memory I forgot

「……イオリ」


 横になって微睡む中、落ち着いた静かな声で機関室から聴こえる音に紛らわせるように名前を呼ばれた。けれどそれは返事を求めて呼びかけているというにはあまりにも頼りない、そっと落とすような声調。
 秘めるような囁き声に返事をするわけにもいかず、眠気でふわふわとする思考で"円"を広げた。
 自身の感覚からも、拡げたオーラからも伝わるローさんの動き。長い指が私の髪を掬い上げて、そこへ口づけられた。
 動揺を面に出すまいと目を閉じ、彼が離れるのを待った。
 髪は彼の指をすり抜けて、重力に従い落ちる。
「――何をしているんだかな」
 溜め息の後、ひとつ落とされた自嘲気味な声音の言葉に、どうしてか苦しくなった。
 その溜め息はどういう意味合いを持っているのですか、なぜ思慕の情を表すような口づけをするのですか。
 長い間海の上に居て、傍には私という"女"が居て。そういう気分になってしまったのだろうか。けれど彼は自制した。それだけなのだろうか。
 優しく髪を撫でられて、その手つきの優しさに微睡むと"円"が解けた。ゆっくりと、ローさんが離れていく。
 一度足をつけた微睡みは容易く私の意識を引き込んで、すぐに体の力が抜けた。


********************


 ゆるりと瞼を持ち上げると、少し遠くに置かれた蝋燭の火が目に移った。見覚えのない場所、けれど懐かしい場所。――あぁ、夢だ。
「あらイオリ、起きたのね」
 身を起こすと、近くにいた女の人が私が眠っていたソファに歩み寄ってきて、にこりと微笑んで私の顔を覗き込んだ。
 中朽葉色の髪を揺らし、安堵したように息を吐く。
「……申し訳ございません、眠りすぎました」
 眠りすぎたから彼女は心配してくれていたようだ。
「いいのよ、疲れていたんでしょう。団長がもうすぐ帰ってくるわ。イオリが好きだと言っていたお菓子も頼んであるから、あとでおやつに食べましょう」
 誰が、帰ってくるんだろう。このひとのことも知っているはずなのに、そういう風に受け答えをしているのに、わからない。
「"――――"さん」
 私は誰かの名前を呼んでいるのに、その名前がわからない。耳鳴りのような音がして、その部分だけ掻き消されてしまう。
「"―――"さんは、ひとりで?」
「えぇ、でも心配ないわ。あなたも団長の強さは知っているでしょう」
「そう……、そう、ですね。出過ぎたことを申しました」
 女の人は悲しそうに笑い、私の髪を手で梳いた。


「"――"、イオリ。戻ったぞ」


 耳慣れた声。聴くと安心できる声。
 どくりと、心臓が跳ねたような気がした。
「目が覚めたのか。気分は悪くないか」
 女の人は私の正面に屈んでいたのだけれど、身を起こして半身をずらし、帰ってきたそのひとを振り返る。
 暗い部屋に溶け込んでしまいそうな、黒い服、黒い髪。白い肌に映える青のイヤリング。そして吸い込まれそうな、少しだけ温かい光を湛えた黒曜石の瞳。……懐かしい。
「……はい」
「"――"、紅茶を淹れてくれ。シフォンケーキを買ってきた」
「わかりました。イオリ、少し待っててちょうだいね」
 ケーキの入った箱を手渡した男の人は、私の隣に腰を落ち着けた。
 頬に手を当てられ、目元を親指で優しく撫でられる。
「昼寝をする前より顔色が良いな。やはりおまえには休息が必要だな。しばらくここで休もう」
「……っ!」
 ――ちがう。こんなところで休んでいるわけにはいかない、少しでも一ヶ所での滞在時間を短くして、情報をできるだけ錯綜させて。
 作戦の過程で顔を晒した、今まで隠されてきた賞金首(ブラックリスト)の顔が割れた。
 買ってきた恨みの数は知れず、追手も多い今。私のせいで、足止めをしてしまうわけにはいかない。
「私のことは気にしないでください。まだ体もちゃんと動きます」
「動かなくなるまで働くつもりか?」
「私は、そのためにここにいますから」
 だから動かなくなったら、そこへ捨てて行ってもらってかまわない。……そう、思っていたのに。
「……本当、は」
 ぽつりと言葉を漏らすと、隣から、意識を向けられたのを感じた。
「不安です。次に目が覚めた時に、ひとりだったらどうしようって……」
「あぁ」
「けれどそんな心配より、皆さんに無事でいて欲しいと思う気持ちの方が強いんです」
 そうか、と呟くような返事をひとつ落とされた。
「……ひとつだけ、わがままを言っても?」
「オレに聞けることなら。ひとつと言わず、いくつでも」
 黒のひとは目を伏せながら穏やかに笑い、私の言葉の続きを促した。
「私がいなくなっても、私のことを覚えていて欲しいんです。名前だけでも構いません。……私がここで生きていたことを、覚えていて欲しいんです」
 彼らは興味のないことはすぐに忘れてしまう。だからといって死んだら忘れてくれなどと言えるほど、このひとたちと付き合いが浅いわけでも、思い入れが強くないわけでもなかった。
「なんだ、そんなことか」
 くすくすとからかうように笑われる。けれど決して私をばかにしようとしているのではない。彼はとても頭が良くて、対して私は頭の回転がとてつもなく遅いけれど、見下されることはない。
「覚えておくさ、ずっと」
 黒のひとは私の目を見つめ真剣な声色で言った。けれど次の瞬間にはそれを掻き消すかのように、簡素なキッチンへとつい、と目を向けた。
「団長、イオリ、準備ができたわ。紅茶には何か入れる?」
「いや、オレはいい」
「……お砂糖と、ミルクを」
「ふふ、了解。イオリは甘いものが好きね。ひとまずゆっくり休んで、そうしたらまた移動しましょう。大丈夫よ、元々あなたにすべて任せなければ何もできないほど、団長も私も弱くないもの」
「そう、ですね……」
 ティーカップの中の琥珀色の液体に、ミルクが溶ける。
 受け取ったカップを傾けて甘い紅茶を飲んでいると、携帯電話が震える音が聴こえた。
 すぐに男の人がその携帯電話をポケットから取り出し、通話状態にする。
「"―――"か」
『団長、さっき……』
 私の耳は自然とオーラを纏って、電波に乗せられる声を聞いてしまう。
 電話を取ったその人は、しゃべりかけたその声を"待て"と言って制した。
「今、部屋に蝶がいる」
『了解。えっと、じゃあ……、三日後、蜂の襲撃がありそうだ』
 電話の向こうの声を聞きながら、思わず部屋に視線を巡らせた。蝶……?
 部屋を見回しても私たち三人以外、誰も、何もいない。
「わかった。段取りは」
『決めた通りに。あとで詳しい情報はメールするよ』
「そうしてくれ」
 短い会話のみで、電話が終わった。
「……仕事、ですか?」
「あぁ。といっても、オレたちは特に絡まない。何かあれば連絡が来る、その都度指示を出すだけだ。今回は"―――"が仕切るから、そう困ることもないだろう」
 彼は目を合わせてくれない。先ほどまでは合っていたのに、と不思議に思いながらティーカップに口をつける女の人に視線を向ける。
「…………」
 ぱちりと視線が合うと、瞬きの後に逸らされてしまった。
 とても些細なこと。けれど、気になってしまう。
「……?」
「イオリ、ほら。お前が気に入っているとヒソカが言っていたから買ってきたんだ」
 はぐらかすように、ついとシフォンケーキの乗ったお皿が目の前に出された。
 なぜかヒソカの名前は聞き取れて、ずっと耳鳴りがしていたのに、と内心で首を傾げる。
「……いただきます」
 頭の悪い私には、違和を感じることができても答えには辿り着けない。考えることを諦めて、フォークで一口大に切ったケーキを掬って口に運んだ。
 味がよくわからない、そういえばこれは夢なのだった。
「おいしい……」
 まるで記憶を辿るかのように、私はそう零す。漠然と、夢の中の自分が見ている世界をもう一歩引いたところから見ているような感覚を覚える。
「それは良かったわ」
 にこりと笑む女の人の言葉に隠れるように、とぽん、と水滴が深い水溜まりの中に落ちるような音がした。
 甘くてふわふわとしたケーキに、香りの良いミルクティー。薄暗いこの部屋には似つかわしくない、けれど少しだけ憧れてもいた、穏やかな午後の一時。
 静かに交わされる会話に相槌を打ちながら、ケーキを食べ終え、ティーカップの中も空にした。
 少しすると、どろりとした眠気が襲ってくる。
 頭が重くなるような感覚に米神を押さえると、眠っていろと言われてしまう。
 ソファに寝かされて、ブランケットをかけられれば抗うわけにもいかず。髪を撫でる手に目を閉じると、すぐにでも意識を睡魔に預けてしまえそうだった。
「……おやすみなさい、イオリ」
 言葉に誘われるように、ゆっくりと意識を手放す。
 ――ぐん、と、力強く体が引かれるような感覚がした。
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