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「穂純さん、顔を上げてくれるか?」

 かけられた声は思いの外優しい。
 言われるがまま顔を見上げると、青い瞳から落ちる視線とぶつかった。
 黒を基調とした服装だから、つい先ほどまではバーボンとして動いていたのだろう。

「……怒ってる?」
「そうやって強がろうとしていることに対しては」

 思っていたのと違う。
 けれど苦渋の決断について怒られるわけではなさそうだとわかって、怖がる必要もないのだと少し安心できた。
 真ん中に陣取っていたので、横にずれて降谷さんが座るスペースをつくる。
 ぽすぽすと空いたスペースを叩くと、降谷さんは足元に鞄を置いて促されるまま座ってくれた。左側が少しだけ沈む。

「体の具合は?」
「だいぶ良くなった。眩暈もふらつきもないし、食欲もあるし」
「眠れそうか?」
「うん、ちょっとうとうとしてた」
「……そうか」

 声に安堵の色が乗った。
 心配してくれていたし、強がらなくてもいいと言ってくれる。特に怒っているわけではないらしい。……それなら。

「藤波さんから聞いた伝言の意味が、よくわからなかったんだけど……」
「……直球だな」

 降谷さんは苦く笑って、膝の上に肘を置いて頬杖をついた。
 窓の向こうを眺めながら、心地よい低さの声で言葉を紡いでいく。

「実力を信頼されていないとは思っていないさ。現に藤波に電気料金のことを仄めかして調べさせてくれたし、電話での声からはこちらの調査に対して不安に思っているようすが感じられなかった」
「うん」
「ただ、自分の安全でなく……僕や白河さん、風見の身を案じたことが、引っかかったんだ」

 こちらに視線を送られて、身じろぐ。
 それは、わたしにとって当然のことだった。

「わたしのせいで、降谷さんたちに迷惑がかかるのはできるだけ避けたかったし……」
「それだよ。穂純さんは僕たちを心配するばかりで、自分のことで気にしていたのも匿ってくれた相手に探られているということだった。暗号とか、藤波が渡したUSBメモリとか……情報を送る手段はあっただろ?」
「……それ、は」

 そう、たくさんの郵便物だとか、仕事の依頼で渡されたUSBメモリだとか。確かに、藤波さんにだけでもと思えば情報を伝える手段はあった。
 藤波さんに伝えることが憚られるのなら、いつものように降谷さんをバーに呼び出すことだってできた。
 それをしなかったのは、組織やこれまで情報を拾って邪魔をした人間によるものではなさそうだったからだ。
 降谷さんたちには関係のない、わたしと誰かの間の恋愛感情の問題。普段から明確な内容を口にしないように気を遣っていて、監視の目があった部屋にさえ入れなければ何の問題もなかったから。だから、情報交換のためのツールを、わたし個人の問題の相談に使ってはいけないと、自分を戒めていた。

「降谷さんたちにとって、余計なことだと思って……」
「いくらでも理由はつけられたさ。恋愛感情からくるストーカー行為に見せかけた、復讐なのかもしれないとかな。今の穂純さんとの協力関係においては、それができる程度には君は重要視されている」

 もし関係なかったとしても、それはそれで恩を売る機会になる。
 降谷さんの属する組織は、そういう判断をしていた。

「言ったよな? 何か変わったことがあったら、些細なことでもいいから教えて欲しいって。暗号を使ってでも、情報をやりとりするメモリに入れてでも。……知らせてくれて、良かったんだ」
「……っ」
「僕が属しているのが国家のための判断を優先する組織だということは、穂純さんもわかっていると思う。僕もそのために、今こうして穂純さんのそばにいる。それでも……何かあれば縋ってくれる程度には、心を許してくれていると思っていたんだ。"君"に会うことを許してくれたから」

 諭すような声は、とても優しい。
 迷惑だとか、余計なことだとか、それを考える前に、"怖いから助けてほしい"と口にすることを、降谷さんは許してくれていた。
 そうわたしが信じていることを、降谷さんは期待してくれていた。

「わ、たし……」
「あぁ」

 続きを促す声の優しさに、じわりと涙が滲む。
 クッションを握る手に、降谷さんの右手が重ねられた。
 味わった恐怖は現実で、けして他人事なんかではない。許されるなら、本当に信じた人に"助けて"と縋りたかった。

「わたしだって……ほんとうは、降谷さんに……"助けて"って、言いたかった……!」

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