secret gladness

 すっかり寝入ったイオリの寝顔を眺めながら、先程の会話を明日は覚えているのかとふと不思議になった。普段より確かに素直だったが、あれほど真剣な話を忘れるはずもない。大方おれがシャワーを浴び終えるのを待っている間に酔いも醒めかけていたのだろう。気分の浮き沈みが激しかったのは、おそらく本人のここ最近の体調の所為か、アルコールが入っていたためだ。
 外で飲んでいた時には"明日の朝にでもからかってやろう"などと思っていたのだが、あんな問いを投げられた後では、それもできそうになかった。
 そのうち、イオリも壁にぶつかるだろうとは思っていた。クルーの中にも、船に乗って"偉大なる航路(グランドライン)"の天候を体感し、初めて己の覚悟の甘さを知る者もいる。ただ、イオリと他のクルーとで違うのは、イオリが既に別の覚悟を持っていたという点だ。新しいものを持たせる分には苦労は少ないが、イオリは今まで持っていた、捕まって情報を奪われるような危機に陥ったら速やかに"死ぬ"覚悟を、苦しんででも最後に立っているために"生き抜く"覚悟、つまりはほとんど正反対と言っていいものへと変えなければならない。
 ただ、イオリが自分でその壁を見つけたというのが予想外だった。昼間に海で遊んだことも絡んでいるようだが、それにしても、だ。
 猶予も長く取ってやったし、イオリならば記憶が戻れば命の危機に陥ることもそうそうないはずだ。新世界へ乗り出す前に、覚悟を決めてくれれば十分だった。
 ずいぶんと遠くからするような気がするクルーたちの声を聴きながら、酒を呷る。
 先程の会話で、イオリは"水"を何に例えていたのだろうか。難しいことを考えられない割には、直感的に少し難しい比喩を使ってくる。"水"に浸けられることは、イオリにとって数少ない弱点。自力で逃れることもできない。……やはり、"拷問"だろうか。
「……あれから一度も目は離しちゃいねェだろうが」
 指通りの良い髪を梳くと、イオリがぴくりと睫毛を震わせた。
 ボトルもすっかり空になり、最後の一杯を飲み干す。砂浜ではまだまだクルーが酒を飲んでいるようだが、火の始末を怠るような基礎もなっていないやつらでもない。敵が来たら呼びに来いとも言ってあるし、寝ていても問題ないだろう。
 グラスをテーブルに置き、ソファの足元に散らかっている鎖を軽く手に巻き取って、イオリの膝裏と肩にそれぞれ手を差し入れ、抱き上げる。軽い体はすんなりと持ち上がり、巻き取りきれなかった鎖がシャラシャラと流れるような音を立てて落ちた。
 お互い寝相は悪くないからいいが、壁側に寝るのはいつもおれだ。身の丈に合わせられたベッドはおれにはちょうどいいが、イオリには広すぎる。それで足元に鎖があると寝にくい以外の感想が浮かばない。定位置に落ち着いてイオリの足首から伸びる鎖を床へ払い、背中へ手を回して抱き寄せた。
 イオリは寝にくそうに少しの間もぞもぞと動いていたが、良い位置を見つけたのかそこに落ち着いた。
 クルーたちの騒ぐ声は遠く、ゆっくりと睡魔が襲ってくる。何もない可能性の方が高いのならいいか、とそのまま目を閉じた。


********************


 ――結局、翌朝まで何事もなく。クルーたちは騒ぎ疲れてそのまま砂浜で雑魚寝をするか、余力のあった者は船へ戻ってきて寝たようだった。
 起きて身なりを整えていると、普段よりは良いらしい夢の中でむにゃむにゃと微睡んでいたイオリも起き出し。朝食を終えて出航の準備を整えた潜水艦は、陽が高くなる前に出航した。
 穏やかな天候の下を進む中、コックからもらってきたおやつと紅茶を楽しむイオリの傍でコーヒーを啜りながら医学書を読んでいると、部屋の扉がノックされた。
「入っていい」
 入室の許可を得て、扉を開け部屋に踏み込んできたのはシャチだった。
「失礼しまーす。イオリ、お前の荷物ってあれか?」
 シャチはイオリの傍まで歩いてくると、皿の上のクッキーを摘まみ上げながら部屋の入り口の傍にある袋の山を指差した。コックはベポとイオリに甘く、粉物は切らすことが少ないためによく焼き菓子を振る舞う。ベポはともかく、イオリは三食きちんと食べるために少し食べると控えるようにしているので、クルーたちが目敏く見つけては摘まんでいた。
「はい」
「医務室じゃない方の隣の部屋な、片付いたから荷物運び入れていいぞ」
 船長室とも繋がっている医務室とは反対にある壁を指差し言うシャチに、イオリは首を傾げた。
「えっと……?」
「あァ……、一から説明しねェとわかんねェよな。ほら、イオリも服とかいろいろ買っただろ? おれらは部屋にそういうの仕舞うとこあるし……ってか、女ほど多いワケでもねェからいいんだけど。そもそもイオリには部屋もねェから、一室ぐらいくれてやってもいいだろって話になったんだよ。そんで、隣の部屋を片付けたってワケ。船大工がクローゼットやらタンスやら作ってくれたから、いいように使えよ」
 イオリは一瞬おいてシャチの言葉を理解すると、慌ててこくこくと何度も頷いた。
「よし、理解できたな。そんじゃ、荷物移動すっか。船長、ちょっと扉開けたままにしますけどいいですか?」
「あァ、かまわねェ」
 ティーカップに残った少量の紅茶を飲み終えたイオリはソファから立ち上がり、シャチと共に荷物を移動し始めた。グラープ・マールの商船でも船員に見立ててもらったものはかなり買ったし、カトライヤでもイオリが実はあまり寒さに強くないことを知り何着か買い与えた。日用品などもイオリが時折整理してはいたものの無造作に置かれていたため、ここ最近は部屋がどうにも散らかっているように思えて仕方がなかったのだ。イオリの体調もすっかり戻ったし、荷物を移す準備も整った。天気も穏やかな今のうちにと、空き時間にシャチが来たようだった。
「あ、そうだイオリ。つなぎもできたから、これ片付いたら一回着てみてくれよ。眠かったら無理はしなくていいけどな」
「つなぎ……!」
 荷物を持ち上げながら、ぱぁっと表情を明るくするイオリ。華やかな服よりクルーたちと揃いの服に喜ぶとは。嬉しいような気もするが、それはどうなんだと思うところもある。まぁ、イオリがつなぎを嫌がったところでコックあたりが"年頃の女の子なら仕方ない"とでも言い出すのだろうが。クルーたちも、存外イオリに甘い。
 シャチが荷物を運び、イオリは自分で仕舞っていく、という方法を取ったらしく、しばらく船長室にはシャチの出入りだけがあった。読んでいた医学書のページが三桁になった頃、イオリが戻ってきて、あとから黒いつなぎを持ったシャチがまた部屋に入ってきた。
 イオリの足枷のことも考慮し作られたつなぎの着方を一通り説明し終えると、イオリを脱衣所で着替えさせ、シャチは"失礼します"と言っておれの正面に腰を下ろした。
「上手くいったみてェだな」
「えぇ、まァ。イオリも着方はちゃんとわかるみたいだし、問題なさそうですね」
「あとは予備の注文か。仕立屋への説明はお前に任せる」
「アイアイ!」
 もうほとんど視線を走らせていなかった本を栞を挟んで閉じ、テーブルの上に置く。冷めたコーヒーを啜り、気まぐれにクッキーに手を伸ばしていると、試着を終えたイオリが脱衣所から戻ってきた。
「あの、どうですか……?」
 イオリはおずおずと姿を見せ、扉の前に立った。
「お、似合ってんじゃん」
 袖はカデットに撃ち込まれた記憶の中のイオリと同様、小さな武器を仕込みやすいようにと余らせて口が広くなっている。邪魔じゃないのかと不思議に思うが、扉を開ける時にも特に不慣れな様子もなかった。きっとこれも体が慣れているのだろう。強烈な蹴りを繰り出す脚は惜しみなく剥き出しにされているが、それについてイオリは気にしていないようだ。どう工夫したのかはわからないが、ショートパンツの形状になっているのであろう裾は紐で寄せ上げられていて、蝶結びをした紐がちらちらと揺れていた。
「着てみてどうだ? どっかきついとかあるか?」
「えっと……落ち着きます、袖が」
「袖かよ!!」
 イオリは腹の前で軽く組んでいた手を解き、持ち上げた。どうやら袖は随分余っているらしい。手を隠して落ち着くというのは、ある意味では警戒心があるという心理的要因によるものでもあるためあまりよろしくはないが、イオリが落ち着くというのなら許容してやってもいい。
「あと、動きやすいです」
「あァ、そっちを聞きたかったんだけどな」
 シャチは一通りここはどうだ、こっちはきつくないか、とイオリ本人の着心地を確かめた後、問題もなさそうだということで満足げに一度深く頷いた。
「これは次の島でもお預けな。予備も作らなきゃならねェんだけど、それは仕立屋の方が早いからな」
「なんだか……すごくお金がかかっている気がします……」
 申し訳なさそうに言うイオリに、シャチは気にすんなよ、と笑った。
「これはウチの決まりみたいなもんだし、船長がいいって言ってるんだからいいんだよ」
「そういうことだ」
 イオリは安堵したように息を吐くと、おれの手元のカップに目を移した。
「ローさん。コーヒー、淹れ直してきましょうか?」
 どうやら、時間の経過も考えすっかり冷めていると見たらしい。
「ん……あァ、頼んでいいか」
「はい。私もティーカップとお皿を戻してくるので」
 イオリはまたワンピースに着替え直すと、来た時と同様に小さなトレーにおれとシャチが食べたおかげにすっかり空になった皿とティーカップを載せ、そこにおれが使っていたマグカップを加えた。
「じゃ、おれも戻りますね」
「あァ、ご苦労だったな」
「いえ!」
 シャチが扉を支えてやり、トレーを持ったイオリが礼を言いながら潜り抜ける。音を立てながら扉が閉じられた後は静かで、無言のままの空間であることに代わりはないというのにイオリがいないというだけで少しだけ物足りなさを覚えた。イオリを部屋に置くようになってから、随分と毒されてしまったらしい。別にそれが嫌ということもないため、いいのだが。
 隣の部屋は船長室ほどではないにしろ多少のスペースがある。ベッドでも買ってやろうかと思っていたが、慣れた抱き枕がなくなるというのもまた少し寂しい話だ。
「……黙っておけばいいか」
 ひとり呟き、閉じていた医学書をまた開く。数ページ進んだところで、イオリが扉を開けマグカップをひとつだけ持って部屋に入ってきた。
「悪ィな」
 受け取ったカップの中で湯気を立たせる黒い液体を喉の奥へ流し込み、横目でイオリが隣に腰を落ち着けるのを見守った。
 イオリは背中をソファの背凭れに完全に預けて、ぼんやりと宙を眺め始めた。特に考え事をしているわけでもなさそうだが、暇なのだろう。区切りのいいところまで読み終えて、栞を挟んだ医学書をぱたりと音を立てて閉じた。
 膝の上にゆったりと置かれている手を取ると、イオリが慌てたように身を起こす。
「え、あの……?」
「あの袖」
「袖……?」
「武器を、仕込むのか?」
 細い指を撫でると、イオリの指先がぴくりと動いた。傷一つない白い指が一度は自分の首に食い込んでいたのだと考えると、うすら寒く感じる。武器などなくとも、人を殺めることのできる手。そんなものには何度も出会ってきたが、この少女と言って差し支えない体からそれほどの力が生み出されるということを認識し直す度、囲い込んだ以上イオリへの対応を間違えてはならない、と思うのだ。
「……私が袖を余らせていたのは、そのためだったんですね」
 イオリは悲しそうに笑い、呟いた。それからおれの顔を見上げ、ふるふると首を横に振る。
「武器を仕込もうとは思っていません。ローさんのことも、皆さんのことも、信頼していますから」
 シャチに要望を言っていた時は、少ない記憶を手繰り寄せていただけだったらしい。わざわざ袖を余らせている理由もわからず、以前の自分がそうだったのだからそれが必要なのだろう、と考えて。
「……そうか」
「武器といえば、こちらに来た時に私が持っていたもの、錆びてしまっていたのですが……」
「すっかり忘れていたな……」
 早いうちに引っ張り出して、武器庫にでも入れておけば良かった。しかし、錆びてしまったものは仕方がない。
「大事なもんか?」
「いえ、安物です。オーラを武器に纏わせることも可能だったらしくて……、あれで十分だったみたいです。もともと、殺傷能力を求めて持っていたものでもありませんし」
 初めて会った時と同じように、敵の気を他へ向けて隙を作らせるために使っていたのか。
「なるほどな。なら、急いで手に入れる必要もねェのか」
「はい。一番得意なのは肉弾戦ですから」
「フフ、頼もしいな」
 頭を撫でてやると、イオリは嬉しそうに笑った。
「昨夜話したこと、お前はちゃんと覚えてるか?」
 おれの手に甘んじていたイオリは、その言葉にぴくりと肩を跳ねさせた。それから、眉を八の字にしながら視線を落とす。
「……はい。ちゃんと、覚えています」
「あの時言ったタイムリミットが、許せる中での限界だ。だが、時間はかなりある。待っててやるから、ちゃんとここまで来い」
 ハンターとしてどれだけ有能だったとしても、大海賊時代の中では生き残る意思がなければ意味がない。海賊の肩書を持っていても、イオリの心はまだハンターとしてのものでしかないのだ。イオリが海賊としての覚悟を持って生きられないのなら、死なせない為には新世界へ入る前に船を下ろすしかない。しかし、そうするわけにはいかない。
 イオリは頷くと、おれの手を握り返し、刺青の入った手の甲を己の額に当てた。
「私……、あの時会ったのがローさんで、本当に良かったと思っています……」
 心底安堵したような表情。所作も相俟って、祈りが届いたのだと言っているように見えた。
「……なぜだ?」
「ローさんは、厳しさも優しさも備えたひとです。それらを以て、私を導いてくれる……。だから私も、逃げずに覚悟を決めようと思えているんです」
「お前にしちゃあ、それだけでも進歩だな」
「はい……」
 廊下からバタバタと騒がしい足音が聴こえ、イオリがおれの手を放した。足音は船長室の前で止まる。
「キャプテン、イオリ、お昼寝しよう!」
 足音の主はやはりベポだった。別に眠くはないが、眠くなるまで医学書の続きでも読んでいればいいか。膝の上に置いていた医学書と、傍に立てかけていた鬼哭を手に持ち、帽子を被りながら立ち上がる。
「イオリ、そのコーヒーも持ってこい」
「はいっ」
 昼寝にはイオリも賛成らしい。まだ熱いマグの取っ手を持ち、部屋の外へ向けて返事をしながら立ち上がった。扉を開ければベポが嬉しそうに待機していて、おれの太刀を引き受けて揚々と甲板へ向けて歩き出した。
「キャプテンもイオリも、なんか機嫌がいいね」
「そう見えるか?」
「うん! 何かいいことあったの?」
 小首を傾げて訊くベポに、イオリがふわりと笑んで頷いた。
「はい、ありましたよ。シャチさんがつなぎの試着をさせてくださったんです」
「へぇ! おれも見たかったな。楽しみにしとこ。……キャプテンは? どんないいことがあったの?」
 いいこと、か。船長として言うのなら、イオリから"信頼している"と言葉にされたこと、イオリが覚悟を決めようとしていることを知れたということだけでも当てはまるだろう。おれ個人としてなら、イオリに"逢えて良かった"と言われたこと、だろうか。何にしろ、言葉にすれば気恥ずかしいものでしかない。
「……ヒミツ、だ」
 分厚い医学書の背表紙を肩に載せながら返した言葉に、ベポとイオリは顔を見合わせて不思議そうに首を傾げていた。
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