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「君、ただの一般人じゃないだろう」
外套の中で左手を右脇に差したレプリカの銃に伸ばしながら、発言の意図を汲みかねるという顔をする。
ドクターがなぜこんな発言をしたのかわからないということは事実だった。
「何のことです、ドクター……?」
「城に住み込んで出ることのなかったメイドが、どうして逃亡に必要な品をここまで揃えられたのかな」
「それは、ドクターもわかっていらっしゃるでしょう? ガードマンのエリに手配してもらったんです」
「あぁ、君の恋人の。君が殺されるかもしれないとあって、逃亡に手を貸してくれたと?」
「はい」
ドクターはがしがしと後頭部を掻いた。結った髪が崩れ、ぴょこりと毛先が跳ねる。
「なら、その外套の下に隠しているものを僕にも分けてもらおうか」
丸眼鏡の奥、腫れぼったい瞼の下から、鋭い眼光が覗く。
敵意があると判断して、ホルダーから抜いた銃をスライドを引きながら構えた。
懐中電灯はぶらりと下がり、薄ぼんやりとした明かりだけが頼りだ。
"穂純ちゃんの肩じゃ片手で撃つなんて無理だから、ちゃんと両腕で構えること。引き金に指はかけないこと。引き金に指をかけるのは扱いを知らないド素人か、誤射であってもその結果を自分で受け入れる覚悟のある人間だ。まずはこれだけ守ってね"
白河さんの言葉を思い出しながら、セーフティを外して人差し指は引き金にかけずに伸ばす。
ドクターは両腕をだらりと下げたまま、嘲笑を浮かべた。
「ここまで来れば僕の助けも必要ない。犯罪者なんかと一緒に逃げたくはない……か」
「…………」
突如ドクターが一歩大きく踏み込んできて、銃を奪われた。
けれどこれは予想のうち。
引き金を引く指を見ながら、左脇に差したレプリカの銃を抜き、先ほどと同じようにして構えた。
ドクターは発砲されないことに驚いて、何度も引き金を引く。
すっかり慣れた笑みを浮かべ、ドクターの目を見つめた。
「無駄よ。それはレプリカだから」
「な……っ」
わたしが向けた銃口を見て、ドクターの顔が引き攣る。
「こっちが本物。駆け引きはお嫌い?」
相手の目から視線を離さないこと。ドクターのような戦闘に不慣れな人間なら、何かをするときに必ず手元を見ようとするはずだから。
驚愕で見開かれる目と視線を合わせながら、数歩下がって距離を置いた。
ドクターは使えない銃を捨てて両手を上げ、また寂しそうな笑みを浮かべる。
「……君は僕を殺すのかい?」
「いいえ」
自由に研究をする科学者としてのハンネス・レフラは、きっとここで死ぬだろう。
「楽しかったかい? 僕を騙すのは」
「えぇ、とっても」
楽しくなんてなかった。彼個人の人柄を気に入って食事の時間を心地よく思いながら、裏切ることを想像して考えたくないと思う程度には。
ドクターはふっと腕の力を抜いて、くすりと笑った。
「……君は嘘つきだな」
「あら、人間みんな嘘をつく生き物だわ。わたしに限った話じゃない」
「そうだね、僕も嘘つきだ……っ!」
外套で装備が隠れていたのはドクターも同じ。ドクターは外套の中に手を突っ込んで、鈍色の塊を取り出した。
飛び出てきた銃に、体が強張る。向けられた銃口から、目が離せない。
『伏せろ』
突然のことだった。
信頼できることを知っている囁き声が仕込んだイヤホンから聞こえてきて、咄嗟にレプリカの銃を手放して頭を抱えて伏せた。
直後に発砲音、次いで壁に弾丸が当たる音が鈍く響く。
そのあとドクターの呻き声が聞こえ、その足元に銃が落ちたのが見えた。そのすぐ近くに、誰かの足。顔を上げたときには、わたしに伏せるように指示をした風見がドクターを後ろ手に拘束していた。
「ハンネス・レフラだな。麻薬及び向精神薬取締法違反で逮捕する」
風見の言葉を聞いたドクターの顔が、絶望に染まる。
「警察……!?」
裏社会の人間であれば、取引ができた。自分の作る薬でお金を稼ぐから、匿ってくれと。
けれど警察にそれは通用しない。
できるとすれば、協力者として警察に情報を流しながら裏社会に潜り続けるという方法を取るぐらいだろう。
それを悟ったドクターは、愕然としてこちらを見た。
「君の、手引きか……?」
「いいえ」
立ち上がって裾の土埃を払いながら、淡々と答える。
「……それも嘘かな」
「さぁ、どうかしら」
煮え切らない返答に、ドクターがぎちりと奥歯を噛んだ。
風見はドクターの手首に手錠をかけ、日付と時刻を口にした後、潜んでいた部下二人にドクターの身柄を引き渡した。
ドクターはこちらを顔だけで振り返って、わたしと目が合うとついと逸らした。
「君と過ごすのは、なかなか楽しかったんだけどなぁ」
ぽつりと落とされた言葉には、何も返事をしない。
二人の刑事とドクターが立ち去ってから、風見が近寄ってきた。
「大丈夫か?」
「……えぇ」
ドクターとはこれでお別れ。彼の人柄は好きだったけれど、彼のそばにいる時間は窮屈な環境の中で安らげる数少ない機会だったけれど。
元々は警察に身柄を確保させるために接触したのだ。情が湧いても、それだけは変わらなかった。だから、割り切ることはできると確信している。
けれども、哀ちゃんはどうだろう。
「千歳」
地下通路に、一番安心できる声が反響した。
風見は無言で脇の通路に隠れる。
振り返って、薄暗い中を歩いてくる零さんを視界に入れた。
「……上はどうなってるの?」
「"表"のエリアの一般客を避難させて、"裏"のエリアにいる人間を確保中だ。探偵として警察と面識がある、誤魔化しておくから先に出ろ――ジンとウォッカにはそう言って先に撤退させたから、心配要らないさ」
「そう……」
「とはいえ、城主はこの地下通路についても詳しいようだ。公安の人間を各所に配置しているから、お目こぼしをされているのを見られる前に出るぞ」
「わかった」
さり気ない所作で右手を取られる。
手袋を外しているのは、わたしが安心できることを知っているからだろうか。手のひらに伝わってくる体温に、ほっと息をついた。
予定外の出来事が起き過ぎた。ジンとウォッカに出会ってしまったこと、そのそばに哀ちゃんがいたこと。
今後どうやってコナンくんと沖矢さんの詮索をかわしていくかも、考えなければならない。
「……ここを出たら、相談したいことがあるの」
「あぁ」
「捨てたものは少ないけれど……結構大きかった」
「……悪い」
「だから、責任取って知恵を貸してちょうだいね」
「あぁ、お安い御用だ」
零さんを責める気なんて少しもない。けれど自分を許すこともないだろうから、彼にできてわたしにできないことを求める。
縋るように零さんの左手を握ると、緩く引っかけるだけだった手が、受け止めてくれるかのように握り返された。
いつかこの手も、わたしは手放してしまうのだろうか。
スカートの下に隠し持った切り札を思って、右手に伝わる熱の感触を確かめた。
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