missing humanity

 ローさんに信頼してもらえていることが嬉しくて、二つ返事で引き受けた。元々、人の盾になることも不安定な足場でいなくならないように捕まえておくことも、苦手なわけではない。水は苦手だけれど、掴まれるものがあるのならまた違う。それに、私が手を離してしまったら、大事な人を失ってしまうのだ。過去の雇い主たちに対するものと決定的に違う、私の意思。
 息を止めてはみたけれど、やっぱり波に襲いかかられて踏ん張らなければならない分、長続きしなさそうだ。ローさんの帽子が浮力でどこかに行ってしまわないように押さえた。ローさんはすぐに空気の泡を吐き出して、気を失ってしまったようだった。無理もない、悪魔の実の能力者は水中では体に力が入らないらしいから。
「……っ!」
 くら、と眩暈がした。こんな時に、とは思っても、それはどうしようもないことで。ローさんの肩に額を押しつけて、なんとかやり過ごす。波のはずなのに、全然ひかない……。息を止めているのが苦しくなって、思わず口を開いてしまう。途端に口の中が塩辛さでいっぱいになって、喉の奥まで海水が入り込んできた。
 咳き込むのに、海水は体から出ていってくれない。ローさんの体を離してしまわないようもう一度力を入れ直して、苦しさから意識がとおざかるのを感じた。


********************


 背中を強く叩かれる感触。だれ……?
 ぼんやりと意識が浮上する中、気道からせり上がってくるものに堪えきれず、思わず咳き込んだ。
「――げほっ、かは……っ!」
 口から水が溢れ出て、床に落ちる。息ができるようになって、不足していた酸素を吸い込もうと大きく呼吸をした。
「イオリ! シャチ、イオリが起きたよ!」
「お! よしよし、ちゃんと水吐いたな」
 私の背を叩いていたらしいベポちゃんと、私の傍で屈み背中を擦ってくれるシャチさん。私の体にはタオルが巻かれていて、船から離れることもなく無事でいたのだと自覚する。それなら、彼は……?
「ベポちゃん、シャチさん。ローさんは……!?」
「第一声がそれかよ! 船長は今風呂で体温めてる。無事だったから、安心しろよ」
「良かった……」
 この場にいなかったからまさか、と思ってしまったけれど、先に目を覚ませば体を温めているのもごく自然なことだ。とにかくローさんの無事を皆が確認しているなら良かった。
「どっか具合悪いとかあるか?」
「えっと……口の中が塩辛いです……」
「じゃあ口すすぎに行った方がいいな。ベポ、イオリの世話頼んだ」
「アイアーイ! イオリ、こっち」
 手を引かれるままついていくと、共同の洗面所に連れて行かれた。そこで口をゆすいで、塩辛さを取り除く。
「あとでコックにココアもらおうね」
「はい……」
 海水で髪もべたべたしているし、肌も乾燥した感じがして気持ち悪い。
 ふ、とベポちゃんが顔を上げて、耳を澄ませる素振りをした。
「キャプテンがね、浴場空いたから使っていいって。掃除中の札かけてあるけど、イオリは気にしないで入っていいからね」
「わかりました」
 私には"掃除中"だと書かれていてもさっぱりわからないので、とにかく扉の前にかけてある札を気にしなければいいのだと考える。多分、他のひとが入ってこないようにと誰かが考えてくれたのだろう。ベポちゃんが着替えを取りに行ってくれるというのでそれに甘えて、場所は知っていても入ったことのない浴場へ向かった。
 そこへ着くと扉には札がかけられていて、その扉が開いて中からローさんが出てきた。
「ローさんっ」
 首にタオルをかけて、ほかほかと体に纏わりついている湯気からちゃんと温まってきたのだとわかる。ローさんは私に気づくと、顔を向けてふ、と笑んだ。
「イオリ、お前のおかげで助かった」
「えっ、あ、そんな……!」
 当たり前のことをしただけなのに……! なんだか気恥ずかしくて、思わず視線を落とす。
「お前にしかできねェことだっただろ。それでおれが助かったのは事実だ。謙遜するな」
 ローさんはくつくつと笑い、私の前に立つと頭を撫でてきた。
「ゆっくり温まってこい」
「は、はいっ」
 ローさんを守ったのは当然のことで、だから感謝されるなんて予想していなかった。むず痒くて、慌てて脱衣所に入る。背後でローさんがおかしそうに笑う声が聴こえて、気分を害してはいないことに安心しつつも少し恥ずかしくなった。
 海水ですっかり濡れてしまった服と下着をあまり濡れていないバスタオルに包んで置き、浴場に入った。一人で入るにはとても広い浴場だ。銭湯みたいで懐かしいな、と思いながらとりあえず海水でべたついた全身を洗ってしまおうとシャワーを手に取る。
『あ、キャプテン!』
 ベポちゃんの大きな声がして、思わず耳を澄ました。
『ベポか。さっきイオリが入っていったぞ』
『誰も入らないように見ててくれたんだね! ありがとう』
『いや。しっかり浸からせてこいよ』
『うん、わかった』
 ローさんが廊下から去る足音と、ベポちゃんが脱衣所に入ってくる音がした。
 シャワーから温水を出して髪にまとわりつく海水を洗い流していると、擦りガラスの扉越しにベポちゃんが声をかけてきた。
「イオリ、入るよー」
「あ……どうぞ」
 ベポちゃんはローさんの言葉通りに実行する気らしい。一度シャワーを止めて入り口を見ると、ブーツを脱いで、裾と袖を捲りあげたベポちゃんがのそのそと入ってきた。
「イオリ、髪洗ってあげるね」
 相変わらず適当に済ませてしまうと思われているようで、それには笑うしかない。
「はい、お願いします」
 ベポちゃんは丁寧に髪を洗ってくれて、体も洗えばさっぱりした。
 大きな浴槽に脚を伸ばして浸かると、ベポちゃんがお湯を掬って肩にかけてくれる。
「イオリ用のシャンプーとか持ってくれば良かったね」
「どうしてですか?」
「おれ、イオリのお風呂上がりの匂いが特に好きだから。イオリの匂いとも合っててすごく好き!」
 匂いはあまり気にしたこともなかった。確かに船長室のシャワールームに置いてあるシャンプーやボディソープはローさんが私の好きそうな匂いを、と選んで買ってきてくれたものだ。それぞれ置いておくのもなんだからと、ローさんも同じものを使っている。
「ローさんもお風呂上がりは同じ匂い……ですよね」
「ううん、においって同じものつけててもひとりひとり違うんだよ」
「そこまで気にしたことはありませんでした……」
 多分、やろうと思えばゴンのようににおいで人の足跡を辿ることも可能だとは思うのだけれど。やろうと思ったことがないから、気にしたこともなかった。
「あれ? それじゃあイオリはどういう時に嗅覚を強くしてたの?」
「生き物の追跡じゃなくて……異臭の元を辿ったりとか」
「あぁ、なるほど! それなら人間のにおいの違いなんて気にしないよね」
 こうして話していると、なんだか不思議な感覚だ。五感について動物と話し合うなんて。難しいことを考えられなくなって、ひたすら自分の体を強くして、鋭くして。随分動物的になってしまった、と思う。それでも理性が働くから、まだ人間だといえるのだけれど。ベポちゃんは、外見以外私と本当に差はないのだろうな、と思う。それどころか、ベポちゃんの方が複雑な思考もできるのだからもっと人間的かもしれない。
「イオリ? どうしたの、眠い?」
 ぼんやりしていたのがベポちゃんにもわかったのか、顔を覗き込まれた。
「! あ、いえ……。少し考えていたんです」
「? なにを?」
「……私なんかより、ベポちゃんの方がよほど人間らしいなぁって」
 ベポちゃんは知らないけれど、私は平気で人を殺せる。相手が女子供や老人であろうとも、容赦なく。カトライヤで子どもを助けようと思ったのだって、ベポちゃんが"そうしたい"と言ったからだ。仮にあの場でベポちゃんが助けたいと言わなかったとしても、私はそれを非難しなかった。前の世界に迷い込んだばかりの時の私は、身一つでどうしようもなく、生きたいがために夜明け前の市場から商品を盗んだり、少しずつ戦い方を覚えて、絡んでくる路地裏の人間を痛めつけて金銭を奪ったりするようになった。日を追うごとに、少しずつ悪いことに罪悪感を感じなくなっていった。それから天空闘技場で戦うようになって、その後は仕事をして。依頼内容といえば盗みや殺しの伴うものがほとんど。
「そんなことないよ」
 ベポちゃんの声で、過去を思い出していた思考がふっと途切れる。
「……あのね、イオリが本当は冷たいって、おれ知ってるよ。おれなら絶対にやりたくないこともやったことがあるんだろうなって思うよ」
「!」
 それは、正しく今考えていたことに対する言葉だった。
「でも、それが周りの人全部に対してじゃないのだって知ってる。イオリには厳しい旅の邪魔になるものが少ないだけ。おれは、イオリがこの船の皆に優しかったらそれでいいよ。……そっか、イオリは傍にいたけど眠ってたもんね。キャプテンにもこの話したことあるんだよ」
「そう、だったんですか……」
「うん。あとは、ペンギンもそう言ってた! イオリはね、ちゃんと割り切れるんだよ。おれやシャチみたいに困ってる人を見かけたらすぐ助けたがるっていうのはイオリから見たら人間らしいって思うのかもしれないけど、"海賊"にとっては少し邪魔なものなんだよ。おれたちは無法者だからね!」
 ベポちゃんは誇らしげに笑って、私の頭を撫でた。
「イオリはちゃんと、おれたちが"こうしたい"って言った時にそれができるのか判断できると思う。キャプテンは文句言いながら結局おれたちのわがままに付き合ってくれるんだけどね。イオリのそういうところも、すごく大事だよ」
「ベポちゃん……」
「でもひとつ約束して! この船のクルーだけは、絶対に見捨てないって」
 私が何を置いても大事にしたいもの。ローさんと、彼が大事にしているこの船のひとたち。それだけだし、それしかない。
「もちろんです」
 残すはずの四年分の、一番最初の記憶。私がオーラというものを使うようになった、一番初めのきっかけ。それさえ戻れば、今まで戻ってきた記憶の中の私の戦い方も、理解できる。ペンギンさんが危惧していたような、ハートの海賊団に敵対する理由となる記憶は一切ない。
「ベポちゃん、もう少しで全部思い出しそうなんです。けれど、今した約束だけは忘れませんから。どんな私を見ても、今のままでいてくださいね」
「うんっ。大丈夫だよ」
 きっと私は、次に戦うことがあれば"敵なら生きてさえいればいい"と考えてしまう。気を失っていたからどれくらい前の時間になるのかわからないけれど、先程の戦闘でだって敵の手首の骨を粉々に踏み砕いた覚えがある。ほとんど無意識に、体が覚えていることを頼りにやったことだった。
「イオリ、あんまり長湯するとのぼせちゃうよ。そろそろ出よっか」
「……そうします」
 浴槽から出て、タイル張りの床に足をつける。水に濡れない鎖が、カシャン、と乾いた音を立てた。
 脱衣所に戻ると、ベポちゃんは新しいバスタオルを持ってきていたらしくそれで私の体を包む。それから髪を丁寧に拭いてくれた。
「いっつも適当なんだから。ちゃんと乾かさないとだめだよ」
「ふふ、はいっ」
「イオリ、怒られてるんだからね!」
 心配して怒ってもらうことも、なんだか初めてな気すらした。
「ごめんなさい……うれしくて。ベポちゃんが怒るのは、心配してくれているからでしょう?」
「そうだよ! イオリは仲間なんだから、心配するのは当然だよ」
「……はい」
 そういえば、シャチさんにも熱中症になってしまった時に怒られた。私の"平気"は、皆にとってはそうではない、とか。私は風邪をひかないから髪が多少濡れたままでも平気なのだけれど、皆はそうじゃない。ベポちゃんがひどく心配してくれるのも、その差がよくわからないからだろうか。何にしろ、こうして注意してくれることは気にかけるべき。
「今度から、気をつけますね」
「うん、そうしてね」
 体の水気を拭って服を着ると、ベポちゃんが洗濯物を抱えていこうとする。自分でやると申し出たのだけれど、ベポちゃんには首を横に振られてしまった。
「イオリはイオリの仕事を頑張ったんだから、このくらいはおれに任せてよ。食堂に行けばコックがココアくれるよ」
 そう言いきられてしまえば食い下がるのもなんだか変な気がして。役に立てたのならそれでいいと思うことにして、コックさんが入れるとびきり甘いココアをもらおうと、のんびりと食堂に足を向けた。
[BACK/MENU/NEXT]
[しおり]



「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -