veil affection

「――……っ」
 緩やかに、眠っていたイオリの目が開いた。
 寝とぼけた様子のイオリは天井を見上げ、次いでベッドの傍に置いた椅子に腰かけるおれの顔へと視線を向ける。
「起きたか」
 指先で弄んでいたイオリの髪を梳き、額に手を当てる。熱が出ているというわけでもなく、それどころか貧血のせいで少し低いと感じぐらいだ。
「ここは……お部屋? 私……」
 混乱した様子のイオリの頬を撫で、意識をこちらに向けさせる。
「突然蹲って気を失ったらしいな。心当たりはあるか?」
 イオリは少し考えた後、あ、と思い当たることを見つけたかのように小さく声を漏らした。
「……多分、何か消した記憶のことを……考えたのだと思います」
 気を失う少し前のことを覚えていない、だから何故そうなったのかもわからない。イオリはその不可解な自分の状態から、その結論を導き出したらしい。
「そうか」
 気を失った理由が消した記憶に関わることなら、これ以上刺激しても何も得られない。
「……どれぐらい、眠っていましたか」
「ほんの一時間だ。直に海面に上がる。それまで休んどけ」
 元々嵐のひどい海域の境をやり過ごすために潜ったのだ、ベポも潜水を嫌うのだし、必要以上に燃料を使うわけにもいかない。イオリが暑さに参る前に、浮上できるだろう。
「暑いか?」
「いえ、大丈夫です。……でも、喉が渇きました」
「水を持ってこさせるか」
 イオリが身を起こすのを手伝い、既に暑さにだらけているであろうベポを呼んでも来ないことは承知済みだったため、伝声管で食堂にいる誰かに水を持ってこさせるようコックに頼んだ。
 少しすると、シャチが水を持って部屋に来た。
「失礼しまーす」
 ノックの後、間延びした声と共に扉を開けて姿を見せる。
「大丈夫か?」
「はい」
 気遣わしげな表情のシャチにイオリは穏やかな笑顔で返事をし、差し出されたグラスに手を伸ばした。
「ほら、水」
「ありがとうございます」
 イオリは結露を起こしたグラスを受け取り、こくりこくりと喉を動かしながらゆっくりと水を飲み干した。
「船長、ベポがそろそろ上がるって言ってたんで、揺れに気をつけてくださいね」
「大丈夫なのか?」
「ペンギンもいいって言ってますから」
 暑さを嫌うベポが一刻も早く浮上したいと言っていても不思議ではない。しかしペンギンまでもがいいと言っているのなら、大丈夫だろう。
「イオリ、どうせ浮上しても夏島の海域で暑いから、気をつけろよ。廊下で蹲ってるの見た時、すっげェ驚いたんだからな……」
「はい、気をつけます」
 心底不安そうなシャチの言葉にイオリは困ったように笑みながら返事をした。申し訳なさ半分、嬉しさ半分と言ったところか。
 空になったグラスを受け取り、シャチは部屋を出ていく。と、扉のところで足を止め、振り返った。
「そうだ、暑くなるからってコックがシャーベット作ってましたよ」
 おれ自身、ベポほどではないにしろ暑いのは好きではない。
 シャーベットならアイスクリームなんかよりは甘ったるくもないだろう。視界の端で捉えたイオリは、ぱぁ、と顔を輝かせている。
「あァ、なら後で食いに行く」
「んじゃ、今度こそ失礼します」
 シャチはにかりと笑って、部屋を出て扉を閉めた。
「イオリ、お前も食いてェか?」
「! は、はい」
 冷えると良くない、ということはわかりきっているためか、遠慮がちにされる返事に小さく笑う。
「体を冷やさねェ程度にな」
「はい、ありがとうございます」
 穏やかに笑うイオリの髪を撫で、もう一眠りしていろ、と言い寝かせた。
 落ち着けるようにと髪を梳いてやると、イオリは微睡んでゆったりと目を閉じる。すぐに寝息を立て始め、やはり仰向けは気に入らないのかころんと寝返りを打った。
 こちらを向いて胎児のように丸くなるイオリの顔にかかる髪を退けてやる。
 潜水艦が傾いて、浮上を始めたのだとわかった。機関室から聴こえるゴゥン、ゴゥンという低い音が、殊更に大きく聴こえる。
「……イオリ」
 腹に響くような重低音に紛らわせるように、小さく名前を読んだ。
 そっと髪を掬い、その毛先に唇をつけた。
 思い出すべきことを思い出したと言えど、イオリの中にある記憶は少ない。生きてきた時間に対して不相応に記憶の量が少ない所為か、イオリはぼんやりとしていることが多いうえ、眠ってしまえば気配にだってそうそう気がつかない。
 わかりやすいところに触れさえしなければ、と。そんな妥協を込めた自分への甘えに、我に返って溜め息が出た。
「――何をしているんだかな」
 今抱えている思いを口にしたとして、それでどうなる? 自分でわかっているはずだ。
 クルーたちに示しがつかない。いつかアイツへの弱みになる。それに、イオリがそんな感情を一切おれに対して持っていなかったら。
 あぁなんだ、いくらでも自分の口を塞いでおく理由はあるのか。
 今のままでいい。こうして傍に置いておける、触れても何も咎められない。欲張れば身を滅ぼすということなど、とうの昔から世の理のようなものとしてわかりきっていることだ。
 何の返事もしない熟睡しきっているイオリの寝顔を眺めているというのも変な話だ。いつも通りに、本でも読んでいればいい。
 イオリの頭を撫で、ベッドの傍に置いていた椅子を元の場所に戻した。ソファへ腰を下ろし、読みかけの本を開く。
 一際大きく船が揺れ、窓から外の光が差し込むようになった。
 潜水中の蒸し暑さはなくなるが、夏島の海域だ。暑くなることは間違いない。
 しばらくすると船内も暑くなり、イオリが寝にくそうにごろりと寝返りを打った。
 布団などかけていても暑いだけだろうと、ペンギンが気を遣って出してきてソファに掛けたままのタオルケットをイオリの腹にかけ、布団は足元に畳んだ。
 クルーたちの賑やかな声が甲板から聴こえてきた。
 窓からデッキを見れば、天気の良さにはしゃぎながら掃除をするクルーの姿が目に映る。平和、だ。
「んー……」
 イオリが不満そうな声を上げながら、身を起こした。
「フフ、さすがに暑くて寝ていられねェか」
 からかいを交えて笑いながら言ってやると、少し前から目は覚ましていたのか思いの外はっきりした言葉が返ってきた。
「この暑さですから……」
 項にかかる髪が鬱陶しいのか、イオリは首の後ろに手をやり髪を根元から持ち上げて風を通す。
「暑ィなら上着は脱いでもいい。冷えようがねェだろ」
「そうします……」
 イオリが上着を脱いで畳んだところで、部屋の扉がノックされた。
 入室の許可を出すと、クルーが扉を開けて顔を覗かせる。
「どうした?」
「しばらく天候も崩れないらしいんで、布団とか全部洗濯することになったんですよ! それでおれはこの部屋の洗濯物の回収係です」
 シャチやペンギンは慣れているためか入室の許可を出せばすぐに入ってくるというのに、比較的入って日が浅いこのクルーは遠慮がちだ。
「あァ、なら全部持ってけ。イオリ、手伝ってやれ」
「はい」
 イオリは鎖の音を立てながらベッドから降りると、足元に畳んでおいた掛け布団のシーツを剥がしにかかる。剥がしたシーツを軽く畳むと、イオリはそれを敷布団のシーツを畳み終えたクルーに手渡した。そして、布団を畳み直しひょい、と担ぐ。
「甲板へ持っていけばいいんですか?」
「あ、あァ」
 手伝え、がここまでを意味するとは思っていなかったのだろう、クルーは焦ったように返事をした。
「イオリ、運んでいくのはいいが水は被るなよ」
「はい、大丈夫です」
 鎖の音が遠ざかっていくのを聴きながら、栞を挟み本を閉じる。潜水中の息苦しさはないがやはり蒸し暑く、本に集中するには支障がある。
 かといって昼寝をする気にもならない。直にコックが昼飯だとクルーを集めるだろう。
 ソファに腰を落ち着けたまま窓から賑やかな甲板を眺めていると、イオリが鎖の音を廊下に響かせながら戻ってきた。
「ローさん、昼食ができたので暇なら食べに来るように、との言伝をコックさんから預かりました」
「あァ……なら食いに行くか」
 太刀を掴み、ソファから腰を上げた。
 入り口で扉を押さえおれが出るのを待つイオリが、自分の毛先を指先で弄るのがふと視界に入る。眠っている最中におれがしたことに気がついているのかと、どきりとした。
「……どうした?」
 イオリはぱちりとひとつ瞬きをし、目を細めて微笑んだ。
「いいえ、なんでもございません。少し絡まっていただけですから」
 部屋を出ると、イオリが扉を閉める。陽の光の入る廊下は明るく、潜水中の海の底へと誘うような空気の重さもなくなっていた。
 廊下には鎖の音が軽快に響き、担いだ太刀も時折かちゃりと音を立てる。物騒なものが立てる音でも聴く場所が違えばまた違うものだと、取り留めもないことを考えた。
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