chapter.02

 ローとイオリの共同生活が始まった数日後、イオリもすっかりローとの生活や仕事、またネリアやアベルとの関わり合いに慣れていた。眠る時や、ローが単独で出かける時にはコウモリに変化して鳥籠に収まらなければならないなど多少制限はあったが、それでもイオリはのんびりと生活していた。
 いつも通りに朝食後のコーヒーをローの為に淹れ彼の元へ持ってきていたところ、今日は少しだけいつもと違う出来事が起きた。
「ローさん、新聞は読んだ!?」
 いつぞやと同じように騒がしく入ってきたネリアに、ローはイオリの手からカップを受け取りながら顔を顰め溜め息を吐いた。
「お姉ちゃん、ローさんまだ新聞を読んでないよ!」
 アベルがやはり息を切らしながら入ってきて、ローとイオリに向けてぺこりと頭を下げた。その小さな手には、丸められた新聞が握られている。
「今、イオリに取りに行かせようとしていたところだ」
 ローはアベルから差し出された新聞を受け取り、ネリアが言う頁を開く。先日北の街を騒がせたヴァンパイアによる殺人事件が"再び思わぬ形で解決した"と、そんな記事が書かれていた。しかし、不可解なのは犠牲者が五人いたこと。犯人が複数いる可能性も視野に入れ、捜索は続けるという言葉で締め括られていた。イオリの身の安全は、保障されないというわけだ。
「まぁ、それは表向きの情報ね。惨殺死体なんて、文字にするのも問題になりそうだもの」
 ネリアは来た時から小脇に抱えていた茶封筒をローへ手渡した。
「これは?」
「家に届いた事件の詳細よ。イオリさんが言った通りの傷がつけられていたわ」
「いいのか、んなもんおれのところに持ってきて」
 ローはそうは言いつつも、封筒の紐を解いていた。
「ちゃんとお父さまに断って持ってきたわよ」
 中に入っていた書類に一通り目を通すと、イオリが犯人の死体を放置した場所、つけられていた傷等々、話を聞いた段階では当人であるイオリと死んだヴァンパイアしか知り得ない情報が羅列されていた。
 イオリもローの手元を覗き込みその文字の羅列を目で追い、自分の発言が嘘でないことを証明できたと、小さく安堵の息を吐いた。
 尤も、数日の間にイオリの働きぶりを見てローもネリアもイオリが人を襲うことはないと結論づけていたのだが。
「とりあえず、これでおれとネリアからのお前への疑いは晴れたな。あとは政府の捜索を掻い潜らなきゃならねェのか……」
 ローが昼間に出かける時にはイオリを同伴させるようにしていたため、いやでもその容姿が目を引き住人はイオリがヴァンパイアではあるもののローの監視下にいて危害は加えないとわかっていた。それでも怪物というものがやはり怖いらしく遠巻きに見られることも多々ある。しかし迫害されるわけではないので、イオリも気にしていない。しばらく過ごしてみてわかったが、事情を知らない住人たちにとってイオリは"変わり者のローが飼い始めた変わったペット"でしかないらしい。
「……政府は嫌いです。ローさんみたいに、話を聞いてくれないから」
 しょんぼりと言うイオリに、ローは皮肉めいた笑みを浮かべしょうがねェよ、と返した。
 ふと壁に掛けられたカレンダーを見たローが、思い出したように言う。
「今日はシャチの家のばあさんの往診か……。イオリ、出掛けるからすることがあるなら済ませてこい」
「はい。確か水瓶の中の残りが少ないので、水を汲んできますね」
「あァ」
 ――本当に、イオリが来てから生活が楽だ。力仕事は言いつければ手早く済ませてしまうし、悪魔祓いや怪物退治もイオリの補助のお陰で今までより苦労が少ない。迷信に踊らされることもなくなったため、殺す必要のないモノを殺すことも、効果のない手段を使ってしまうことも格段に減っていた。別に殺すことにも生かすことにも何か思うことはないが、手間が減る。面倒を嫌うローにとって、それが一番のメリットだった。
 ローのそんな心中など知らないイオリは、キッチンに行くとひょいとそれ単体でも重いはずの水瓶を抱え上げ、教会の裏にある井戸の傍へと持っていった。滑車を使い桶に水を掬い上げては、水瓶の中へ入れていく。困らない程度に水瓶の中が満たされると、イオリは柄杓に水を掬い、それを飲み干した。少し喉が渇いたからという程度では、到底飲むことのない量。コップ二杯ほどの量の水を飲み干してなお、イオリは物足りないと訴える喉を撫でた。
(……のど、かわいた)
 何を飲めばその渇きが満たされるのか、わかっていながら気づかない振りをした。すっかり居心地良く思えるようになってしまったこの場所を、離れるのが惜しかった。まだ我慢できるはずだと自分の体に言い聞かせ、柄杓を濯いだ。
「イオリ、終わったか」
 家の中から、ローが呼ぶ声が聴こえる。
 イオリは慌てて立ち上がり水瓶を持ち上げ、家の中へと運び込んだ。
「留守は任せてね。行ってらっしゃい、ローさん、イオリさん」
「……いってきます」
 イオリはネリアとアベルの見送りに躊躇いがちに返事をし、お世辞にも似合うとは言えない十字架を首から提げ、その装束に似つかわしくない太刀を抱えて歩くローの後を小走りで追った。
 目の下の隈や気怠そうな挙動が住人たちの人の好さをくすぐるのか、何かと物を渡してくるのを受け取りながら、シャチの家までただ歩く。シャチの家に着けば、イオリはローが診察をするそばに静かに佇んで彼が仕事を終えるのを待つ。時折シャチがくれる菓子を齧りながら、シャチの愚痴や笑い話に耳を傾ける。シャチは初めこそイオリへの恐怖心を見せていたが、次第に話をしてくれるようになった。イオリが出かける時といえばすることはローの往診の付き添いか、買い物の荷物持ちぐらいだ。シャチのところに来ることは、こうして話をしてもらえるためイオリも特に楽しみにしていた。
 診察を終えてシャチの見送りを受け、教会へ戻るべく足を動かすローの後をイオリは雛のようについて歩く。と、ローが足を止めてイオリの前に手を出し掌を見せてきた。
「……?」
 ローの顔を見上げると、その目は鋭い視線を少し先の角に向けていた。イオリが首を傾げていると、今一番会いたくなかった白のスータンを着た人間が角から出てきた。
「あ……!」
「狼狽えるな」
 落ち着き払ったローの声に、イオリは自分の中に膨れ上がった焦りを鎮められたような気がして、小さく息を吐いて黙り込んだ。
「久しぶりだな、白猟屋」
 ニヤリと口の端だけを上げ皮肉めいて笑うローを視界に入れた相手は、不機嫌そうに顔を顰めた。
「ローか……。ここにいるって話は聞いてたが……」
 葉巻を二本銜えもくもくと紫煙を吐き出す男――"白猟"のスモーカー――は、ローの傍に控えるイオリに視線を向けその目をきつく眇めた。
「スモーカーさん、彼女は外見的特徴から鑑みるにヴァンパイアです」
 スモーカーと共に行動していた赤い縁の眼鏡が似合うたしぎが、外套を着ていないイオリの容姿を見てそう告げた。イオリは唇を引き結び、赤い舌と鋭い牙だけでも隠そうとする。
「あァ……。ロー、どういうことだ」
「どうもこうも、おれがコイツを扱き使ってんのを見りゃわかるだろ。飼ってる」
 面倒だと思っているのを隠そうともせず、ローは吐き捨てるように言った。
 スモーカーはその態度に苛立ちを露わにし、背負った武器に手をかける。
「ソイツはヴァンパイアだぞ……! 件の殺人鬼の可能性もある!」
 イオリはその怒声にびくりと震え、ローの背中に隠れた。
「安心しろ……。コイツを飼ってるのは監視のためだ。目も離してねェし、必要時はコウモリに化けさせて鳥籠に突っ込んでる。犯人の始末をしたのがコイツだってことも、確証は得られてる」
 ローはイオリの髪を撫で、背に庇いスモーカーの鋭い視線から隠した。
「殺すばかりじゃ、何も得られねェよ……。おれはコイツから有用な情報を引き出せた」
「何……?」
「お前らの中での"常識"とやらも、当人たちからすれば"迷信"なんだとよ」
 試すように笑むローの顔を見、スモーカーはやはり気に入らないと言わんばかりに顔を歪めた。
「……そのヴァンパイアが嘘をついている可能性は」
「ねェ。この街で事件が起きる度に実践しながら教えられてる」
「その情報とやらは」
「タダで教えるとでも思ってんのか?」
 スモーカーは溜め息と共に紫煙を大きく吐き出すと、ヴァンパイアを家に置いて来い、と言った。それは"捕まえない"という意思表示。イオリはほっと息を吐いた。
「遅くなりますか?」
「おそらくな」
「……今宵は満月ですから、お気をつけて」
 イオリの言葉を聞き、ローはくつくつと喉の奥で笑い、"誰に言ってやがる"と言いながらイオリの額を小突いた。
 ローに命じられ、イオリは荷物を地面に置いてコウモリに化ける。ぽふん、と力のない音を立てて変化したイオリは、差し出されたローの手に落ちた。
「おやおや、政府の役人さんかい?」
 買い物に出ていたらしい近所に住む老婆が通りがかり、穏やかに笑みを浮かべながらスモーカーたちに向けて小さく会釈をした。
「ばあさん。ちょうどいい、コイツが入るような入れ物はねェか」
 ローが手の上のイオリを指差しながら言うと、老婆はゆっくりと自分の手荷物を探り、クッキーの缶を取り出した。
「どうせすぐに客に出すものだからね、缶はもういらないよ」
「助かった」
 中身を抜いた空の缶をローに渡した老婆が自宅に戻ると、ローはイオリをその缶の中に入れた。イオリは缶の中に身を落ち着けると、縁に手をかけてローの顔を見上げる。
「狭苦しいだろうが、我慢しろ。家にはネリアがいるはずだ、一緒に家のことをしてろ」
 キー、と甲高い声でイオリが小さく鳴き缶の中で体を丸めると、ローは小さな額を撫で缶の蓋を閉じた。そしてスモーカーの傍に立つたしぎの手に押しつける。
「ヴァンパイアが怖ェなら、そうしておけば絶対に出られねェ。教会に行けばこの街の地主の娘がいるはずだ、この荷物もついでに持って行って、ソイツに預けて戻ってこい」
 イオリが今しがた持っていた荷物を指差し言い放つローに、スモーカーは"気に食わない"という感情を隠すこともせず舌打ちをした。
「チッ……、たしぎ、数人連れてコイツの言うとおりにして来い」
「わかりました」
 ローが長話になることを覚悟してうんざりしながらスモーカーと共に場所を移すのを背に、たしぎはイオリの収まった缶を持ち、カトライヤの住民たちの厚意による荷物を部下に持たせ、教会へ向かった。
 イオリは缶が潰されやしないかとびくびくと中で怯えていたが、無事に教会に着きネリアが政府の人間を上手く言いくるめて帰らせ、缶を開けたことでようやく安心することができた。
「おつかれさま、イオリさん。大変だったわね」
 ネリアは手に乗せたイオリの頭を指先で撫でると、静かにその体を床に落とした。しかし床に激突することはなく、やはり力のない音を立てて人型をとったイオリはしっかりと床に足をついて立った。
「怖かった……」
 はぁ、と大きく溜め息を吐くイオリの手を握り、ネリアは慰めるように優しく言う。
「政府の人たちには帰ってもらったし、もう大丈夫よ。一緒に家のことをしましょうか」
「はい」
 日が暮れる頃になってもローは帰って来ず、名目上だけでも監視を外すわけにはいかない、とアベルだけを帰し、ネリアはイオリと共に夕食の準備をしていた。
 イオリは家事をきちんとこなしながらも、怪しまれない程度に頻繁に水を飲み喉の渇きを誤魔化そうとしていた。
「――つっ」
「ネリアさん?」
 キッチンで食材を切っていたネリアが声を上げたことにより、イオリは欲求のせいで少しだけぼんやりしていた思考を引き戻す。
「あぁ、大丈夫よ。指を切ってしまって……」
 大したことはない、と指先を見せるネリア。その傷に滲んだ赤に、イオリは視線が釘づけになった。
(欲し、い……)
 血の匂いも誘うような甘いものでしかなく、今まで散々誤魔化してきた喉の渇きがひりつきに変わる。
「救急箱を出して欲しいんだけど……、……イオリさん?」
 ただネリアの指先を見つめているイオリに、さすがにネリアも様子がおかしいと感じとったらしく、問いかけるように名前を呼んだ。
 その声にはっとしたイオリは、自分が今何を考えていたのかを自覚し、慌ててネリアから距離を置いた。
「イオリさん……?」
「あ、ちが……、私……、そんな」
 ――血が欲しいだなんて、思ってない。
 必死に自分の中で言い訳をしてきたことが突き崩されたような気がして、どうしていいかわからなくなっていた。
 けれどネリアの指先から漂う血の匂いはイオリのヴァンパイアとしての本能を触発する。
「棚の、三段目の引き出しにあります……っ」
 イオリは後ずさりながらそれだけを言うと、ネリアが呼び止める声も無視して家を出、隣の教会に駆け込み扉の鍵を閉めた。
 後からネリアが追ってきて、鍵のかかった扉を叩く。
「イオリさん、どうしたの? わたしが何かしちゃったの……!?」
「ちがうんです……! 危ないから、近寄らないで……っ」
「!!」
 扉を挟んだところでイオリの言葉を聞いたネリアは、その言葉の意味を悟り、ごくりと唾を飲んだ。
「血が……欲しいのね?」
 肯いたら、本当に血を欲してしまう。小さなネリアの身体から我慢できずに血を飲んでしまえば、いくらイオリが普段少食で飲む血の量も少ないと言っても、失血死させてしまうかもしれない。少なからずネリアのことを信頼し好いていたイオリはそんな不安から、何の反応もせずただ鍵をかけた扉を開かれないように背を預けて座り込んでいた。
 反応を得られなさそうだと踏んだネリアは、小さく息を吐きひとまずはイオリを政府の人間から守らなければ、と怪しまれないように家に戻った。イオリに教えられた通りの場所にあった救急箱から絆創膏を拝借し、小さな切り傷を覆うように巻きつける。
 中途半端に投げ出されていた夕食の準備を整え、ローの帰りを待った。
 日が完全に暮れ、夜の帳が下りきった頃、ローが心底疲れた様子で帰ってきた。ネリアはほっと一息ついたが、その後ろに白のスータンを着た人間がいたことに気づき一気に警戒心を持つ。
「ローさん、お帰りなさい。ちょっといい?」
 硬い声で言ったネリアにローも違和感を覚え、スモーカーを玄関に待たせ家の中に入った。ローはすぐにイオリがいないことに気がつき、どうした、と尋ねる。
「それがね、イオリさん……、教会に閉じこもってしまって。わたしが指を切ってしまって、それで血の匂いを嗅いでしまったみたい。危ないから、近寄らないでって……。イオリさんは本当にわたしを傷つけたくないみたいだから、ひとまずあなたの帰りを待つことにしたの。でも、政府の人がついてくるなんて……」
 イオリが血を欲しがっていることを知られたら、先程見逃させた意味がない。本能のままに人を襲いだすのではないかという危惧が、政府の人間にイオリを狩らせるはずだ。
「ネリア、今のところ送迎してくれるヤツはいねェんだな?」
「えぇ、ローさんを頼るかお屋敷に電話をして呼ぼうかと思っていたから……」
「なら、ちょうどいいな」
 ローはにやりと笑い、片膝をついてネリアと視線を合わせた。
「お前は白猟屋に屋敷まで送ってもらえ。それで、遠路遥々吸血鬼の殺人事件の捜査に来てくれた政府の人間を丁重にもてなして労ってやれ」
 ネリアはローの言葉の意味が分かり、にんまりと笑み返した。
「わかったわ。電伝虫、借りるわね。わたしが帰ったらここは封鎖した方がいい。政府の人間はともかく、カトライヤの住民はあなたが捕まえた怪物を使って変な研究でもしてるのだとしか思わないから、混乱も招かないし。政府の人もわたしとお父さまでうまくごまかしておくわ」
「悪ィな」
「いいえ。わたし、イオリさんのこと好きだもの。ローさんも同じでしょう? だからこうやって助けようとしている」
 ローはネリアの言葉を素直に肯定するのはどことなく腹立たしかったが、しかしきっぱりと否定することも嫌だった。
「……さァな」
 結局、便利な一言を使い誤魔化した。
「あいつもおれが怪しいってついてきただけなんで、自治する側のネリアがここでいろいろ手伝ってるとなりゃァお前を護る方を優先するだろ」
「うふふ、わたしにいろいろ手伝わせて正解だったじゃない。日頃の行いの成果ね」
「まったくだ」
 一度愉しげに笑んだ二人は、ネリアの父親に電話をして事情の説明をし、承諾を得るとすぐに表情を切り替えて玄関で待つスモーカーの元へ行った。
「白猟屋、これでおれの疑いも晴れただろ。どうせ帰るなら、コイツを屋敷まで連れてけ。地主の家の賢い娘だ、何かあれば街中から責められるからな」
「政府の人に送ってもらえるなら安心だわ! よろしくね、スモーカーさん」
 愛想よく笑ったネリアに、スモーカーは訝しむ視線を向けつつも紫煙を吐き出しながら仕方ねェな、と呟いた。ネリアはどうせだからお屋敷に泊まっていってください、とローに対するものとはまったく異なる態度でスモーカーを誘う。元々カトライヤを見回った後すぐに北の街へ戻るつもりだったため、急な宿の手配も忙しい。スモーカーはその言葉に甘えようと思い、小電伝虫を使いたしぎを筆頭に部下を屋敷へと向かわせた。
 ネリアはひらりとローへ向けて手を振り、あとはよろしくね、と口の動きだけで伝えスモーカーと共に教会の敷地を出て行った。
 二人が完全に角を曲がりきると、ローは教会の門扉を閉め厳重に鎖を巻き南京錠をかけた。ネリアが言っていた通り、ローは興味から怪物や悪魔の研究を行っていたため、住民が近づくと危険だと判断したときにはこうして教会を封鎖している。このタイミングでそれをすればスモーカーから怪しまれることは間違いないが、ネリアが上手いこと教会の近くを通さずに北の街へとやんわり追い返してくれることを期待した。
 ネリアからイオリが教会の扉の鍵を閉めてしまったことは聞いていたため、一度家に戻り合い鍵を持って教会へ行った。
「イオリ、開けるぞ」
「……!!」
 イオリは人が入ってきてもすぐに襲うことがないようにと壇上に居たため、ローは鍵を開けて中に入ってきてしまった。
「ネリアから話は聞いた」
 ローは後ろ手に鍵をかけ、イオリにゆっくりと近づく。座り込み、自身の肩を抱き喉の渇きを我慢していたイオリは、怯えたようにローを見た。
「……ごめん、なさい。ずっと、黙っていて……」
「殺されると思って言えなかったんだろ」
 イオリはふるふると首を振り、ローの言葉を遮った。
「居心地が、良かったから……。ここを、離れたくなかったから……!」
 ローはイオリの言葉に思わず瞠目した。ずっと、イオリは居たくもないのにここにいるのだと思っていたからだ。慣れてきて、窮屈な生活の中に少しだけ楽しみを見出してはいるがずっと帰りたがっているのだと、そう思っていた。
「……そうか」
 ローはイオリの前に片膝をつき、俯く顔にそっと触れて上げさせた。不思議そうに見上げてくるイオリの口の中に人差し指を無理矢理押し込むと、指の腹をイオリのヴァンパイア特有の鋭い犬歯に押しつけ、切り傷をつけた。血の滲む指をイオリの舌に押しつけ、その血を舐めさせる。
「ん……っ」
 突然舌に触れた甘美な味のする液体に、イオリは目を細め思わずローの指に舌を絡めた。しかし指先の小さな切り傷からの血などすぐ止まるもので、ローはイオリの口内から取り上げるようにして指を引き抜いてしまう。
「欲しかったんだろ……?」
 ローの言葉に、物足りないという思いを隠すこともしなかったイオリははっとして首を横に振る。しかし、その仕草に説得力など皆無だった。
 頑なに血を飲むことを拒もうとするイオリの体をローは抱き寄せ、後頭部を押さえつけて首筋へと顔を近づけさせる。噎せ返りそうなほどに甘い、しかしいつまででも嗅いでいたいと思ってしまう匂いが、ふわりとローの鼻腔を通った。
「ローさん……っ、だめ、です……!」
 もっと、と本能が血を欲しがり、薄い皮の下で脈打つ血の流れを感じ取り喉の渇きがひどくなる。イオリは揺らぐ自制心を叱咤しながら、ローから体を離そうと弱弱しくその胸板を押した。
 しかしローはそれを気にすることもなく、イオリの耳元で誘うように囁く。
「今夜は満月だが……、今の姿で飲む分には問題ねェだろう」
「でも……」
 イオリのヴァンパイアとしての育ての親であるヒソカに、口を酸っぱくして言われていた。人間から血をもらってはいけない、と。その言いつけを破ってしまってはだめだと、イオリに残った理性が本能を押し留める。しかし先程少しだけ舐めたローの血の甘さが、渇きが満たされる感覚が、イオリの我慢を振り切ろうとしていた。
 ローはスータンの袷を解くと、中に着ているワイシャツの襟も緩め首筋を露わにする。
「お前には十分働いてもらったし、情報も得た……。ここ何日も我慢してたんだろ、そろそろ"ご褒美"が欲しいとは思わねェのか?」
「ぁ……」
「おれは死にさえしなきゃ構わねェ……。――飲め、イオリ」
 その言葉が、イオリの箍を外した。
 イオリはおずおずとローの肩に触れ、首筋に舌を這わせた。脈打つ血管の近い場所を探すかのようにしばらく這い回ったかと思うと、かぷりと噛みつく。ローは覚悟していた痛みがないことを不思議に思いつつも、噛まれた首筋に意識を向けた。イオリは食い込ませた牙で少しだけその噛み傷を抉ると、溢れた血に吸いついた。
「ん、ふ……っ」
 ヒソカの言いつけを破ってしまった後ろめたさ、今までしていた我慢の辛さ、大好きなローに傷をつけてしまったことへの自責の念。色々な感情が綯い交ぜになり、イオリの目からはぽろぽろと涙が落ちる。ローはそんなイオリの嗚咽を耳に入れながら、後頭部を優しく撫でた。
 ローは、ちりちりと痛みとも取れない熱が傷口に走るのを感じ取る。しかしそれは苦痛ではなく、ある種快楽のようなものだった。体の中心へと流れるその甘い痺れをイオリの髪を撫でることで誤魔化しながら、イオリが満足するまで何でもない振りをした。
 こくりこくりと喉を鳴らしながら血を飲んでいたイオリは、やはり普段の食事の量からもわかる通り少しの量で満足したらしく、ゆっくりと口を離した。血を飲んで辛さは抜けたらしく、平常時に戻っている。
「痕は、残らないと思いますが……」
「あァ……」
「ローさん?」
 どことなく鈍い彼の反応に、イオリはまさか吸い過ぎてしまったのかと慌ててその顔を覗き込む。しかしローの顔は蒼白になるどころかステンドグラス越しの月明かりの下でもわかってしまうぐらいには火照っていて、イオリは驚きに目を見開いた。
「どうなさいましたか? 熱……? 唾液が毒だった……!?」
「違ェ……」
 おずおずと、イオリはローに触れようと手を伸ばす。しかしイオリが少し動く度に、イオリの誘うような甘い匂いがローの鼻腔をくすぐり、体内を暴れ回る熱を増幅させた。ヴァンパイアには何かしら人を惹きつけるものがあると聞いていたが、イオリの場合それはこの甘いというのに病みつきになってしまいそうな匂いなのだろう。ヴァンパイアの吸血時の唾液の効果で熱を持った体には、その匂いは劣情を膨れ上がらせるものでしかなかった。
「近づくな……何するかわからねェぞ……!」
 脅すように言ったローを見て、イオリはきゅ、と胸の前で小さく拳を握った。
「くそ、ただの麻酔みてェなもんだと思って油断した……」
 ローが悔しそうに吐き捨てた言葉で、ヒソカが"人間から血をもらってはいけないよ"と何度も何度も言っていた理由が、やっとわかった。きっと、吸血時の痛みを誤魔化すために分泌される唾液によって底から膨れ上がる情欲に理性を失った人間が、目の前の女性の姿をしたモノに何をするかわからないから。ヒソカは時折人里へ下りては女性から血をもらっていたようだけれど、やはり相手をすることで女性の欲を満たしてあげていたのだろう。
 どうしたらいいのかは、わかる。本当は街へ行ってローの相手をしてくれる女性を探してくればいいのだ。けれど、イオリはそれをしたくなかった。我慢の利かないローが乱暴になるなら弱い人間を使うわけにはいかないだとか、そんな建前は考えればいくらでも浮かびそうなものだけれど。一番の本音を言ってしまえば、自分のいる場所の近くでローが他の女性を抱くのが嫌だった。
「……いいですよ」
 呟くように、しかしはっきりとそう言ったイオリは、自らの顔を覆うローの片手にそっと触れ、握った。
「イオリ……?」
「私の、せいだから……。大丈夫です、頑丈なだけで人間と体のつくりに違いはありません」
 イオリは、ローになら乱暴に扱われようと何でも良いと思った。彼が、楽になるのなら。
 ローは熱っぽい息と共に、一度吸った空気を吐き出す。
「お前な……、自分の身体は大事にしろよ」
「してます……! いいんです、ローさんになら……。ローさんのことは、すきだから……」
 ローには、動物的なところも持ち合わせたイオリが言う"好き"の意味を測ることができなかった。他の人間との区別をする意味での"好き"なのか、今この場で本当に体を差し出してもいいと言える"好き"なのか。イオリの中で確かに後者であるならいいが、混同したままどこか幼さを抱えるイオリを抱いてしまうことが憚られた。
(何を、ヴァンパイアなんかに気を遣ってるんだか……)
 命を取らない代わりに、労働と情報を提供させた。それでひとつの取引は成立しているのだ、イオリに血を与えたことの対価に、それが原因となってもたらされた熱を解放するのを手伝わせてもいいはずだ。
 しかし熱に浮かされながらも頭の片隅に残る理性はイオリを気にして、言葉を紡ぐ。
「……後悔、しねェな?」
 確かめるように問いかけたローの瞳を見つめ返し、イオリはこくりと頷いた。
 イオリの同意を得て解放することを許された熱は、ローの理性をもってしても止めることはできなかった。
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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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