを取ってみよう。こうなるのが自然ではないだろうか。
 そうやって調べていくうちに、わたしに当たったのだろう。エドが宇都宮さんへの売り込みを皮切りに日本に進出して以降、常に通訳として使うのはわたしだ。商談に同行していたのだから、街で見られたとしても何ら不思議ではない。細々とやっているような状況なら、パーティーへの潜入の取っ掛かりとしては一番よい存在である、と警察の目には映ったに違いない。単価がえげつないので買収されようなんて微塵も思わないけれど。
 はた、と思い至る。現段階で警察だと名乗られていないのだから、情報を渡すのは得策ではない。
 馴染みの彼がこちらを心配そうに窺っていたので、棒立ちの不審者となっている風見さん(仮)を手で促して隣に座らせて、心配ないと首を横に振って笑いかけた。
 カクテルに口をつけると、アルコールに手が出せる状況なのだと理解してもらえたらしく、無言で仕事に戻ってくれた。

「それで? さっきの電話の何が気になったのだったかしら」
「"エド"、"トラウト"、二つの人名と思しき単語です。"ヘレナ"という単語も聞き取れましたが……。それは、エドガー・クラウセヴィッツとオットマー・トラウト、そしてエドガー・クラウセヴィッツの配偶者であるヘレナ・クラウセヴィッツという人物のことではありませんか?」

 さして興味もない風を装った不躾な訊き返しにも、彼は丁寧に答えた。
 愛称と姓だけでそこまで関連づけられるのなら、最低限の情報は握っているということ。わたしが通訳者であること、パーティーに参加するためにドレスの予約をしていること、それらの情報を尾行もしたうえで確認されているのだから下手にしらばっくれるのもよくない。

「……もう隠せることでもないから、それは正解だと返しておくわ。その人物が何か?」

 エドと親しいわたしが、厄介な存在に付き纏われて困っていることを知っていてもおかしくはない。"あなたもそうなの?"という視線を向けつつ問い返すと、風見(仮)さんは少し慌てた。

「個室でお話できませんか」
「……別にいいわよ。空いてる?」

 部屋の空き状況を確認すると、心配そうにこちらを見ていたバーテンダーが困り顔になった。

「え、えぇ。ですが、よろしいので?」
「わたしの仕事に関係する話でもあるから、ここだとしにくいのよ。聞きたいことがあるだけみたいだし、大丈夫。これも運んでくれる?」
「かしこまりました」

 個室に通されて、お互いに注文していたお酒や軽食も運んでもらった。
 プライバシーに配慮して監視カメラなどはないのだけれど、風見(仮)さんはバーテンダーが出ていくなり一通り部屋を確認した。

「カメラの類はないんですね」
「あなたみたいな人も多いから」

 ほんのりと嫌味を込めて返すと、こほんと咳ばらいをされた。

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