healing distortion

 風呂上がりの気怠さを感じながら部屋に戻ると、割れたマグカップや零れたコーヒーに気づいた誰かがソファの周りを掃除したらしいことに気がついた。足元に陶器の破片が落ちていないことを確認してソファに座りくつろいでいると、湯気の立つマグカップを両手に一つずつ持ったイオリが部屋に入ってきた。
「コックさんがローさんに、って」
 ことりと音を立ててテーブルに置かれたのは、湯気の立つミルクの入ったコーヒー。体に力が入らないことに不快感を覚えたために体が表面的に温まっただけで早々に出たのだが、それもばれているらしい。
 隣を軽く叩き、イオリを座らせる。イオリは随分さっぱりした様子でソファに腰を落ち着け、甘ったるそうなココアを啜った。
「床、誰かが片づけてくださったんですね」
「あァ、お前が怪我をするようなことはねェはずだ。ところで体調はどうだ? どこか悪いところはねェか」
「はい、平気です。……あ、波を被った少し後に、一度だけ眩暈がしました」
「そうか……。それ以外ねェなら大丈夫だろう」
 イオリはこくりと頷き、またココアを飲む。甘さにイオリの頬が緩むのがわかった。
「……美味ェか?」
「甘くておいしいですよ。飲みますか?」
 興味本位で訊いてみると、イオリはにこりと笑んでマグカップを差し出してきた。素直に受け取って一口飲んでみると、砂糖の甘さが口の中に広がる。
「……甘ェな」
「ローさんには甘すぎますか?」
「あァ。よくこんなもん飲めるな……」
 ココアを飲み込んでも残る甘さをコーヒーで誤魔化していると、イオリがおれの持つカップにじっと視線を向けてきた。
「……飲むか?」
 体を温めるためか、ミルクが入っているのだ。イオリにも飲めないことはない。
 しかしイオリはぱっと視線を逸らし、いえ、と小さく答えた。
「おれももらったんだ。飲めばいいだろ」
 イオリは逡巡した後、テーブルにココアを置いておずおずとマグに手を伸ばしてきた。手渡してやると、両手でカップを持ち口をつける。別におれが口をつけたから嫌だったというわけでもないようで、カップの向きも変えずに飲んだ。……間接キスを気にするだなんて、青臭いガキかおれは。
「甘くないですが、おいしいです」
「フフ、そりゃ良かったな」
 頭を撫でてやるとイオリは嬉しそうに笑み、またココアを飲み始める。やはり甘い方が好きらしい。
 そうして少しの間穏やかな時間を過ごしていると、扉をノックする音、"船長"と呼ぶペンギンの声が聴こえた。
「入れ」
 そういえば、おれとイオリが波に揉まれている間、何があったのかを報告しろと言っていたんだったか。
 ペンギンと一緒にベポも来ていたらしく、持ってきていた焼き菓子の載った皿をテーブルに置いてペンギンの隣に腰を下ろした。
「海域は無事跨いだのか?」
「えぇ。事前に集めていた情報通りで、燃料に余裕もあったのであの状況にしては安全に渡れましたよ」
「窓から確認したけど、敵はイオリたちみたいに掴まることもできなかったらしくて追ってくることはできなさそうだったよ」
「なら、ひとまずは安全だな。船はどうなった?」
 敵の武器による損傷がひどかったはずだ。ペンギンは苦い顔をして、ポケットに入れていたメモを引っ張り出した。
「甲板のへこみが7ヶ所、鉄球で削られて船の中に水が入り込んだところが2ヶ所。船内の修理は手早くやってくれたんでもう水漏れはありませんが、船大工が言うには甲板の床はまるまる張り替えだそうです。次の島で今回の戦闘での収穫が全部吹っ飛びますね」
「……だろうな。とりあえず海賊船は襲ってくか」
「それがいいでしょうね」
 今回の戦闘で得た分が消えるのは仕方がないが、次の航海のための買い出しや、クルーたちの息抜きに使う金が不足すればそれもまた困る。余程額の大きい賞金首でない限り遭遇した船は襲って金品だけ奪うぞ、と示し合わせた。
 話し合う間にコーヒーも飲み終え体は十分温まったが、海水を飲んでしまったためか喉が渇く。
「イオリ、お前は喉は渇いてねェのか?」
 そういえばそんな訴えも聞いていなかったと思い隣に座るイオリに訊くと、きょとんとした顔で首を傾げられた。
「え? ……いえ、特に」
「そっか、二人とも海水飲んじゃったもんね。イオリも水飲んだ方がいいよ。体の中で塩分おかしくなってるから」
「なるほど……。じゃあ、これを片づけるついでにお水をもらってきますね」
 イオリは空になったマグカップを二つ持ち、ソファから立ち上がると船長室を出て行った。
「とことんタフだな……」
「ですね……」
「でも前みたいに平気だからって遠慮しなくなったよね」
 ベポは菓子をつまみながら嬉しそうに言う。確かに、今もイオリに自覚症状はないがきちんと忠告は受け入れていた。
「キャプテンも具合悪くなったらすぐ言ってね!」
「船長は自分で何とかできるだろ」
 ペンギンの苦笑混じりの言葉に、胸を張っていたベポは"そうでした……"と肩を落とす。
「お前はその分イオリの様子に注意してやってくれ」
「アイアイ!」
 張り切って返事をするベポを微笑ましそうに見たペンギンは、メモをポケットに仕舞いこむとソファから立ち上がった。
「それじゃ、おれは戻ります。船長は能力使いまくった上に水に浸かってますし、今日は休んでください」
「あァ、そうする。急を要すれば呼びに来い」
「アイアイ、キャプテン」
 ペンギンが部屋を出ていくと、話すことも特になく部屋にはベポが菓子を齧る音だけが響いた。しかし、その静けさを裂いたのもベポだった。
「キャプテン」
「どうした、ベポ」
「キャプテンは……、イオリが記憶を失くす前、どんな風だったか知ってるの?」
「? ……あァ、知ってる」
 ベポがそんなことを気にするとは思いもしなかった。風呂でイオリを温めている間に何か話したのだろうか。
「イオリ……、自分よりおれの方が人間らしいって言いだしたんだ。あと、どんな自分を見ても今のままでいて欲しいって……。イオリ、大丈夫かなぁ……? ちょっとだけ様子が変だった気がするんだ」
「……かもな」
 人の首を千切り、血の海の中に立っていてなお顔色一つ変えない。旅団のメンバーは大概がそういう人間だが、イオリはこの世界に来てそれとはまた違う考え方に触れたのだ。その考え方に馴染もうとすれば、すっかり自分の身に染みた冷酷さが邪魔になる。イオリは自分の記憶が戻ってその冷酷さを当たり前のように晒してしまうことを危惧しているのかもしれない。
「イオリがお前みてェに優しくねェのは、十分わかってるな?」
「うん」
 無意味に危害を加えはしないが、かといって助けを求められて手を差し伸べるわけでもない。
「この船にいる者以外どうでもいいと思っていることも」
「うん、わかってる」
 おれが必要だと言わないものがどうなろうと、イオリの知ったことではない。
「なら、それでいいじゃねェか。他のヤツに冷てェ分、お前はとびきり甘やかしてもらえるんだぞ」
 ベポがそれをしっかりと理解しているのなら、ベポが心配するようなことは何もないはずだ。
「イオリの様子にはおれが気をつけておく。お前はイオリと仲良くしてりゃ、それでいい」
「……うん、わかった」
 あまり腑に落ちないらしいベポが、ゆっくりと俯けていた顔を上げて扉の方を見た。
 耳を澄ませると、すっかり耳慣れた鎖の音が近づいてくる。
「おれ、針路のチェックしてくるね」
「あァ。しばらくは鉢合わせた船には積極的にケンカを吹っかけろ。必要なら呼べ」
「アイアイ!」
 部屋を出たベポは扉の向こうでイオリと二、三言葉を交わすと、仕事をするべく戻って行ったようだった。
 イオリが部屋に入ってきて、グラスと水の入ったピッチャーをテーブルに置く。おれの隣に腰を落ち着けると、グラスに水を注いで手渡してくれた。
「イオリ」
「はい」
 自分の分も用意したイオリが水を一口飲んだのを見計らい名前を呼ぶと、まっすぐな眼で見上げられた。
「ベポが不安がってたぞ。お前が突然変なことを言いだしたって」
「えっ……、あ。そう、ですか……」
 イオリは困ったように笑んで、手元のグラスの中で揺れる水に視線を落とした。
 少し考え込んだイオリの言葉を待ちながら、水を飲む。渇いた喉を水が通る感覚が気持ちいい。
「私……、この船の皆のこと、だいすきです。だから、記憶が戻って思うように動けるようになった時のことが、一番こわい。ベポちゃんにも、保険をかけるような真似をしてしまいました……」
 声色から窺えるのは、初めて会った日の夜に含まれていたような先への不安、そして後悔。イオリも自分でわかっているのだろう。自分とこの船にいる人間の意識の違い、それによって生じる認識の歪み。わかっているからこそ、おれを除けば一番仲が良いと言えるベポに"嫌わないでほしい"と伝えた。
「アイツはお前の心配をしていただけだ。お前が不安に思うようなことは何もねェ」
「……はい」
「それに、だ。おれがイオリを気味悪く思わねェってのは、もうわかりきってるだろう」
 イオリがこの船を好きだと言うならそれでいい、願ったり叶ったりだ。だが、仮にイオリがもう船を降りたいと言ったとしても、もうそれはできないのだ。イオリの記憶は直にすべて戻る。そうなれば、おれの能力もイオリには通用しなくなる。この船を沈めることだって、イオリには容易いことだ。敵対しようなどと思えないようにとことん甘やかして居心地良く感じさせて、この船から逃がすこともしない。
 イオリはこの船が自分を脅威にも思っていると知っている。それでもおれやクルーが不安を取り除けるようにと言葉をかけてやれば、至極嬉しそうに笑う。
「そう……ですね。ありがとうございます」
 手離すわけにはいかないと言いながら与える言葉がすべて本心なのだと、イオリは気がついているだろうか。いや、イオリのことだ、自分の都合のいいようには決して解釈しない。それを虚しいと感じる自分にも苛立つ。
 話すだけで渇く喉に水を流し込み、微笑むイオリの髪をくしゃりと掻き混ぜた。触れるだけでその苛立ちが融ける理由。まだ、言葉にするつもりはない。
[BACK/MENU/NEXT]
[しおり]



「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -