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いよいよ潜入捜査開始の前日となった。
なんとか時間が取れたという零さんが家に来てくれて、荷物をチェックしてもらえたのでこれで準備は完了だ。
コーヒーと紅茶を淹れてソファに並んで座ると、零さんは残念そうに溜め息をついた。
「もう一日前に来れたら良かったのにな」
「え?」
「これから三週間も会えないんだ、もう一度ぐらい……そう思っても仕方ないだろ」
まっすぐな視線に射抜かれて、どきりと心臓が跳ねる。
言いたいことがわかって、顔に熱が集まった。
「……帰ってきたらね」
零さんから顔が見えないように俯けて、零さんの腕に米神を押しつけた。
旋毛を擽るように撫でられて、擽ったさに目を細める。
「藤波と連絡を取る間は、できるだけ同席する」
「本当?」
それはつまり、零さんともコンタクトが取れるということではないだろうか。
期待を込めて顔を見上げると、零さんは得意げな笑顔でこちらを見下ろしていた。
「通話は危ないから、チャットになるけどな。ただでさえ"無理なお願い"なんだ、千歳のストレスの軽減のためにも必要だろ?」
自信満々に言われて、つい笑ってしまった。
「よーくわかっていらっしゃる。藤波さんがだめってわけじゃないけど……」
やっぱり、一番信頼できるのは零さんなのだ。
気になることはたくさんあるけれど、あの夜の零さんの言葉だけは信じると決めたから。
零さんは安心させるように背中に腕を回してくれた。
「それもわかってるよ。状況をできるだけ掴んでおきたいのも事実だしな。現場で困ったことがあれば言ってくれれば白河さんにも伝えるし、欲しい情報があれば調べる。とにかく遠慮なくこちらに伝えること。またあんなのは御免だからな」
ストーカーの件を連絡しなかったことについては、かなり心残りになってしまっているらしい。
相談してもいいという建前ができたのだから、もうあんな無理はしないというのに。
そもそも、今回は報連相が重要な"仕事"なのだ。自分が素人であることは百も承知、可能な限り詳細に状況を伝えるつもりでいる。
「うん、ちゃんと伝える」
「よし」
なんだか犬になった気分だ。べつにいやな気分ではないからいいのだけれど。
「明日は米花駅前に朝八時に、だったな」
「うん」
「通勤の時間帯だ。風見に周辺の警戒を任せるから、見ないフリで頼む」
風見はよくサラリーマンに扮しているから、通勤の時間帯に人に紛れることは容易いのだろう。
「了解しました。もう行くの?」
カップを持って立ち上がる零さんの顔を見上げて尋ねると、零さんからは苦笑が返ってきた。
それから、なだめるように頭を撫でられる。
「別件の処理が少しな。帰ってきたら覚悟しておくように。今はこれで我慢しておく」
「え」
零さんの顔が近づいてきたと思ったら、唇に柔らかい感触が。一瞬遅れて状況を理解したところで、顔が離れていく。
唇についたグロスをぺろりと舐めとるのを直視してしまって、堪えきれずに抱えた膝の上に載せた腕に顔を埋めた。
「そういうことする……!」
「耳まで真っ赤だな」
くすくすと笑う声が落ちてくる。
顔だけは見ておこうと顔を上げたら、眉を下げて微笑む零さんと目が合った。
……あぁ、また。
「心配しなくても、零さんの利益を優先して動くわ。自分で担保してるでしょう?」
身分証は、零さんに預けた。帰れるとわかれば必要になるもの。彼にとっての、わたしにかけられる首輪。
零さんは切なげな笑みをそのままに、静かに答える。
「そうだな、心配はしてないよ」
きっと本当は、違うことを考えていたのだと思うけれど。
そこに触れてはいけないと、勘が告げている。
洗い物はしなくていいと伝えて、何度も"気をつけろ"と念を押した零さんの背を見送った。
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