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 降谷さんはお昼前に戻ってきて、買ってきたお弁当を渡してくれた。
 メールの内容を見て、本来の報酬とかかると予想される経費を見積もる。その繰り返しになる計算はほとんど終わっていて、あとはメールの履歴ともう一度突き合わせをするだけの状態となっていた。
 宇都宮さんもお昼にはメールを見るはずだから、引っ越しの費用もわかる。それで計算は終わるだろう。
 勧められるままに一息ついて、降谷さんに出された示談の代理人の委任状に目を通しサインをした。
 それを待っている降谷さんは書き起こしてあった断った仕事のリストを眺め、こちらをじっと見てくる。

「……どうかした?」
「いや、……元々なんの仕事をしていたのかと思って」

 苦い顔をして笑う降谷さん。あぁ、気遣われたのか。
 そういえば、降谷さんはあまり元の世界でのわたしのことを知らない。こちらから話すこともなかったし、特に聞かれもしなかったからだ。
 今更ながらに気になって、でも聞きにくかったのだろう。
 わたしの方はといえば、"ここにいる"という現実を受け入れてから、自分の経歴として語る分には問題ない程度に複雑な思いを昇華できていた。誰にも明かすことはできないので、降谷さんたちに聞かれない限りは口にすることもなかったのだけれど。

「話したことなかったっけ? そこそこ大きい企業の経理部よ」
「経理だったのか。それで計算や記録が得意なんだな」
「お金に関することだけね。数字が扱えるっていっても理系ではないので勘違いしないように」
「まぁ、そうだよな」

 どちらかといえば契約書を読んで記帳が合っているかを確認してといったことが必要なので、文章が読めるかどうかだ。
 登録をしている印鑑を捺して、委任状を降谷さんに渡す。
 少し違うことをして気分転換になったので、その後は一気に確認を進めた。宇都宮さんから引っ越し費用も教えてもらえて、これで計算は終わりだ。
 出かけるまではもう少し時間があるらしいので、コーヒーと紅茶を淹れてお茶をすることにした。甘くしたミルクティーを一口飲んで、ほっと息を吐く。

「そういえば、さっきマスコミがどうとか言っていたけれど」
「あぁ、朝言った仕事のこともあって変に目立つ写真を広められるとまずいし、そんなのは望んでないだろ?」

 犯人とその協力者に写真をばら撒かれることこそなかったけれど、記者に写真を撮られて雑誌なんかに載せられては意味がない。宇都宮さんはマンションの住人には"不適切な住居侵入があった"としか伝えず、それを受けて鍵のシステムを変えることと管理人を変えることの説明に力を入れると言っていた。住人たちは宇都宮さんの会社のシステムのテストケースにされていることは承知の上で住んでいるので、あっても"工事があるのか、ふぅん"ぐらいの反応だろう。
 そうなると、懸念すべきはご近所からの印象ではなく世間に広められやしないかということ。もちろん、そんなことはされたくない。

「……うん」
「軟禁状態になって悪いな」
「降谷さんが謝ることじゃないでしょう? 気にしないで」
「……そうだな」

 こうして降谷さんや白河さんが相手をしてくれるし、会話をやめたいなと思えば自然に話を終えてくれる。時々一人にされて、監視されるわけでもなく、沖矢さんたちのようにどさくさ紛れに詮索されるわけでもなく、好きに過ごせるのですっかりリラックスできていた。
 するりと髪を撫でられて、目を細める。自分を害することがないとわかっている、好きなひとの手に優しく触れられるのは心地がいい。米神を撫でられ、手のひらが頬を滑って、首をなぞられる。意図がわからず降谷さんの顔を見上げると、彼はきゅっと眉を寄せていた。

「……やけるな」

 苦々しさを隠さない声に、首を傾げる。
 やける、……妬ける?

「……嫉妬?」
「嫉妬。jealousy」

 英語でまで言われてしまって勘違いという線はなくなった。
 ブラウスの襟に降谷さんの人差し指がかけられ、喉から鎖骨にかけてをなぞられる。普段他人に触れられたりしない場所だから、くすぐったくてしかたがない。

「"俺は見ていないのに"っていう、狭量な男の嫉妬だよ。この下、"暴きたい"って言ったら……怒るか?」

 そういえば、藤波さんが気を遣ってくれて白河さんにしか見せなかったのだっけ。藤波さんがどの程度見たのか気になるところではあるけれど、あまり心配はしていない。一番は犯人だろうけれど、そのあたりも複雑な気持ちになっているんじゃないだろうか。
 向けられる視線はまっすぐで、けれど手は遠慮がちで。目だけは雄弁に物を語ってくれるくせに、変なところで気を遣ってくる。"からかいたい"という気持ちがむくむくと湧いてきてしまった。

「……見るだけでいいの?」

 湧いた気持ちを隠さずに笑みを浮かべて訊き返すと、両の青い目が一瞬見開かれて、降谷さんはわたしに触れていない方の手で前髪をくしゃりと乱し目元を隠してしまった。

「まさか。こんなお誂え向きの場所で、触れてもいい関係になって。下心を持たないとでも思ったか?」
「隠してくれてたんでしょう? でも、降谷さんのことは怖くないから大丈夫」

 降谷さんの口から溜め息がこぼれて、目元を隠した手が退けられた苦笑いをする顔を向けられた。

「俺をからかえるならそうだろうな。……今日で蹴りをつけてくる」
「うん」

 降谷さんはわたしの首元から手を離し、テーブルに置いていた資料を質のいい鞄に入れて立ち上がった。
 ソファの背凭れに鞄を持たない手をつかれ、見下ろされる。見慣れた自信に溢れる笑みをふっと向けられて、不覚にもきゅんときてしまった。
 そのまま身を屈めて、耳元に口を寄せられる。

「今夜、全部暴かせてもらう。……覚悟しておいてくれ」

 耳に流し込まれる低くて甘い声。かかる少し熱を持った息。
 あまりに突然のことに驚いて耳を押さえると、体を起こした降谷さんにくつくつと笑われた。……からかい返されてしまった。
 颯爽と部屋を出ていく背中を見送り、行儀悪くソファの上にスリッパを脱いだ足を載せて膝に顔を埋める。

「やっほー、穂純ちゃん。なんか降谷君がコンビニ行くノリで"代わりに示談交渉に行ってきます"って言って出ていったんだけど……穂純ちゃん? どうした?」

 入れ替わるようにして入ってきた白河さんが、不思議そうな声を上げる。
 いや、だってこれは、しかたがない。不意打ちだ。あんまりだ。赤井さんがバーで演技をしたときもそうだったけれど、わたしは耳元で囁かれるのにとんでもなく弱いらしい。知りたくなかった。

「……い」
「い?」
「色気の暴力……」

 事情を察したらしい白河さんが面白いものを見つけたような笑みを浮かべ、"話を聞こう"と言ってケーキ屋の可愛らしい箱をテーブルの上に置いた。

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