girl like lost child

 こつ、こつ、と上等な靴で甲板を歩く音が近づいてくる。耳につくその音に目が覚め、オレンジ色に染まる視界にもう夕方か、とぼんやり思った。しかし記録(ログ)を貯め始めたのはもう少し日が沈み、空が紫色になっていた頃だ。ペンギンが起こしにも来ない、まだ時間ではない。
「……どうした」
 陽の光を遮るためにずらしていた帽子を直し顔を上げると、正面には"ネリア"が立っていた。
「あなたに、お礼を言おうと思って」
「礼ならこいつに言え……」
 すぐに何に対しての礼なのかを悟り、おれの肩に頭を預けすやすやと眠るイオリを指差して言うと、ネリアはくすりと笑んだ。
「イオリさんにお礼を言ったら、同じことを言われたわ。"私は何もしていないから"って。イオリさんはきっかけになってくれて、その後いろいろと手を回してくれたのは船長さんよ。だから、あなたにもお礼を言いたかったの」
 ネリアは育ちを感じさせる綺麗な所作で、頭を下げた。
「何も得られない、子どもの幼稚な復讐に付き合ってくれてありがとう」
「ハッ……、海賊に礼なんか言うんじゃねェよ。おれは気まぐれでやりたいようにやっただけだ」
「あら、イオリさんのことを気遣ったことぐらいはわたしにだってわかるつもりだけど?」
 顔を上げたネリアは、いつも通りの生意気な笑みを浮かべていた。
「ふふ、オーラが揺れたわ……、図星ね」
「チッ、二人揃って厄介なモン持ちやがって……」
 隠しても無駄なのだと、溜め息を吐いた。
「こいつは元は少しばかり特殊な奴隷でな……。人以下の扱いを受けながら、金だけきっちり受け取って仕事をする傭兵だった。金持ちの理不尽なやり方に……何か思うところがあったんだろう」
「それで協力してくれたのね」
「まだ精神的にかなり不安定だからな。次はねェと、さっき忠告した」
 ネリアはきょとんとした表情を見せたが、すぐににんまりと笑った。
「あら、優しいのね」
「……お前もイオリと同じことを言うんだな」
「だって、期待させないようにしてあげているんでしょう? でも、イオリさんはきっとあなたに言われれば簡単に見捨てられるわ。忠告なんかなかったとしてもね」
 突然硬い声になり、真剣な表情を浮かべるネリア。その目は、おれに警告でもしているかのようだった。
「何故そう思う?」
「あなたがイオリさんの唯一の拠り所だから。あなたに捨てられないために、イオリさんはなんでもするわ。きっと、なんでも。……大切にしてあげてね」
 言われなくても、そのつもりだ。イオリがクルーを護る代わりに、おれはイオリに世界を見せてやると約束した。おれの中にはもうひとつの理由もある。
 何より、地主の家から戻ってきてから、においに泣いたあの朝を除いてイオリは常に誰かのそばにいようとしている。今も眠りながらおれのパーカーをしっかりと摘まんでいて、どこにも行かせまいとしているようだった。そんな健気なクルーを見てぞんざいに扱うことなど、できそうにない。
「……わかってる」
「そう、それならいいの。……ふふ、わたしと船長さんは似た者同士だし、船長さんとイオリさんも似た者同士ね」
 楽しそうに、憑依している体に相応しい幼い笑みを浮かべるネリア。不安を前にそうしていられるのは結構なことだが、しかしはいはいと聞き流せる内容でもなかった。
「似てねェよ、おれとお前も、おれとイオリもな。そう言うんなら、お前とイオリにだって共通点があるはずだろうが」
「そうね、きっと部分的にしか似ていないのね。ベポくんなら、わかるんじゃないかしら? じゃあわたし、人質のフリする準備があるから」
 ネリアはひらりと手を振ると、おれが口を開くのも待たずに踵を返して船室へと入っていった。
「んー……、きゃぷてん……?」
 耳に落ち着く低い声と共に、声の振動で背を当てた巨体が揺れた。
「ベポ、起きたのか? まだイオリが寝てる、体は起こすなよ」
「アイアーイ……。今、ネリアいた?」
「あァ。少し話をした」
「ふぅん」
 まだ眠いのか、おれとネリアがした話には興味がないのか、生返事だ。
 大きな欠伸をひとつ零せば頭にかかっていた靄はだいぶ掃けたようで、"まだ記録(ログ)の貯まる時間じゃないな"と航海士らしく呟いた。
「ベポ」
「なに? キャプテン」
「お前、三度目の買い出しの朝に話したことを覚えてるか?」
「えーっと……、あ、ネリアとキャプテンが仲良しって話だ!」
 少しばかり大きくなった声に、イオリが起きるのではないかとそっとその口を押さえた。ごめん、ともごもごと言われ、手を離す。
 そういえば気温が低くなってきたなと思い、目の合ったクルーに対してイオリを指差し、何かかける物を持ってこいと手振りで示した。
「それで、その話がどうかしたの?」
 ベポの声は、少し抑えられていた。
「……ネリアがな」
「んー、もしかして、ネリアとキャプテンが似てるし、キャプテンとイオリも似てるって話をしたの? おれ、その話ならネリアと一緒に宿でしたよ」
「正しくその話だ」
 一人と一匹がイオリを大層好いているのはおれを含めたクルー全員が知っていることではあるが、滞在中に何を話していたのかまでは知らない。同室だったペンギンも、早くに起き遅く寝ていたのだ、生活のリズムも違ったはずだ。それをいいことに一体何を話しているのかと頭の痛くなる思いがした。
「ネリアもキャプテンもイオリのことを大事に思ってるし、なんていうのかなぁ、頭のいいところが、すごく似てるんだ。もちろん、キャプテンの方が頭はいいんだけど」
 要は思考が同じだと、そう言いたいのだろう。
 確かに宿で何度も会話はしたが、突っかかられている時以外は疲れるものでもなかった。波長が合っていたとでも、言うべきなのか。
「それで、おれとイオリは?」
 ベポは少しの間沈黙し、タオルケットを持ってきたクルーがおれにそれを手渡して立ち去るのを横目で見送った後、言いにくそうに口を開いた。
「……キャプテンとイオリはね、冷たいところと、寂しいところが似てるなって」
 イオリにタオルケットをかける手が、中途半端に宙で止まった。
「イオリが冷てェ?」
 似てるかどうかはともかくとして、"寂しい"というのはまだ理解ができる。しかし、ベポの口から"イオリが冷たい"という言葉を聞くことになるとは露ほども思ってはいなかった。イオリはベポに対して気味悪く思うこともなく、いつだって素直に接していた。見ていた限りイオリ自身もベポによく懐いていたと思うし、仮に陰で何かしていたとしても、それならばベポがイオリに対して態度を変えていたはずだ。
 手を頭の後ろで組み直しながら、ベポの言葉に耳を傾ける。
「寂しいところは、それが同じってだけで、そっくりは似てないかも。イオリは迷子の子どもみたいな寂しさなんだけど……、キャプテンはちょっと違うから」
 迷子の子ども、的確な表現だ。"記憶"という自分が歩いてきた道がわからない、そして行き先の選び方もわからない。今イオリの中にある記憶は、本来残すべきだった四年分にも満たない。これほどまでにぴったりとイオリに当てはまり、かつありふれた表現もないだろう。
「……でもね、冷たいところは本当によく似てると思うんだ」
「何言ってんだ、イオリはお前に優しかっただろ?」
 奴隷だった時のイオリを、ベポは知らないのだ。だから人を殺めることに何の躊躇もないイオリのことも知らないはず。そしてイオリは船に乗った時からベポに優しくしていたし、ベポもそれを受けてイオリに懐いているはずだ。
「うん、おれには優しい。キャプテンにもシャチにもペンギンにも、多分クルーの皆には優しいよ。あと、ネリアみたいに仲良くなった人にも。でも……、イオリね、誘拐される前の、子どもが危ない目に遭ってる時、まずおれに"どうしたいのか"って訊いたんだ」
 あぁ、そういうことか。ベポの言いたいことはわかったが、そのまま喋らせることにした。
「多分イオリはおれが"放っておこう"って言えば、"わかりました"って頷いたと思うんだ。イオリはおれに優しいから子どもを助けるのに協力してくれただけで、子どもを助けたいとは思ってなかったと思う。キャプテンだって、ネリアを助けたのはイオリに優しいからだったでしょ? なんだかそこが似てるねって、ネリアと話したんだ。キャプテンもイオリも、身内には優しいけど、それ以外には気まぐれで関わる人だよ」
「……あァ、イオリには身内以外どうなろうと知ったことじゃねェだろうな。……嫌だったか? そんなイオリが」
 ベポは寝転がったまま、ゆっくりと首を横に振った。
「おれだって海賊だよ、困ってる人全員を助けていきたいなんて思ってないよ。それにおれ、そんなキャプテンが好きだから。見捨てろって言うのは困ってる人には冷たいかもしれないけど、でもそれはキャプテンとしては正しいと思う。だからイオリも、おんなじ。おれよりちゃんと割り切れる子なんだって、わかるよ」
「……そうか」
 ベポは照れ臭そうに笑い、言葉を続けた。
「キャプテンとイオリがクルーの皆に優しいなら、おれはそれで嬉しいから」
「そうですね、甘いところのあるおれたちを戒めながら進んでくれる船長は頼もしいですからね。そんなクルーが増えるなら、願ったり叶ったりだ」
 突然割り込んできた声に、ゆっくりと顔を上げる。記録指針(ログポース)を持ったペンギンが、こちらに歩いてきていた。
「そろそろ時間ですよ。イオリは起きそうですか?」
「あァ。……お前もどちらかといえばおれに近い方だろうが」
 イオリを揺り起こしながら返せば、ペンギンは帽子越しに頭の後ろを掻いた。
「はは、"臆病"をそう言えるのかはわかりませんが」
 その短所は長所に言い換えれば、"警戒心が強い"ということだ。裏切りも当たり前にある旅の中だ、あって困るものではない。
「んん……、おはようございます……」
 眠い目を擦りながら言うイオリを見て、ペンギンが話はやめだと首を振り、イオリの前にしゃがんだ。
「おはよう、イオリ。ネリアとお別れのあいさつだ」
「……、はい」
 イオリはやはり割り切ることのできる人間のようで、ペンギンの言葉を飲み込むと穏やかに笑みを浮かべ頷いた。
 かけられていたタオルケットをイオリが畳むと、ペンギンがそれを引き取る。甲板の少し離れた、海岸側ではネリアがシャチによって縄で縛られていて、賑やかに準備を進めていた。
 すっかり目の覚めたベポと、思考はできるがまだ眠いらしいイオリを連れ、その傍に行く。
「ネリアさん」
「あ、イオリさん、ベポくん。これでお別れね」
 ネリアは明るく笑い肩を竦めて見せたが、"縄がずれた"とシャチに文句を言われていた。
「はい。……大丈夫ですか?」
「もちろん! 言ったでしょ、わたしはもう満足だって。あとは、できることをやるだけ。あの人を更生させられたら、それが一番ね」
「ネリアは前向きだな! がんばって!」
 底抜けに明るい笑顔を見せるネリアだが、強がっているわけでもなさそうだった。イオリにもそれがわかったのか、ただ笑みを返すだけに留める。
「えぇ! 船長さんたちも、これからの航海が良いものになることを願うわ」
「海賊に言う言葉じゃねェな」
 喉の奥で笑いながら返せば、ネリアもにんまりと笑い返してくる。
「あなたたちには本当に感謝しているから。……そろそろ来るわね」
 ネリアはつ、と島の中央へと続く道に視線を向ける。おれやペンギンの肉眼でも見える距離まで地主が近づいてきていた。
「イオリ、地主ひとりか?」
「……はい。どこか、疲れているようですが……」
「手紙が原因だろ。――野郎共、出航するぞ! 各自持ち場につけ!」
「アイアイ、キャプテン!」
 甲板は綺麗に片づけられ、あとは碇を上げて離れるだけだ。海岸にも適当な樽が置かれ、入れ替える準備も万端。
「――"ROOM"」
 円(サークル)を展開し、海岸にある樽までを包み込んだ。
 "ネリア"はぺこりと頭を下げ、はきはきと言葉を発する。
「……本当に、ありがとう。さようなら、良い旅を!」
 クルーたちがそれぞれに言葉を返したのを見届け、シャンブルズで海岸の樽と"ネリア"の位置を入れ替えた。アベルに駆け寄りその小さな体を抱きしめた地主が、顔を上げてこちらを見たようだった。その視線とぶつかったらしく、イオリがそっとおれに寄り添いパーカーの袖を摘まんできた。
「どうした?」
「……多分、あの人は大丈夫だと思います。こちらに向ける視線に、恨みの類のものがないので」
「そうか……。柄にもなく"イイコト"をしちまったな」
 イオリはどこか困ったような、しかし嬉しそうな笑みを浮かべ、こくりと頷いた。
「ほらほらキャプテン、イオリ! 万が一のことも考えて、早く潜水!」
 ベポに背を押され、碇を上げるために甲板に残っていたクルーや、ペンギンが待ち構える船室へと向かう。
 扉を閉めたことをペンギンが小電伝虫で操縦室に伝えると、潜水可能なところまできてゆっくりと潜水艦が海中へと進み始めた。
 暗くなり始める艦内に、クルーが明かりをつけて回っている。まだ暗い船長室への道をイオリと歩きながら、何とはなしに口を開いた。
「初めての島はどうだった? イオリ」
「色々ありましたが……、楽しかったですよ」
「フフ、二度と島には上陸したくねェとでも言うかと思ったが」
「何かあっても、絶対にローさんが助けてくれますから」
 イオリが動かす足に呼応するように、カシャン、カシャン、と鎖が音を立てる。機関室からの音も重たく響き、通路は静かだというのにひどく音に溢れていた。
「助けには行ってやる。……が、自分から喜んでとっ捕まるような真似はするなよ」
「当然です。今回だって、本当に勝手なことをしたと反省していますから……」
「今回は別にいい。……次はねェがな」
 隣を歩きながら、しょんぼりと落ち込んだ表情を見せるイオリの頭をくしゃりと撫でると、厳しいとも取れる言葉の何が嬉しいのか穏やかに笑い返された。
「……はいっ」
 すっかり陽も沈み暗くなった海面には、どうせいらないからと甲板に放置した樽がひとつ寂しく浮いていることだろう。あるべきだった場所にいることもできず、乗っていたはずの船には置き去りにされ。まるで消されたイオリの記憶のようだと、暗くなった船の外の海に目を遣りながら、そう考えた。ひとつ決定的に違うのは、樽には漂着できるかもしれない行き場があり、イオリの記憶にはそれがないということだった。
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