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 螺旋階段を下り、空気はひんやりとしてきたけれど、除湿がされているのか鬱陶しい湿気は感じられなかった。
 地下二階分ほどだろうか、階段を下りきったところで、円形の塔から出た。
 電気式のカンテラが転々と明るさをもたらす薄暗い廊下を、執事は迷いなく歩いていく。
 倉庫であることを示す札のかかったドアもちらほら見える。
 世話係をつけるほどの賓客を、こんなところで生活させているのだろうか。いや、科学者本人が望んでのことかもしれないし。
 悶々としながらも道順を確認しつつ、執事がある鉄製のドアの前で足を止めたのを見て、その手前で止まった。
 執事はドアをノックして、返事を待たずにドアを開けた。大丈夫かなと思いながら入るのをためらうと、"返事はいつもありませんので"と涼しい顔で返される。
 促されて入室すると、薬品の混じったにおいが鼻腔を通り抜けた。
 壁に並べられた本棚と薬品棚、実験器具の収納棚。いくつも置かれた四角いテーブルと、その上に乱雑に広げられた周囲の棚の中身らしきもの。
 その中心に、椅子に座って両脇に置いたテーブルの上で行われている実験を熱心に観察する男性がいた。肩甲骨のあたりまで伸びたぼさぼさのくすんだ金髪はヘアゴムで括られ、髭もあまり剃っていないのか不揃いに生えている。ノンフレームの丸眼鏡の奥の目は窪んでいて、あまり寝ていないだろうことが窺えた。白衣も薬品で汚れている。
 実験器具から立ち昇る煙は、休みなく動いているらしい換気扇に吸い込まれている。それを何とはなしに眺めてから、科学者らしい男性に視線を向けた。

「Dr.アパシー、今日から貴方の世話係となるミス・穂純です」
「…………」

 執事の声に返事はなく、Dr.アパシーと呼ばれた男性は鉛筆で研究結果をノートに書き留めている。
 執事はひとつ溜め息をついて、こちらに顔を向けた。

「ミス・穂純、彼はDr.アパシー――本名をハンネス・レフラといいます。御覧の通り会話は成り立たず、非常に研究熱心です。研究をするために生きているような方ですから、食事は声をかければとってくださいますが。食事の運搬と、急な呼び出しがあればそちらを優先してください。サラに言づけておきます、挨拶を終えたら事務室に戻るように」
「はい、かしこまりました」
「では失礼いたします」

 足早に去っていく執事の背を見送り、閉まる扉を眺めてから、Dr.アパシーに向き直った。

≪フィンランド語とスウェーデン語、どちらでお話しすれば?≫
≪フィンランド語で頼むよ。英語や日本語は嫌いなんだ、発音が下手だと笑われる≫

 英語で話しかけると、試験管を見つめたままではあるものの、普通にフィンランド語の返事が返ってきた。
 何がアパシー、無関心なのだか。発音を笑われることすら気にしているようすだというのに。

≪では、フィンランド語でお話しさせていただきます≫
≪そんなに硬くならなくていいよ。畏まられるほど立派な人間じゃない≫
≪そうは仰いますが……旦那様のお客様ですし≫
≪お客、ねぇ。ただの金儲けの道具だよ≫

 自嘲気味に笑う姿に、どうしたものかと悩む。
 ドクターはくすりと笑って、近くの丸椅子を勧めてきた。
 どうせドクター以外にいないのだからと、素直に従って座る。

≪フィンランド語を話せるんだね≫
≪勉強したことがありますから≫
≪なるほど、噂に違わぬ天才的な語学力があるというわけだ≫
≪噂?≫

 棚の隙間から見える扉は、おそらく寝室や浴室に繋がっている。ここに籠もりきりのはずの人間が、どうして噂話など知れるだろうか。
 ドアの向こうの音も、先ほどの執事の足音は耳を済ませてようやく聞こえる程度まで遮られている。近くの倉庫に荷物を取りに来たメイドが話をしていたとしても、はっきりと内容を聞くにはやはり部屋のドアを開けなければならない。
 しかし、今も実験から目を離さない彼が、高々新入りの噂話のためにドアに張りつくような人とも思えない。
 訝しく思って問い返すと、ドクターは苦笑した。

≪そこの棚の隙間に、伝声管があるのが見えるかい≫

 ドクターが鉛筆の先で示したのは、本棚の間だった。
 確かに、伝声管がふたつ取り付けられている。内線電話を利用できるのに、あれがある意味はない。

≪エントランス脇の事務室と、ハウスメイドの休憩室だったかな。そこと繋がっているらしくて、古いから放置されたのか、家具に隠れたのか。メイドの声が聞こえてくるんだ。静かな時は特にね≫

 ドクターが試験管を真横から覗き込んでいるので、それをいいことに耳を澄ましてみた。
 エリ――おそらくは黒川さんへの、嫉妬の見え隠れする噂話。わたしに関する、仕事が午後からとはどういうことかという邪推の声。誰と誰が付き合い始めたとか別れたとか、……なんてことだろう、こんなに簡単に内部事情が知れるなんて。

≪……本当ですね≫
≪おや、気にしないんだね。聞きたくない話もあっただろうに≫

 感想に感嘆の色しか乗せなかったからか、ドクターは首を傾げた。

≪これでも強かに生きてまいりましたので≫

 たかだか三週間だけの表面上の同僚の噂話、何を気にすることがあるだろうか。
 仕事が円滑に回りさえするのなら、多少の悪意には取り合わずにいたいぐらいだ。
 旦那様に呼ばれているのではとか、部屋に招いているのは執事かもしれないとか。どのみちそれらも含めて覆すつもりなのだし、気にしている余裕もない。

≪それはそれは≫

 ドクターはくすくすと笑って、それから丸眼鏡の奥の腫れぼったい瞼から鋭い視線を覗かせた。

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