cold to each other

「あっちィ……」
 ゴゥン、ゴゥン、と機関室から響く音を聞きながら薄暗い通路を歩く。潜水中は暑くなる上に、この暗さで気分も少し沈むのであまり好きじゃない。この小さな潜水艦のどこかでは、シロクマが茹だるような暑さにもう根を上げているのだろうなと、ぼんやりと思った。
 いつもならベポが嫌がり緊急時でもない限り長く潜ることはしない。しかしどうにも嫌な予感というものがするようで、ベポは暑がりながらも潜水しているようにと言ってきた。海面では何やら嵐でも起こっているらしく、ガレオン船の破片が窓の外で沈んでいったのを見たのが昨日の話。ベポはまだ浮上していいとは言わない。
 そうして暑い中、時計を頼りに日付を知りつつ進んでいた三日目。当番だった掃除を終え、部屋に戻る途中だった。
 通路の隅で鎖を床に広げ蹲る小さな背中を見つけ、慌てて駆け寄った。
「イオリ! どうした? 具合悪いのか?」
 片膝をつき、俯く顔を覗き込む。肩に触れるとイオリはびくりと震え、恐る恐るといった様子で顔を上げた。
「シャチ、さん……?」
 やっと見えたイオリの顔は、熱があるのか赤く、目がぼんやりしていた。
 触れた肌も乾燥していて、すぐにイオリが今こうなっている原因に思い当たった。
「ちょ……っ、イオリ! お前めちゃくちゃ体調悪いだろ!!」
「大丈夫です……、少し、いつもの眩暈がしただけですから……」
「熱出してんのに汗かけねェのは大丈夫とは言わねェよ! とにかく船長のとこ行くぞ」
 吐き気もあるのか、立ち上がらせるとイオリは口元に手をやる。
「あ、の……本当に、大丈夫なので……、少ししたら、戻れます、ので……」
「イオリ、お前……」
 どうやら意識もやられているらしい。とにかくまずは船長に診せなければならない。
 手を引いてゆっくり歩かせ、船長室の隣にある医務室へと向かった。
 入り口から一番近いベッドに座らせ、船長室に通じる扉へ行きノックをする。船長は医務室からノックをされたことで何かあったとすぐに考えついてくれたらしく、すぐに医務室にやってきた。
 潜水中の暑さに耐えかねたのか、さすがの船長も帽子を被っておらず、袖も肘の上まで捲っている。熱を溜め込まないようにしないと今のイオリのような状態になることは明白だ。
「どうした?」
「イオリが廊下で蹲ってたんで、声かけたらあの有り様で……」
 船長はおれが指差した先にいるイオリを目に入れ、足早にベッドへと近づいた。手近にあった椅子を持っていくと、それを引き寄せて腰を下ろし、イオリの診察を始める。
「吐き気と、少し意識障害があるみたいですよ」
 細い腕を取り脈を計る船長に、静かに告げる。
「頻脈、発熱、皮膚の乾燥。意識に影響があるとなりゃ……、熱射病だな。イオリ、寝ろ」
 起きているのもつらかったのか、素直に横になるイオリ。持ち上げられた足に引っ張られた鎖が、カシャン、と音を立てた。
 船長はぼんやりと宙を見つめるイオリの頬を撫で、顔だけおれに向けた。
「コックから氷をもらってきて、氷嚢をつくれ。あとは何かあおぐ物がいるな……」
「わかりました。水分補給はどうしますか?」
「この様子じゃ経口摂取は無理だ、ひとまず点滴で済ませる。――ベポ! 今すぐ医務室に来い」
 耳の良いベポを呼ぶ声を背に、医務室を出た。
 急ぎ足で食堂に向かっていると、バンダナとすれ違う。やはりバンダナにも潜水中の暑さの中つなぎをきっちり着込んでいるというのは拷問に近いらしく、おれと同様につなぎの袖を腰に巻いて結んでいた。
「シャチ、そんな慌てて何かあったのか?」
「イオリが熱射病。体冷やさなきゃならないから氷もらいに行くんだよ」
「あー、やっぱりか。慣れねェと辛いからなァ……。うちわ探しといてやるよ」
 バンダナは苦笑して、クルーの部屋のあるエリアへ足を向けた。
「頼む!」
 食堂に行きコックに事情を話すと、すぐに氷を用意してくれた。融ける前にと急ぎ足で医務室に戻り、船長が点滴をする横で氷嚢袋に氷を詰め込む。
 部屋でうちわを見つけてきたらしいバンダナが医務室に来て、静かに扉を開けた。
「船長、うちわ持ってきましたよ」
「バンダナか。悪ィな」
 自らをあおぎながらやってきたバンダナは、ベッドに近づくとその風をイオリへと送る。
「いえ! ……おー、結構重症か?」
「熱中症の中では一番やべェな」
「あとなんかできることってあります?」
「ベポが来ねェ。どこかでだらけてるだろうから探して医務室に来るよう伝えろ」
「アイアイ!」
 バンダナはおれに向けてうちわを投げてよこすと、ベポを探しに医務室を出ていった。
 できあがった氷嚢を渡すと、それを受け取った船長は首、脇、内股と動脈の集中する箇所に当てていく。船長は体温を下げるのに効果的な場所に一通り氷嚢を当てると、残った物を手に取りイオリの頬に当てた。
 だるいのかぼんやりとしていたイオリは氷の冷たさに目を細める。
 うちわで風を送ってやりながら様子を見ていると、ベポが慌てた様子で医務室に入ってきた。
「キャプテン、ごめん! おれ寝てた……」
「いや、大丈夫だ。まだ浮上はできねェのか?」
 ベポは船長に投げて寄越された氷嚢を受け取り額に押しつけながら、首を横に振る。
「まだイヤな感じがするから、絶対だめ。ペンギンに聞いたら、このあたりは広い範囲で嵐が三日ぐらい続くんだって。だから、日が変わるまで上がっちゃだめだよ!」
「そうか……」
「イオリはどう?」
「今、体を冷やしてる。えらく長い間放置したもんだな……」
 船長は不機嫌そうに眉を顰め、ボウルに残っていた氷の欠片を手に取ると薄く開いたイオリの唇に押しつけた。イオリは素直にそれを口に入れたので、あとで何か塩気のあるものを飲ませてやらなきゃな、と内心で呟く。
「でも、船長が気づかないなんて珍しいですね」
「気をつけてはいたんだがな……。後で問い詰める」
 イオリのことだから、まだ軽い、まだ大丈夫とでも思って隠していたのだろう。船長に問い詰められて泣きそうな顔になるイオリが容易に想像できて、慣れているおれですらこの人に問い詰められるのは苦手だから、少しだけ同情する。
「ほどほどにしてやってくださいよ……」
「こいつがしっかり反省すればな。ベポ、お前はその嫌な予感ってものがしなくなったらすぐに浮上するように指示しろ」
「わかった。これもらってっていい?」
 氷嚢が気持ちいいのか頭に載せたまま尋ねるベポに、キャプテンは苦笑して頷いた。
「あァ、袋はあとで消毒して戻しとけよ」
「アイアーイ」
 いつもならイオリの看病をしたがるのだろうが、ベポもまた熱中症予備軍だ。暑さによる気怠さはあるらしく、氷嚢を気持ちよさそうに額につけたまま医務室を出ていった。
「シャチ、お前はイオリの看病を手伝え」
「わかりました。あ、なんかあったら呼ぶんで部屋にいてもいいですよ」
「……そうするか。飯食ったら交代してやる」
「アイアイ」
 おれは先程掃除で水を使ったのでいくらかましだ。船長は部屋で本でも読むのだろう、多少気怠そうにして船長室へ戻っていった。
 話し相手もおらず、本を読むなどほとんどしないおれにとっては暇になり。ぱたぱたとうちわを動かしながら、なんとなくイオリの顔を眺めていた。
「シャチさん……」
「ん、どうした? 何か飲むか?」
 しばらくして、イオリが小さな声で呼んできたため、あおぐのを止めて顔を覗きこむ。イオリはおれの問いかけに首を横に振り、へにゃりと眉を下げた。
「……すみません、私……。迷惑をかけて」
 困ったな、おれは船長やベポみたいに正しい説教もしてやれないしイオリの欲しい言葉もかけてやれない。
 まぁ、思うことがあるのは本当なんだけど。
「おれは別にイオリに迷惑かけられるぐらい何てことねェんだけどさ。心配はかけないでくれよ」
 イオリはきょとんとして首を傾げる。
「……? それは、同じでは?」
「迷惑と心配は別物だろ。何かあったらいくらでも助けてやるし、それは嫌だとは思わねェけど。今みたいに、体調悪いの隠していきなり重症なの見せられる方がきつい。お前は丈夫だから平気だと思うのかもしんねェけど、こっちからしたら危ない状態だからすっげェ心配する。お前だってさ、クルーに頼まれた力仕事ならいくらでも請け負うけど、無理して重い物持って腰痛められたりしたら嫌だろ」
 我ながら何てひどい喩えだと思う。ウチの船にそんなことで腰を痛めるような柔なヤツはいない。
「……確かに」
「納得できたのかよ……」
 ここに船長やペンギンが居たら、お粗末な表現力だと鼻で笑われただろう。
 イオリは幾分か体調もましになったらしく、先程よりはっきりした目で天井を見上げた。
「本当に……いつもの眩暈だと、そう思ってたんですよ。だから、急に吐き気がして驚いて」
「そこにおれが通りがかったのか……。って、待て待て待て。吐き気以外にも判断材料はあっただろ。頭痛……はともかくとして、熱あったじゃんお前」
「暑いせいだとばかり……」
「船長には少しでも具合悪くなったら言えとか言われてなかったのか?」
「言われていました……ので、吐き気を感じて戻ろうと思って」
「その時既に重症だったんだよ……」
 だめだこれは。イオリはまず"少しでも"の程度という根本的なところから理解していない。
 おれが声をかけた時も、誰かと勘違いするような意識への影響があったようだし。イオリが"少し"体調を崩したかな、と思った時には、もう限界が近づいていたのだ。
「もういつもの眩暈でも何でもいいから、変わったことがあったらすぐに船長に報告するようにした方がいいぞ、イオリは。お前の"少し"はおれらにとっての"ものすごく"だ」
「わかりました……」
 しゅん、と声のトーンを落とすイオリに、少し言い過ぎたかと後悔。
「あ……、ローさん」
 イオリがふとドアの方に視線を向け、そう言った。視線を向けているのは船長室と繋がるドアじゃなく、廊下と繋がる方だ。
「へっ、船長!?」
 振り返ると、右手にスプーンの入った器を持った船長が意地悪く口角を上げて立っていた。
「おれの代わりにきちんと説教してくれたみてェだな、シャチ」
「ええええ、いやあの、そんなつもりじゃ……!」
「じゃあどういうつもりだったんだ……。イオリ、塩気のあるモンを持ってきた。飲めそうなら飲め」
「はい、いただきます……」
 イオリは小さく笑いながら、ゆっくりと身を起こした。やはり動くと眩暈はするらしく、米神を押さえる。
 大丈夫か、と手を伸ばしかけたところで、船長に名前を呼ばれた。
「シャチ。おれはもう昼飯を食ってきた。お前も食いに行け」
 船長は親指で自分の後ろを示し、早く出て行けと言わんばかりにくい、と手を動かした。不機嫌そうだ。理由はなんとなくわかるけど。
「わかりました。そんじゃイオリ、お大事にな」
 ぽん、とそっと頭に手を置いて、椅子から腰を上げる。ちらりと見た船長の眉間には、思い通りにいかなかったと言いたげに皺が寄っていた。トランプをした時にも思ったことだが、この人はどうも目の前で自分以外がイオリの頭を撫でるのは気に食わないらしい。……自覚してるんだかしていないんだか。
 船長とすれ違う際に手元の器を見れば、中には具のないスープが入っていた。今のイオリにはこれを飲むのが限界だろう。
 医務室を出て扉を閉め、ガラス窓から中の様子を少しだけ窺う。船長は、他のクルーの面倒を見る時とは比べ物にならないぐらい甲斐甲斐しくイオリの世話をしていた。
 あれだけ甘やかしていれば、イオリが不安定だから甲斐甲斐しいだけだ、なんて言えないというのに。
 他のやつらにも聞いてみたが、やはり船長とイオリを微笑ましく思うと同時に、いつまでイオリに気づかれずにいるか、なんて面白がりもしているらしい。何にせよ、船長が甘やかすことでイオリがいることに不満を持たないでいてくれるのが幸いだ。おれ個人としては、船長とイオリがくっつくならそれはそれでいいと思っている。二人とも立場は弁える人だし、むやみやたらと人前でいちゃつくタイプにも見えない。
 船長は多分、立場を弁えて敢えてただ甘やかすだけに留めているのだろう。それだけおれたちのことも考えてくれていると思うと、嬉しくはある。けどイオリは少しぐらい人……というか女の子としての幸せってもんを得ても良いと思うし、船長だっていつも自由にやってるんだから、ことイオリに関してだけ頑なにならなくても、と思うのだ。
「おー、シャチ。イオリはどうだ?」
 食堂に行くと、バンダナが昼食をかき込んでいた。この暑い中食欲旺盛なのはいいことだ。
「大分良くなったみたいだぜ。今は船長が甲斐甲斐しく世話焼いてる」
「ははは! そりゃイオリもすぐ良くなるだろ!」
 近くにいるクルーも、口こそ挟まないものの微笑ましげに口角を上げながら昼食を食べ進めている。
「日を跨いだら浮上できるらしいから、これ以上熱中症患者出ねェように気をつけといてくれよー」
「わかってるよ! おれらも慣れたからな」
「初めて潜水したイオリといつまで経っても慣れねェベポが不憫だったなァ、今回は」
 食堂にいるクルーは、また船長とイオリのことを話し始めた。いくら船長が昼食を食べ終えているとはいえ、いつ器を戻しに来るかもわからないっていうのに。不思議とこんな話を聞かれたことはないのだが、それも今までなかったというだけでこれからもないとは限らない。知らねェぞ、と思いながら、コックからイオリに飲ませているスープがメニューに入った昼食を受け取った。こっちは具沢山だから、おそらく濾したのだろう。
 世界がどれだけ見下そうと、少なくともこの船にいる連中は、自分たちに優しいイオリに優しい。世界は誰にも優しくないし、ましてや海賊のおれたちは人にすら忌み嫌われる。だから、ほんの一握りの優しさに優しさを返そうとするのは、ある意味当然ともいえることだ。それはおれもここにいるやつらも、そしてイオリも同じ。カトライヤで聞いたペンギンの危惧は、ただの杞憂だと内心で笑った。
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