08

 こちらの世界に来て4ヶ月。何度か仕事をこなしてお金が貯まってから、運転免許を取った。顔写真付の身分証明書だ。車を借りれば交通手段も増えるし、願ったり叶ったり。仕事もエドと宇都宮さんが定期的に回してくれたので至って順調で、免許を取って銀行口座をつくり、報酬を振込で受け取れるようになったり、スマホを持って連絡ができるようになると、エドも宇都宮さんも顧客を紹介してくれるようになった。
 多分、現金でしか報酬を受け取らない怪しい人間であるうちは、他人に紹介をしづらかったのだろうと思う。
 現に宇都宮さんは"報酬をこの口座に振り込むようにしてほしい"と口座番号を書いた紙を渡したら、嬉々として"紹介したい客がいる"と切り出してきた。
 そこから人脈も広がって、頻繁に仕事が舞い込むようになった。勤め人だったときより収入が増えているという点については、あまり考えないことにした。文書にしろ商談にしろ、公開される前の情報を訳すことが多く、機密保持の責任を果たしてほしいと報酬が増されるのだから仕方がない。
 宇都宮さんが持っているマンションの一室を借りることもできた。あれこれと良くしてくれている代わりに、ときどき光莉ちゃんと遊ぶ約束になっている。
 お金に困ることなく生活できているのだからよしとして一人頷いたのはごく最近のことだけれど。
 朝食を食べ終えて、さて今日は何をしようかと考えようとしたところで、エドから電話が入った。

≪日本でパーティーを?≫
≪あぁ、そうなんだ。日本の友人を増やしたくてな。通訳を頼んでもいいかね。もちろん、ドレスのレンタルはこちらでしよう≫
≪もちろん、かまわないわ。具体的な日程をメールで送ってくれる? 見積もりを出すから≫
≪すぐに送ろう≫

 パソコンを起動してメールソフトを立ち上げた。ちなみにメールソフトは、IT関連の製品やサービスも手掛けている宇都宮さんの会社から購入したものだ。フリーメールのままではまずいと思ったものの、あまり詳しくなかったのでメールはどうしたらいいかと聞いてみたら、快く教えてくれた。
 新着メールを確認して、エドからのものを開く。

≪再来週の日曜日ね。予定は空いているから、問題なし。すぐに見積もりを作ってメールで送るわ。確認したらまた電話をちょうだい≫
≪うむ≫

 報酬は半額を前払い、残りを後払い。こちらでかけた経費はドレス代だけ領収証を切って渡し、後払い分と一緒に支払ってもらう。
 特約内容もつけて請求書を作成してメールを送ると、ほどなくして電話が来た。

≪エドガーだ。千歳、この契約で頼むよ≫
≪わかったわ≫

 変更があればその都度電話で確認をしてもらうことにして、とりあえず契約書へのサインはエドが来日してからとなった。
 基本的に、昼間に仕事をして夜は気が向いたらバー巡り。仕事に余裕があって休みたいときは休むという、気ままな生活だ。米花町で過ごしていても、少年探偵団と出会うことはない。遠目には見てみたいような、関わりたくないから遠慮したいような。そんな複雑な思いで、日々を過ごしていた。
 エドが電話をよこしたのは、朝の九時頃。あちらにとって夕方だ。依頼はあったけれど急ぎではなく、とりあえず別の仕事を前倒しにすることにした。それにはまずノルウェーの文化を一通り予習しなければならないことを思い出し、今日の行き先が決まった。
 まずは書店。ノルウェーの文化に関する本を買う。あとは喫茶店で昼食をとり、夕方まで読み耽ろう。
 出かける準備をして、まずはタクシーで杯戸駅の近くにある大きな書店に向かった。外国文化に関する本が並ぶ中から、目当てのものを見つけて購入した。その本を持って米花町に戻り、路地に入った穴場だという喫茶店に入った。宇都宮さんもここでコーヒーを飲みながら仕事をするそうで、静かでいい雰囲気だからぜひ、と教えてもらったところだ。主婦が小声で普段の愚痴を言い合ったり子育ての相談をしたり、気真面目そうなサラリーマンがノートパソコンで仕事をしていたりと、穏やかな空間でそれぞれが思い思いに過ごしている。昼食をとってから、耳に心地よい音で溢れた店内で、スマホで設定したバイブアラームが鳴るまで本を読み続け、帰ってから翻訳の仕事をした。

 翌日は、エドとは別の通訳の依頼人との打ち合わせのため、ファミレスに行った。昼のピークを少し過ぎた頃だったため、少し遅い昼食をとるサラリーマンや、ランチが終わってもおしゃべりに花を咲かせる主婦や学生、簡単な打ち合わせをする営業と客が席の大半を占めていた。
 後ろのボックス席に来た二人の会話から、なんとなく作家と小説の編集者だろうかと検討をつけたところで、待ち合わせの相手が来た。
 商談に関する打ち合わせで、日程の詳細確認や事前にこんな知識は得ておいてほしいという下準備のための情報共有だったので、比較的短時間で終わった。
 相手が女性だったのでそのままお茶に誘ってみると、思いの外すんなりと乗ってくれた。

 さらに翌日、エドとの約束の一週間前になったので、ドレスのレンタルの予約に行った。仲睦まじいカップルが結婚式のドレスを選んでいるのを尻目に、臙脂色のドレスを選んで試着をお願いした。試着室の外から聞こえてくるカップルの会話からは、男性の方からは堅物そうな雰囲気が、女性の方からは柔和な雰囲気が感じられた。たぶん上手くいく組み合わせなのだろうなぁなんて考えながら、即決してレンタルの予約をした。
 その足でヘアサロンにも行き、予約と簡単な打ち合わせをさせてもらった。

 あれほど忌避していた探偵や警察関係者や組織の人間には遭遇することもなく、生活はできている。
 けれども帰りたいのは事実で、どうしても帰り道を探すことを諦めきれずに、時刻表を眺める日もある。
 あの日乗った電車について、路線名、日時や時刻を思い起こしてみても、ヒントになりそうな情報はなかった。
 気分が滅入るばかりでどうにもいけない。
 パーティーの準備も一通り整えたのだし、気分転換にお酒を飲むのもいいだろう。ベッドの上に広げていた路線図や時刻表を片付けて、早めの夕食をとった。
 シックなワンピースに着替えて化粧を直し、行きつけのバーまで歩いた。

「いらっしゃいませ。――あぁ穂純さん、お久しぶりです」

 扉を開けるとリン、とベルが鳴り、バックバーとその前でグラスを磨くバーテンダーの姿が目に飛び込んできた。
 入り口の正面にいたバーテンダーは馴染みで、お酒のことを尋ねて会話が弾んで以来、ここにくるといつも相手をしてもらっていた。

「こんばんは。そんなに久しく来ていなかったかしら」
「いいえ、僕がそんな気分になっているだけですよ。何しろこんなに若いバーテンダーを贔屓にしてくれるお客様は、滅多にいませんから。いつもの席、空いていますよ」
「ありがとう、そこにするわ」

 大学を卒業し、アルバイトから正社員に昇格してまだ二年目だという彼は、人懐っこい笑顔と細やかな気配りが感じ取れるお酒のおかげで上司や先輩からも客からも好かれている。けれども客からは贔屓にされるかと思えばそうではなくて、注文はベテランの先輩に集まってしまうのだそうだ。だから、好き好んで彼に注文をするわたしを覚えて、殊更丁寧に接してくれるのだ。悪い気はしないし、あれこれと気を回してくれるのでこのお店で厄介なトラブルに遭ったこともない。個室をとることもできるので、本当に一人で飲みたいときにも利用できる便利なお店だった。
 案内されるがまま、お店の方で定位置としてくれているらしいカウンタースツールに腰かけて、バックバーを眺める。
 詳しくはないので、気になったら彼にその旨を伝えて好みのカクテルを作ってもらうというのが常だ。

「そこの……三段目のオレンジのラベルのアマレットで、弱めのを作ってもらえる? 口当たりが柔らかいものがいいわ」
「かしこまりました。ドライフルーツはいかがですか? 空きっ腹であれば、ですが」
「夕食をとってきたし、あとでケーキを食べたいから遠慮しておくわね。お気遣いありがとう」
「はい、かしこまりました」

 丁寧な手つきで作られていくグラスの中身を眺める。のんびりしたいと思っていたので、ロングカクテルにしてくれたのはありがたい。
 出されたアマレット・ミルクを飲みながらアマレットで作れるカクテルについて教えてもらっていると、一つ空けた隣の席の近くに男性が歩いてきた。

「こちらの席、よろしいですか」
「えぇ、どうぞ」

 特に人を待っているわけでもない。そちらも見ずに答えて目を伏せて、馴染みの彼との会話を打ち切る。
 どうやら一人で飲みたい様子だし、放っておいても話しかけてきたりはしないだろう。以前とても嫌な思いをしたので、その点に関しては過敏だ。バーテンダーもそれはわかっているため、そっとしておいてくれた。何かあれば対処ができるように、近くで仕事をしてくれているのはありがたかった。

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