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 起きたときには降谷さんはベッドにはいなくて、忙しいのかなと思いながら顔を洗った。
 寝室と繋がる位置に洗面所があるのでありがたい。
 着替えた後、工藤優作さんに連絡を取った。穏やかな声でお礼の言葉を受け取ってくれて、"もしも息子の新一に会ったら良くしてやってほしい、それがお礼になる"と言ってもらえた。"もう会ってます"とは言えずに、了承するに留めた。
 さて、電話は終わったし、外出は控えるようにと言われているし、することも特にない。どうしたものか。
 テーブルに置いてあったルームサービスのメニューを眺めていると、降谷さんが戻ってきた。
 ルームサービスをとって少し遅めの朝食を終え一息ついたところで、ふと、白河さんの言葉を思い出した。

「そういえば、白河さんがわたしの安全確保が優先とか言っていたんだけど……」
「あぁ、そのことか。警護を交代したから話しそびれたな。この件に蹴りがついたら、協力してもらいたい案件がある」

 降谷さんは買ってきたらしい缶コーヒーのプルタブを開けながら、ソファに腰を下ろした。
 真剣な表情と声調に、おやと首を傾げる。改まって言うなんて珍しい。

「……いつもの翻訳ではなくて?」
「あぁ、……いわゆる潜入捜査だ」

 少し言いにくそうに告げられた。

「!」
「ある屋敷……というよりは、城だな。そこの使用人として雇われてほしいんだ。海外から客を招くために外国語の堪能な人間を雇いたいらしいんだが、その招待というのがどうにもきな臭い。そして、今その城の主の下にはフィンランド人の科学者がいるはずなんだ。その男の開発するドラッグを目的としているんじゃないかと睨んでいる。……俺もバーボンとしてそこへ行く」
「そのフィンランド人と知り合っておけばいいの?」
「あぁ。ターゲットはあらゆる裏社会の組織を渡り歩き、同時に狙われている。そろそろ逃げ回るにも限界が来ているはずだ。そこで、情報提供を条件に国で保護することを申し出る。危険がないように下調べも万全にするし、白河さんも警備員として潜入する。……一番最初に協力してもらったときよりは、安全だ」

 一番最初に協力したのは、エドが開いたパーティーの中でトラウトを逮捕するときだ。
 あのときはわたしが狙われていたのだし、確かに雇われて仕事をするだけでいいというのならよほど安全だろう。
 これまで直接現場に行ってくれと言われるようなことはなかったけれど、早急に対処が必要な状況なのかもしれない。

「人を招くまでに雇った人間を教育する期間は必要で、その間は白河さんがいてくれる。当日は降谷さんも加わる……ってことでいいのよね」
「あぁ」

 この二人なら、信頼できる。それもわかって割り振ってくれたのだろう。

「それならやる。今回助けてもらっちゃったし、恩返しができるならするわ」
「……そうか、ありがとう」

 断れば別の手段を考えてくれただろうけれど、そこまでしなくてもいい。
 何より、米花町から少しの間離れる理由もできるのがありがたかった。ストーカーやら赤井さんたちの追求やら、避けたいものはたくさんあるのだ。

「……っと、悪い」

 降谷さんは足元に置いていた鞄から振動して着信を知らせるスマホを取り出した。可愛いレザーカバーのついた、とても彼の趣味で買ったとは思えないものだ。
 ちょっと邪魔くさそうにカバーを折り返して、通話状態にしたスマホを耳に当てる。
 通話音量を下げているのか、耳を澄ませてもよく聞き取れない。

「はい。……えぇ、穂純さんの警護を引き継いだ者です。……聴取と、示談の申し入れですか?」

 降谷さんが発した言葉で、相手がわかった。今回の事件の担当警察官だ。昨日は白河さんに対応を任せきりにしていたから、連絡先も教えた記憶がない。適当にわたしが持っていてもおかしくないものを用意して、それを教えておいてくれたのだろう。
 直接やりとりをしなければならないだろうか。できれば本人とも親族とも顔を合わせたくない。せめて弁護士を立ててほしい。
 身体が強ばったのを自覚して、膝の上で手を握る。気がついた降谷さんに頭を撫でられて、そっと息を吐いた。

「はい、この番号でしたらかまいません。先方は直接交渉を望んでいるんですか? ……そうですか。本人は加害者ともその親族とも顔を合わせたくないとのことですので、代理人を立てますよ。……二時半ですね、わかりました、では」

 通話が終わったらしい。
 降谷さんはスマホをテーブルに置くと、小さく溜め息をついた。

「面倒事?」
「先方は親が弁護士らしい。示談交渉を直接したいとのことだが、断った。弁護士の知り合いはいるか?」
「残念ながら。……うーん」

 弁護士、弁護士かぁ。妃弁護士しか思い浮かばない。他にも登場していた気はするけれど、はっきり覚えていない。
 それに、彼女は"法曹界のクイーン"とまで呼ばれる敏腕弁護士。引く手数多で応じてはくれないだろう。

「……最低限の希望はあるか?」

 降谷さんが徐に口を開いた。その質問の意味を飲み込み、ぽろぽろと答えていく。

「え? 金輪際接触しないでくれるならいいかな……。あとはまぁ、望めるなら体調を崩して断った仕事の逸失利益と、宇都宮さんが手配してくれる引越しの費用と。それぐらい」
「そこに慰謝料を上乗せだな。その計算と引越し費用の見積もりの取り寄せはできるか?」
「うん、メールで確実に内容がわかるものだけなら……。引越しの見積もりは宇都宮さんに言えばメールで送ってもらえると思う。待って待って、どうするの」

 何やら言ってもいない要求が追加されたし、やるべきことも浮き彫りになった。
 準備をしようということはわかるのだけれど、弁護士の当てもないのにどうするというのか。
 相手だって、不起訴処分になることを期待して示談を急ぎたいはずだ。

「示談交渉は基本的に誰でもできる。弁護士以外は報酬を受け取れないっていう制約はあるが。計算して出した最低限の希望金額を超える提案なら接触禁止の制約もつけて成立させる、低かったら交渉して額を引っ張り上げ、同じく接触禁止の制約をつける。それで良ければ俺が行ってくる」
「……ちなみに降谷さんも安室さんも弁護士では?」
「ないな」

 それはつまり、見返りを求めないということで。

「……本当にいいの?」
「実は外ではマスコミが"弁護士の子がストーカーをした"と騒ぎ立てている。こうして退避してもらっているのも、少なからず被害者の情報を得ようと動き回っている人間がいるからなんだ。相手はおそらく、できれば前科をつけずに早々に田舎に引っ込みたいと考えている。焦って早期解決を図ってくる相手に、俺が交渉ごとで負けると思うか?」
「思いません。……お願いしてもいい?」

 今から弁護士を探して事情を説明してというのも、正直億劫だったのだ。
 法的に問題なくできるというなら、任せたい。

「もちろん。調べごとと書類の準備をしてくるから、今日の午後二時までに準備してもらえるか?」
「うん、すぐ計算する」
「その後警察が来て聴取をしたいそうだ。白河さんが付き添ってくれるから、心配はいらない」

 印鑑証明をもらうのに印鑑登録カードが要るとのことだったので、それも渡して見送った。
 仕事用のスマホでメールサーバーにアクセスし、プライベート用のスマホで電卓アプリを起動する。初めに写真が送られて、少ししてから断り始めたわけだけれど、結構な数だ。思いの外クライアントが増えていたことに、複雑な気持ちになる。
 ひとつ息を吐いて、とにかく今やるべきことをやらなければとスマホの画面に指を滑らせた。

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