fear sublime

 操縦室で指針を確かめていると、ベポがぱたぱたとうちわで自らをあおぎながら慌てたようにやってきた。
「ペンギン! 上の嵐は治まったと思うから浮上するよ!」
 その言葉に、操縦室にいたクルーの顔も明るくなる。
 嵐のお陰で追手も来はしないだろうし、イオリが体調を崩したこともある。浮上できない唯一の理由がなくなったのなら、浮上するべきだろう。
「夜だからな、浮上すれば寒く感じる可能性もあるから気をつけるように言って回るか」
「アイアーイ! じゃあ、おれはここで指示出してるね」
「あァ、頼んだ」
 浮上できるとあって機嫌のいいベポに任せ、操縦室を出た。
 誰か起きていないかと食堂へ向かっていると、シャチと鉢合わせた。
「おー、ペンギン。遅くまでお疲れさん」
「シャチ、ちょうどよかった。これから浮上するから、汗掻いてるやつはきちんと体を拭いておくように伝えてくれ」
「そういや、上がっても夜か。気温低いよなァ……。わかった、伝えとく。ペンギンは船長のとこ行ってそれ伝えてくれ。またイオリが気温の変化で体調崩すかもしれないし。さっきベポにイオリの体拭かせたらしいから、とりあえずは大丈夫だろうけどな」
 日が変わったら浮上することは、イオリの体調もみて決めてあったことだ。行ってもわかっているとだけ言って追い返されそうだ。だからといってシャチと一緒にクルーを叩き起こして不満の目を向けられるのもごめんなので、素直に言葉に従うことにした。
 船長室へ行き、扉をノックする。
「船長、起きてますか? 浮上するんで伝えに来たんですが」
「あァ。入れ」
 すぐに声が返ってきて、扉を開けると船長は机の上に今しがた閉じたらしい本を置いたところだった。
 ベッドを見れば、イオリが丸くなり、氷枕を抱いてすやすやと眠っていた。頬を氷枕にぴっとりとつけ、寝顔は随分と幸せそうだ。
「イオリの体調はだいぶ良くなったみたいですね」
「水分補給を小まめにさせてたらすぐに回復した。どうやら体に必要なものを入れてやれば傷同様に回復が早いらしいな。浮上するならあれは取り上げねェとな……」
「はは……。――っと」
 船がゆっくりと傾き始めた。海面が近いのだろう。
 バランスを崩すこともなくベッドに近づいた船長は、イオリの腕の中にある氷枕を掴む。そして空いた手でイオリの手を解き、難なく取るとそれをおれに向けて投げて寄越した。他のやつが同じことをしていれば引っ掴んで遠慮容赦なく取り上げるのだろうに。むさくるしい野郎が氷枕を抱きしめ幸せそうに眠っているところなど想像したくもないが。
「……なんだ」
 口元が緩んだのがばれたのか、船長は鋭い視線を向けてきた。
「いえ、なんでもないです」
「……海上に出たら見張りを立てろよ」
「アイアイ、キャプテン」
 これ以上ここに居ても機嫌を損ねるだけだろう。とりあえずイオリも大丈夫そうだし、と氷枕を片づけてから騒がしくなり始めたクルーの居室のあるエリアに足を向けた。
「あー、眠ィ……」
「シャチのヤロウ、遠慮なしに叩き起こしやがって。……お、ペンギン。イオリはどうだ?」
「回復したらしい。さっきまで氷枕を抱いて幸せそうに寝てたぞ」
 イオリのそんな姿は容易に想像できるらしく、話を聞いていたクルーは声を立てて笑った。
「ははっ! そりゃ羨ましい! まァ、元気なら何よりだ」
「誰か見張りできるか? とりあえずは日が昇るまででいい」
「あァ、それならおれがやるよ」
「じゃあ、任せた」
 一際大きく船が揺れ、通路にある窓の外が海中とは違う暗さになった。海面に出たようだ。
「そんじゃ、見張り行くわ。ペンギンは少しは仮眠取れよー」
「……あァ、そうする」
 ひらひらと手を振り甲板へと歩いていったクルーの背を見送り、おれも自室に戻って朝まで眠ることにした。


********************


 ――部屋の外が、騒がしい。
「……なん、だ?」
 思っていたより深く眠ってしまったなと思いつつ、ベッドの上で身を起こす。
「ペンギン、起きてるか!」
「船長!?」
 腰に巻いていた袖を解き、つなぎをきっちりと着直しながら扉を開けた。
 扉の前には眠っているらしいイオリを抱えた船長が険しい表情で待っていた。
「海軍と鉢合わせた。コックが厨房で火の始末をしてるはずだ、食堂へ行ってイオリと一緒に守れ」
「イオリと……?」
 そんなことを言われても、当のイオリはまだ眠っているのだが。
「この時計の長針が12時を指すぐらいには起きるはずだ」
 そう言って船長が渡してきたのは、オープンフェイス型の懐中時計。明らかに二本の針が実際の時間を指してはいない文字盤を見てみると、船長が言う時間まで十分もなかった。
「そんなのがわかるんですか……」
「こいつの睡眠時間はまだ異常に長ェからな。データを取って規則性がわかった」
「なるほど……」
 船長はとにかく急げと言わんばかりに、抱えていたイオリの体をおれの腕に預けてきた。抱えた体はひどく軽く、支えている脚も細い。
 長い鎖が音を立て、床に落ちる。船長はその鎖を指で掬い上げると、おれが移動するのに邪魔にならないようにとイオリの手に握らせた。力が入っていなくとも鎖が落ちないようにする程度には十分で、それを確認すると既に戦闘が始まっているらしい甲板へと足早に向かっていった。
 潜水艦の中の熱を逃がすために扉も開けていたのだろうし、もしかしたら船内に海兵が入ってくるかもしれない。急いだ方がいいなと、食堂へと向かった。
「コック!」
「あァ、ペンギンか。まさか仕込みの時間に来てくれるとはな!」
 暢気に笑いながら火や油の始末をするコックに、毒気を抜かれる気分がした。
「しかし珍しいな、ペンギンがここに来るなんて」
「情けないことに、上から騒ぎの音が聴こえても寝ていたらしい。船長に起こされてやっと状況を理解した」
「お前は働き詰めだったからなァ! こっちに何もなきゃァいいが」
 食堂の扉を閉め、入ってきても見えにくいだろう机の陰になるカウンターの下に、冷たい床で悪いとは思いつつもイオリを寝かせた。
「コック、お前はキッチンに隠れててくれ。絶対にそっちには入れない」
「あァ、わかった。こっちも始末はしたよ」
 少しすると、バタバタと騒がしい足音が。一斉に動いているあたり、これは敵のものだろう。
「やっぱり入ってきたか……」
「頼むな、ペンギン」
「わかってるよ」
 イオリは未だにすやすやと眠っていて、いつかの買い出しの時のように、まったく緊張感のない二人と一緒にさせられてしまったなと苦笑が漏れた。おれにも、あまり緊張はないが。
 ひとつひとつドアを確かめる音。何か、探し物か……?
 疑問に思いながらいつでも立ち上がれるよう構えて待っていると、とうとう食堂のドアが開けられ、確認した海兵があっと声を上げると同時に他の者も食堂に入ってきた。数は7、か。
「いたぞ! 通報にあった少女だ!」
 "通報"……? それはともかくとして、海軍の"探し物"がイオリだとわかる。しかしいくらイオリの力が変わっているとはいえ、公に見せた覚えもない。何よりイオリは人前で能力を見せるのを嫌がるから、傷を治すことは船長の前と、屋敷の地下で緊急だったためにしただけのはずだ。とすれば、海軍がイオリを探しているのは変わった能力のためじゃない。
「海賊! その少女をこちらに寄越せ!」
「"死の外科医"トラファルガー・ローが少女を誘拐し趣味の悪い枷をつけていると通報が入っていた!」
 あの人にまた新たに変な噂が付き纏うのか……。通報をしたのはおそらくカトライヤの住民だろう。グラープ・マールは島内での抗争を鎮圧するために動くことはあるが、あくまで最低限の治安の維持のため。そもそも正義を振りかざして存在する組織でもない。しかも相手が海を渡る海賊なのであれば、海軍に通報するというのはごく自然なことだった。
 まぁ、船長がイオリを誘拐したわけではなく、船長がついてくるかと訊いてそれにイオリが応えたというのが正しいのだが。ついでに言えば、本人曰くイオリが少女というのも間違っている、らしい。
 事情の推察はさておき、海軍にイオリを寄越せと言われて"はいどうぞ"と渡すわけもなかった。
「それはできないな」
 言葉に背く意思表示をすると、銃口がこちらを向いた。
「命が惜しければ投降して言うことを聞け!」
「それもできない」
 伸ばされていた指が、引き金にかかる。さて痛みはどこに来るやら、と覚悟したところで、ぐい、と思い切りよく体を引かれた。
「!? イオリ……ッ」
 直後、食堂に銃声が響き渡った。
 おれのいたところを銃弾が通り、壁を穿つ。
「おい、バカッ!! 人質に弾が当たったらどうすんだよ!」
「おれは外さねェよ」
 そんな会話を聞き流しながら、慌てて両腕を床についてバランスを取る。
 おれの体を引いた張本人であるイオリは眠たそうに目を擦りながら、掴んでいたおれのつなぎを手放した。
「ペンギンさん……。これはどういう状況ですか……?」
 イオリが銃弾が当たらないように守ってくれたのだと一瞬遅れて理解して、問われたことに答えようと頭の中で言葉を端的にまとめる。
「さっき海軍が攻めてきてな。朝のまだほとんどが寝ている時間帯だったんで、この有様だ。厨房にコックが隠れていて、今この食堂にはおれとイオリしか味方がいない。そして見ての通り、入り口は海軍に塞がれてる。……あぁ、あとついでに言えば、向こうはイオリを誘拐された一般人だと勘違いしているぞ」
 言い聞かせるようにゆっくりと答えると、イオリは少しの間ぱちぱちと目を瞬かせ、すっと海軍へと視線を向けた。
「……状況は把握しました」
 眩暈がするのか米神を押さえながら身を起こしたイオリは、もぞもぞと四つん這いになったままのおれの下から這い出ると、ゆっくりと立ち上がった。
「君、大丈夫か!?」
「さぁ、こっちへ! その海賊は危険だ!」
 海軍は銃弾が当たっておれが倒れたのだと勘違いしたようで、イオリへの疑いは微塵もない。
 イオリは海軍から見えない位置で待つようにと手のひらを見せて伝えてきて、人質だと勘違いし"保護"しようとする海軍の元へ歩み寄る。おれは上半身を起こし、その成り行きを見守った。
 ゆっくりと海兵に近づいたイオリは、先程おれを撃とうとした、射撃の腕に自信があるらしい海兵の傍に近づくと、その手にある銃に手を伸ばし、銃身を握った。
「君、何を……!!」
「……私も海賊なので、"保護"であれ"逮捕"であれ捕まるわけにはいきません」
 イオリは普段通りのぼけっとした声色で淡々とそう言い放ち、銃身を握る手に力を込めてぐにゃりと捻じ曲げた。
 驚愕する海兵たちを余所に、銃の持ち主の顎を蹴り上げる。そして蹴り上げた脚を軸に体を捻ると、逆の足で米神を打つ。引かれた鎖が音を立てながら、イオリの足の軌道をなぞるように踊った。急所への攻撃を食らった海兵は気絶していた。
「なっ……、こいつも仲間か!」
 銃を向けられると、イオリは気絶した海兵と手近にいた海兵の襟を掴み引き寄せた。向けられた銃口を見て、盾にされたとまだ元気な方の当人だけが理解し、顔を青褪めさせる。
「や……やめろ、撃つなァァァあ゛あぁぁ!!」
 一瞬の出来事に止めることすらままならず、躊躇いなく引かれた引き金が、盾にされた海兵の体を抉る。
 咲いた赤い華を見下ろして、イオリは小さく溜め息をついた。
「……船を汚してしまいました」
 落ち着き払った態度に、海兵たちはイオリに勝てないと悟ったらしく、今度はおれへと銃口を向けてきた。
「イオリ、汚したなら後で掃除すればいい。おれも手伝ってやるから」
 立ち上がりながら言うおれの言葉をイオリはきょとんとした顔で聞き、ぽつりと呟いた。
「そうですね……」
 こくりと頷いたイオリは、海兵たちに撃鉄を起こす暇さえ与えずに、気を失った両手の海兵を突き飛ばし銃撃を防いだ。
 動揺が走った隙を逃すわけもなく、イオリに左から片付けろと手で指示を出して反対側から海兵を伸していく。イオリはカトライヤで見た時とは比べ物にならない手際の良さで海兵を蹴りで伸して、武器を取り上げた。
「イオリ、随分と戦えるようになったな!」
「これぐらいならっ」
 残った一人の腕を掴み捻って相手の体を舞わせ床に打ち付けながら、短く言葉を返してくる。どうやらまだお喋りをできるほどの余裕はないらしい。
 難なく数名の海兵を倒し終え、その懐に入っていた手錠で拘束して一息ついたところに、シャチとベポが慌てたように駆け込んできた。
「イオリ、コック、大丈夫!?」
「ペンギンも無事かー?」
 ベポの姿を確認したイオリはふわ、と顔を明るくする。表情の変化は大きくはないが、空気が変わるのでわかりやすい。
「おはようございます、ベポちゃん」
「めちゃくちゃ呑気だな!」
「アイアイ、おはよー! 皆無事なら良かったぁ!」
 コックも隠れていた厨房から出てきて無事だと知らせると、ベポはにこにこと笑いながらイオリを抱きしめた。
「こっちの声も聴こえてたよ! イオリすっごくかっこよかったぞ!」
 ベポの言葉に少しだけ頬を緩ませたイオリだが、海兵の血のついた入り口付近の床と壁に目をやると、へにゃりと眉を下げた。
「……船を汚してしまったことは、申し訳ないです……」
 シャチはからからと笑ってイオリの頭を撫で、伸びている海兵の襟首を両手に一人ずつ掴んだ。
「あー、そんなん気にすんなって。とりあえずこいつら軍艦に放ってくるか。コック、美味い朝飯用意しとけよー!」
「期待して待ってろ! そこの掃除が終わるまでには仕上がるからな」
 イオリは弾丸を受けて気を失っている二人を器用に肩に担ぐ。引き摺って血をつけないようにという配慮からだろう。
「ペンギン、おれ残りの三人連れてくから、先に掃除してて」
「あァ、悪いな」
「ここ三日ほとんど休んでなかったのに大変だったね! ご飯食べたらまた休んでていいよ。しばらくは海も穏やかだと思うから!」
「悪い……」
 確かに潜水中は上の嵐も気になりあまり眠っていなかった。
「ペンギンさん」
 シャチとベポが食堂を出ていく中、一人足を止めてイオリが振り返る。
「どうした?」
「……やっぱり、私が怖いですか?」
「!」
 イオリからは帽子の鍔の陰になって見えないだろうが、自分で瞠目したのがわかった。
 訊いた本人は至って普段通りの表情で、単に問いかけてみただけなのだとわかる。
「……いや、まったく。そんなことを考えもしなかった。頼りにしてるよ、イオリ」
 イオリはぱちぱちと目を瞬かせ、言葉を理解するとぱっと前を向いてしまった。
「良かったです」
 それだけ言うと、足早に食堂を出て一人と一匹の後を追って行ってしまった。あれはひょっとして、照れているのだろうか。
 部屋の外からは、ベポの呑気な声が聴こえてくる。
『あれ、イオリ顔赤いぞ? 具合悪いの?』
『ち、違いますっ』
『? 嘘じゃないならいいけど……』
 あぁ、やっぱり照れているのか。ぼんやりとそんなことを思っていると背にした厨房からコックの朗らかな笑い声がした。
「良かったなァ、ペンギン。仲直り……ってワケじゃねェか、仲良くなれたんだろ?」
「……まァな」
「いつまでも呆けてないで、掃除してくれよ」
「わかってるよ」
 コックの言うとおり、ひとまず掃除をしなければ、と掃除用具のある物置へと向かった。
 イオリは、殺すことより殺さないで伸すことの方が難しいと知っている。島ではそんな余裕もなくあんな戦い方をしたのだろうが、今日は急所を狙い気絶させる程度に留めていた。敵を盾にしたことだって、別に悪いとも思わない。おそらくイオリや船長ならあの海兵たちの立場でも寸前で攻撃を止めることができる。ただ、海兵たちにそれができなかっただけのこと。戦闘中の身のこなし、判断力。きっと体調不良で眠っている間にも記憶を取り戻していたのだろう。それでもイオリのおれたちを護ろうとする意思は揺るがない。……どこに、怖いと思う要素があるというのか。
 やはり自分は臆病だった。それでもそれを"警戒心が強い"のだと長所に言い換えてくれる船長にも、そんなおれごと受け入れて守ろうとしてくれるイオリにも、いつまで経っても頭は上がらなそうだと思った。元より船長にはすべて預けている身だが、イオリにまでそう思うことになろうとは思いもしなかった。しかし、それに対して悔しさは感じない。イオリの記憶がすべて戻るのが楽しみだと、そう思い始めた自分に呆れてつい笑った。
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