recollection

 ――きっと死んでしまえば楽になれる。死ぬ瞬間が怖いから生きたいだけ。痛みを感じない私の体なら、苦痛への恐怖はないも同然。死ぬ時に苦しくない方法を選ぶことはできる、それでも死ぬ瞬間だけが怖いのは、私というものがなくなってしまうことがひどく恐ろしいから。たったひとつの小さな矜持だけを密やかに守りながら、私は死なないために生きる。生きている方がまだ楽だから、死の瞬間を考えるよりずっと。……生き抜く覚悟は、まだできそうにない。


 鮮やかな新緑の色が視界いっぱいに広がる、涼やかな森の中。けれどそこは日によって、真夏のような暑さにも真冬のような寒さにもなる場所。そう、確かこの時は、まだ気温の変化にうまく対応することができなくて体調を崩したのだ。……夢を、見ているらしい。
 突然秘境の探索に行くぞと言い出した一時の雇い主に、碌な準備もさせてもらえないまま連れ出された。食事も二、三日に一度少し食べれば十分、二十四時間身辺の警戒を怠らない。雇う以外の費用なんてほとんどかからない丈夫な私は、彼にとってとても便利な奴隷だった。
『丈夫だと聞いていたから連れてきたというのに、使えない奴隷だな』
 使えない、買って失敗した道具を見下ろすような。そんな、視線。
『……申し訳ございません』
 あつい、ねむい、つらい。
 ぼんやりとした意識で、つらつらと泣き言を思い浮かべながら、形だけの謝意を見せる。
 いっそここで意識を失ってしまえば、楽になれるだろうか? ……そんなことはない。ただここに捨てられて、ここに生息する魔獣の餌になるだけ。その顛末だけはこの雇い主も荷物を持つ使用人やガイドも同じなのだけれど、私がふらつく度に怒声を浴びせるだけというあたり、そんな予測は小指の爪の先ほどもないのだろう。ずっと魔獣に襲われずにいると思っているようだけれど、ただ私が近づかれる前に殺気で追い払っているだけ。それにすら気づかない、鈍感な人たち。居心地が悪くても、この枷を填めた人の元であっても、働きにだけは気がついてくれる、そんな人たちがいる、前にいた場所の方が良かった……。
 そこで、ふと思う。
 "前にいた場所"って……どこ?
 がんがんと頭の中を打ちつけられているような、そんな感覚が突然襲い掛かってきた。痛くはないのに、ぐらぐらと揺れるような感覚。頭を抱えて、蹲る。私を咎める声も、だんだんと遠くなって。視界が歪む、音が聴こえなくなる。
 ……きっと、死んでしまえば楽になれるのだと、"死にたくない"と強く思いながら考えていた。


「――イオリ!」
 声と共に、ぺち、と頬を叩かれて目が覚めた。
「あ……」
 視界に入ったのは、窓から差し込むオレンジ色の光に当てられながら眉間にしわを寄せるローさんの顔。虚空に伸ばしていたらしい手は彼に握られていて、私を起こすために頬を軽く叩いた手は汗で額に張りついた髪を払ってくれていた。
 今いるのは、ベッドの上だ。あの秘境でも、あれが存在する世界でもない。
 ローさんはベッドの縁に腰掛けて身を屈め、私の顔を覗き込んでいた。
「昔のことを夢で見ていたのか」
 わかっているとでも言いたげに落とされる言葉。
 そう、確かに夢で見ていたのは昔のこと。でも……。
「内容までは……」
 思い出したことも大分多くなってきたから、どれが新しく思い出したものかというのもよくわからなくなってきた。
 結局夢の内容まではわからずに首を傾げていると、私の手を握る指に力が篭もるのがわかった。
「いい、思い出すな」
「でも……」
 その記憶の中に私が戦えるようになるためのヒントがあるのなら、きちんと思い出さないと。
「全部思い出せば、お前はちゃんと戦える。思い出したくもねェもんを、無理に思い出す必要はねェ」
 身を起こして膝の上で握った拳に視線を落としていると、ローさんの手が汗で湿った私の髪を撫でる。
「どれだけ記憶が戻ってこようと、お前が一番知りたいことは戻ってこねェよ」
「……!」
「おれやカデットに聞いたとしても、すぐにその記憶は消される。お前にその記憶だけは絶対に戻らねェようになってる。知って一番辛いのが、お前だからだ。身の振り方がわからねェっていうんなら、おれが教えてやる。だから思い出せることだけ思い出して、それだけ抱えて生きていけ」
 消された記憶の前後の私の言動や思考が明らかに違うから、そのわけを知りたかった。けれどローさんが言うには、それについてだけはどんな方法を取っても私が知ることはできない。だから今日見た夢もきっと、知ってはならない部分に欠片でも触れたために私の記憶にはほとんど残っていないのだろう。
 無理をするなと言ってくれるローさんたちの言葉に甘えたいと思う反面、脳裏に過去の雇い主たちの人以下のモノを見るような目がちらつく。決して手を煩わせず、ただ盾であれと言っているかのように。
 平気、大丈夫、そんな言葉ばかり返して、それがむしろローさんたちを困らせているのかもしれない。私が気にするべきなのは、過去の雇い主たちの視線じゃなくて、尽くすと決めたローさんたちのことだ。倒れたら捨てていく、なんてそんなことはしない人たちだから、面倒だと思われても、使えないと思われても、ちゃんと話しておいた方がいいのかもしれない。
 きゅ、と握られた手を握り返すと、髪を撫でるローさんの手が止まった。
「私……、本当は、猛暑も極寒も、苦手で……、火傷も凍傷もしないから、いいだけで。いつもそういう場所に行くための準備なんてさせてもらえなかったから、毎回……体調を崩してたんです」
「……あァ」
「でも、私は彼らにとってはただの奴隷だから……。体調を崩したところで、使えもしない道具にお金を払ったというぐらいにしか思われなかった……。だから、隠せば良かった」
 隠してさえいれば、彼らは気づかない。気がつかないから、使えないとも言わない。本当に私が危険な状態になったとしても、その時には命の危険も一緒に迫っているから、私が本当に動けないとわかると"休ませてやるから無事に帰らせろ"と言うのだ。隠してどうにかなるなら最初から最後まで仕事をやり通すことはできるし、真に危険な状況に陥れば雇い主には私が奴隷だなどと言っている暇もない。それでなんとか、報酬もきちんと受け取りながら仕事をしていた。
「今後はちゃんと、いきなり迷惑をかけることだけはないようにします、ので……」
「バカ、そういうことじゃねェよ」
 こつ、と軽く曲げた指の背で額を小突かれた。
 俯けていた視線を上げると、その先のローさんは不機嫌そうに眉を寄せていて。
「隠せるかどうかで判断するな、少しでも具合が悪くなったと思ったらすぐに言え。……大丈夫だ、おれはそんなことでお前をめんどくさく思ったりしねェよ」
 彼には、私が欲しい言葉が手に取るようにわかるらしい。
「……はい。ちゃんと……言えるようにします」
「それでいい」
 ローさんは私の頭をくしゃりと撫でると、壁にかけられた時計に視線を向けた。
「そろそろ晩飯か……。汗掻いただろ、シャワー浴びてこい」
「はい、そうします」
 確かに、夢を見たせいで掻いた汗が気持ち悪かった。シーツは宿の主人に言えば取り換えてくれるそうだし、トランプをするために部屋を空けるのだからその間に換えてもらえばちょうどいい。
 温かいお湯で汗を流して、さっぱりした状態でローさんと一緒に食堂に向かった。
「あ、イオリさん! シャワー浴びてきたの?」
 先に食べていたらしいネリアさんとベポちゃんがこちらに気がついて、手招きしてくれた。
「はい。寝汗を掻いてしまって……」
「今日は別に暑くもないし、夢見が悪かったのね。大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
「それならいいけど」
 キッチンと食堂を仕切るカウンターに行き、コックさんから夕ご飯を受け取る。
「イオリちゃんの分はこっちな。無理しないでいいが、ちゃんと食べるんだぞ」
「はい、ありがとうございます」
 ローさんの分と一緒に受け取り、席に戻る。ローさんは太刀を傍に置いて帽子を脱ぎ、くつろいでいた。
 彼の前にトレーを置いて、隣の席に座る。ベポちゃんたちの雑談に相槌を打ちながら食べていると、シャチさんが食堂に来た。
「あ、船長」
「シャチ。今日はご苦労だったな」
「いえ。それとこれなんですけど……」
 言いながらシャチさんがローさんに差し出したのは、お酒のビン。そういえば、ネリアさんがシャチさんを負かしてお酒を買わせたと言っていたような……。
「あァ、賭けで負けた罰か。ネリアに散々カモにされたんだってなァ?」
「船長もう知ってるんですか!! くっそー、ネリア、今夜またリベンジしてやるからな!」
「望むところよシャチさん」
 仲が良さそうで何よりだ。ネリアさんも根がいい子だから、こうして受け入れられているのだろう。
 お腹がいっぱいになって手を止めると、気がついたベポちゃんが残してしまったものをきれいに平らげてくれた。
 ローさんが食べ終えるのを待って、ベポちゃんと一緒に四人分の食器を片づける。テーブルも拭いて、ネリアさんがトランプを取りに行ってくれたのでそのまま遊ぶことになった。
「おれはシャワーを浴びてくる。何か簡単なゲームでもしてろ」
「アイアイ!」
 ローさんが太刀を抱え一旦お部屋に戻ると、ラフな格好であとは寝るだけだったらしいシャチさんがお酒をコックさんに預けてからテーブルについて、揚々とトランプを切り始めた。
「イオリ、何やるんだ? ってか、何ができるんだっけ?」
「ババ抜きとか、七並べとか、神経衰弱とか……それぐらいでしょうか」
「あァ、見てわかるのならいいんだな。んじゃーババ抜きにすっか! 二人もいいか?」
「うん!」
「大丈夫よ」
 配られたカードを見て、隅に書いてある数字が同じのものを抜き取りテーブルに置いていく。
 私がカードを取る相手であるシャチさんが一応、とカードを見てくれて、揃っているものはきちんと抜いてある、と言ってもらえたのでカードの多い人から引いていくことになった。私はジョーカーを持っておらず、特にどれを引かれても困ることも嬉しいこともなく、といった感じで、ベポちゃんはカードを引く度嬉しそうに二枚抜いて捨てたり、首を傾げて手札に加えたりしていたけれど、どうにも私の表情が読めないようだった。
 ふと、あまり気にしていなかったオーラに不自然な揺らぎがあるのに気がつく。そのオーラの持ち主は、シャチさんで。なんとなく、ジョーカーを持っているのはシャチさんかな、と見当をつけた。
 食堂から出ていく人たちに挨拶をしながらゲームが進んでいって、手札も少なくなってくると、シャチさんのオーラの揺らぎが少し大きくなった。焦っている、という感じだろうか。顔には出ていないし、サングラスで目も見えないためあまりわからないけれど、これは明らかにジョーカーの持ち主はシャチさんだとわかる。ネリアさんが一番に上がり、ベポちゃんが次いで手札を全部なくした。そして残るのは私の手元に二枚、シャチさんの手元に三枚。シャチさんは自分がジョーカーを持っているから何を引いても問題ないとわかっていて、ためらいなく適当に一枚を引いた。組み合わせはできたらしく、二枚を捨てる。
 あとは私がジョーカーでない方を引けば勝ち。
「ふふ、イオリさん、ちゃんとジョーカーじゃない方を引けるかしら」
「イオリ、勘は良さそうだもんねー」
 ほのぼのとした会話を耳に入れながら、シャチさんの手にあるうちの一枚に手を伸ばす。シャチさんは表面上はほっとしたような顔を見せているけれど、それはきっと演技。オーラが今まで以上に揺らいでいるのだ。引かれてはまずい方、だから、こっちが私にとっての正解。
 引けば案の定組み合わせのできるカードで、最下位にはならずに済んだ。
「あー! イオリにまで負けちまった! 悔しい!」
「これなら賭けをしても良さそうね」
「勘弁してくださいネリアさん! つーか明日の昼には出るからそんな余裕ねェよ!」
「一位から最下位に罰ゲームの命令とか、ねぇ? ベポちゃん、イオリさん?」
 シャチさんをからかって遊んでいるネリアさんに、苦笑を漏らすしかない。私が使っている手も卑怯な気もするから、使うのをやめようかとも思ったけれど……。
「イオリさん、さっきのコツは使ってもいいわよ。わたしも使ってるもの」
「え! なんかコツがあんの!?」
「まぁね。シャチさんみたいにわかりやすい人相手じゃないと簡単には通用しないけど」
「そうですね……」
 そうだ、ヒソカやキルアのように嘘の得意な人もいる。彼らは息をするように嘘をついて、その緊張をオーラにも反映させずにやり過ごしてみせる。前の世界での知識が結びついて、すとんと胸に落ちた。
「そのコツ使えねェのやろうぜ……」
「しょうがないわね、神経衰弱でもやりましょうか。シャチさん、ババ抜いて」
「ハイハイ……」
「シャチ、ネリアの召使いみたいだな」
「言うなよベポ!!」
 シャチさんがカードを切ってテーブルの上に散らばらせたところに、シャワーを浴び終えたローさんが戻ってきた。帽子は部屋に置いてきたようで、湿った髪が重力に従って少しだけ下を向いている。
「なんだ、神経衰弱か」
「あ、船長! 混ざります?」
 シャチさんは座っていた席をローさんの為に空けて、隣のテーブルからひとつ椅子を引っ張ってきた。
「あァ」
 太刀を傍に置いてローさんが座ると、じゃんけんで順番が決められる。こういうのは後の方が良く、そうした勝負事には強いのかローさんから順番が遠いベポちゃんからになった。連続で三回、というルールでゲームが始まる。
 ヒソカには、暇な時にこうしてトランプの相手をしてもらっていた。つまらないだろうに、こんな風に私のできるレベルのゲームで。まだ彼と出会った時のことは思い出せないけれど、彼は決して私のことを奴隷だと軽蔑したりはしていなかったし、戦闘狂の彼にしては珍しく私を獲物として見てもいなかった。私も、彼を師匠というか、兄というか。そんな風に慕っていた、らしい。
 こんな些細な遊びですら懐かしいと思えてしまうのは、それができない期間が長かったせい。まったく思い出せない割にその期間が長かったということだけはわかるのだから、不思議な感覚だ。捲ったハートとスペードのエースにヒソカの顔を連想し、懐かしく思いながら合わさった二枚を手元に置いた。
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