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わたしが手を振り払ったことが信じられなかったのか、哀ちゃんは呆然とわたしの顔を見上げていた。
「言ったわよね、わたしにはわたしの目的があるって。残念ながら、お荷物のあなたを連れてこなせるほどその目的は甘くないし、わたしも器用じゃないのよ」
「そん、な」
刺々しい言葉ばかりを放って、哀ちゃんの士気を下げていく。
これでいい。"だったら自分一人で行く"とか、"コナンくんと行く"とか。そういう考えにならなければいい。
奥からカツカツとヒールの音が聞こえてきて、そちらを見るとガードマンの制服に身を包んだ黒川さんが歩いてきたのが見えた。
≪この子たちを表に連れて行ってあげて。絶対に奥には入れないで≫
≪わかった≫
フランス語でお願いして、踵を返す。もう休憩の時間だ。怪しまれないようにきちんと休憩を取り、ドクターに食事を運んで、食器を返してからもう一度ドクターのところに行って計画を実行することになっている。
「黒川さん……?」
「あぁ、哀ちゃん。お互い厄介なところに迷い込んだね。私も今、彼女の言うことを聞かなくちゃいけなくて」
白河さんなら、哀ちゃんを逃がさないでいてくれるだろう。
戸惑っている歩美ちゃんにも話しかけてくれている。背後でかわされる会話に安堵しながら、その場から離れた。
使用人宿舎で休憩を取り、一度自室に戻ってUSBメモリを入れた小箱を回収した。制服のスカートがふわりと膨らんでいるので、太腿に括りつければバレないのは幸運だ。パソコンはネットに繋いで電源を入れれば、藤波さんがクラッシュさせてくれることになっている。
それから、今朝から慌ただしく動いている厨房でドクターの食事を受け取り、地下に向かった。
鉄製のドアをノックして、返事を待たずに中に入る。
≪ドクター、昼食をお持ちしました≫
≪あぁ、ありがとう≫
研究室の資料はすっかりなくなっており、すべてスキャンしてデータ化し破棄したことが窺える。持っていけない実験器具はそのままだけれど、薬品棚も空だから、処分したのだろう。
いつも通りの時間をかけて食べてもらい、食器を下げる。
サラさんにドクターから呼び出しを受けていると告げてから、もう一度地下に戻った。
≪ドクター、あなたからの呼び出しで席を外すと伝えてきました≫
≪時間稼ぎは十分だね。行こうか≫
情報は足りないままだけれど、このまま打ち合わせ通りに行くしかない。
リュックサックを背負ったドクターを連れ、足音が聞こえないことを確認してから研究室を出て、目星をつけていた地下通路の入り口に向かった。スイッチとなっているレンガを押して、通路の入り口を開く。移築しているものの、静かに移動できるように仕掛けが動くときは音がしないようになっていて助かった。
通路は電気が通っているのか照明でぼんやりと照らされている。地下三階の高さに下りて入り口を閉め、通路の脇に置いていた、周囲の壁と似た色の外套を手に取った。
≪ドクター、これを羽織ってください。少しは視認されにくくなります≫
≪……準備がいいね≫
≪いろいろ調べましたから≫
外套を受け取ったドクターに背を向けて自分も同じ物を羽織り、隠していたショルダーホルスターとウエストポーチを身につけた。外套の前を合わせれば、銃を持っていることなどわからないはずだ。
持たされた二丁ともレプリカだというけれど、白河さんに使い方を教えてもらった時は実銃のように機構を動かせた。精巧なつくりだから、裏社会を渡り歩くドクターを相手にしても騙せるだろうとの判断かららしい。
≪行きましょう≫
≪あぁ≫
道はドクターの方がよく覚えているらしい。
でこぼこした通路を迷いなく進んでいく背を、後ろを気にしながら追いかける。
≪ドクター、ひとつお伺いしても?≫
≪なんだい≫
≪上で、あなたの研究について知りたがっている女の子と会いました。何か心当たりはありませんか?≫
ドクターは顎に手を当て、少し考えた。
≪女の子……もしかして、赤毛の? 年相応とは言い難く大人びた子じゃなかったかい≫
≪えぇ、その特徴に合致すると思います≫
これは小さくなる前にも今にも当てはまる。
素直に頷くと、ドクターは歩きながらリュックサックを前に抱え、USBメモリを取り出した。
≪その子が"シェリー"なら、これを渡せばわかるはずだ。僕の研究は彼女の研究の役には立たない。一度は彼女の下に研究員としてついたんだが、好きなことが研究できないと悟った僕はすぐにその組織から逃げ出した≫
逃げても消されそうなあの組織から逃げていただなんて。
戦闘能力はなさそうだけれど、場数を踏んで逃げることに慣れているのだろう。
≪……わたしに預けてくださるのですか≫
≪ここを出たらお別れだろう? 僕はすぐに海外に飛ぶつもりだから、会えない。でもシェリーのことは科学者として尊敬していてね。彼女が欲しいと言うのなら、バックアップデータぐらいはプレゼントするよ≫
渡されたUSBメモリを受け取って、隠しているウエストポーチに仕舞い込んだ。
≪必ず探して渡します≫
≪頼むよ≫
打ち合わせたとおりに進んでいくドクターの背を追いかけながら、これで哀ちゃんが欲しがっていたものは手に入ったと内心で安堵の息をついた。
二人分の足音が、地下通路に響く。
突然ドクターが足を止めて、こちらに向き直った。
≪……ドクター?≫
弱い照明に照らされた顔は、寂しそうに笑んでいた。
だらりと下がった両手からは、何かを取り出そうという気配は感じられない。
「僕を騙していたんだね」
流暢な日本語に、目を見開く。
理解できることは知っていたけれど、話しているのは初めて聞いた。"発音が下手だと笑われる"と言っていたというのに、どういうことだろう。
「流石に聞き慣れたからね、日本語は。ずっと一人でいたんだ、発音の練習ぐらいできるさ。騙していてすまなかったね。でも、嘘をついていたのは僕だけじゃない。……君、ただの一般人じゃないだろう」
外套の下で、隠し持っていた発信器のボタンを押した。
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