slight pride

 潜水艦にいた人がコックさんの用心棒を引き受けてくれたので、ローさんと私は一足先に宿に戻ってきた。まだそれほど眠くはないけれど、念のためと言って先に帰してくれたのだ。
 ロビーで退屈していたらしいベポちゃんが、私たちに気がついてぱぁっと顔を輝かせた。
「おかえり、キャプテン、イオリ!」
「あァ」
「ただいま戻りました」
 ローさんはベポちゃんにペンギンさんを呼んでくるように言うと、階段を上がって今泊まっている部屋に向かう。私も特にすることはないので、そのあとをついていった。
 部屋に着いて、促されるままローさんの隣に座る。ローさんは帽子を取って机に置き、太刀を横の背凭れに立てかけてくつろぎ始めた。床に広がる鎖を軽く束ねて足元に寄せていると、扉がノックされる音がした。
 ローさんが入れ、と言うと、ペンギンさんが失礼します、と言いながら入ってきた。
「イオリさん、お帰りなさい!」
 どうやら一緒に来ていたようで、ネリアさんがペンギンさんの陰からひょこりと姿を見せた。
「首尾は?」
「問題ありません」
 手で促されて、ペンギンさんがローさんの向かい側に腰を下ろす。ネリアさんも特に口は挟まずに、ペンギンさんの隣に腰を落ち着けた。
「補給も完了しましたし、さっきシャチが戻ってきて"確かに届けた"と言ってました。船もすぐに潜水可能なところに移しました」
「なら、あとは記録(ログ)が貯まるのを待つだけだな」
 昨日お酒を飲みながらローさんが話してくれたことを思い起こす。アベルくんを人質だと思い込ませ、出航ぎりぎりに解放して、そちらに相手の意識が向いている間に潜水する。追手が来る可能性を格段に減らせる、考えられる中では一番いい手段。
「ネリア、気になることがある」
 ローさんの言葉に思考を止め、どこか愉しげな笑みを浮かべる横顔を見上げる。
「あら、なぁに?」
「八年前に雇われていた使用人で、今も雇われているヤツはいるか?」
「えぇ、メイドにも守衛にも長く勤めている人はいるわ」
 すぐにローさんが言っているのが、"八年前の地主への疑惑を知っている者がいるのか"という質問だとわかった。
「もうひとつ。あの屋敷、郵便物は検閲されるのか?」
「? ……えぇ、届いた物はすべて。使用人が一度中を確認してから地主やアベルの元に届けるの」
 ネリアさんの返答を聞いたローさんの笑みが深まった。もしかして、郵便物に何か仕掛けた……?
「それは困ったな。地主宛の手紙に、時間を厳守しなければ"ネリア"の命はねェ、と書いちまった。……"うっかり"していた」
 長い脚を組み直しながら、くつりと笑うローさん。反対に、ネリアさんは驚愕の表情を浮かべる。
「な……! どうしてそんなこと!!」
「お前が言ったことだ。地主がしたことを明るみに出したかったんだろ?」
「えぇ、それがわたしの望んだこと。でも……どうしてあなたがそこまでしてくれるの?」
「言っただろ、"うっかり"していたと」
 明らかに矛盾した言葉だ。ネリアさんの望みを覚えていて、なのに"うっかり"それを叶えてしまったと言う。ローさんがこんなことでうっかりしてミスをするなんてありえないというのに。
 屋敷では、ローさんが書いた手紙を検閲した使用人が、まず間違いなく"ネリア"という名前に疑問を持つ。その人が事件の後に雇われている人だとしても、八年前の疑惑を知っている人だとしても。人の口に戸は立てられないから、その検閲した使用人から漏れていくだろう。ネリアさんが言っていた、ネリアさんの母親を良く思っていなかった同僚がまだいるのなら、なおのこと。
「ハァ……。船長、面白そうなことに首を突っ込むのは良いですけど、ほどほどにお願いしますよ」
 ペンギンさんが溜め息を吐き、苦笑して愉しそうなローさんを窘める。けれど面倒だとかそんなことはなさそうで、ただどことなくローさんの身を案じているだけのようだった。ローさんもそれをわかっているのか、肯定も否定もしない。
「フフ、今頃屋敷がどうなってるかは気になるが……まァいい。明日無事に出航することだけを考えろ」
「アイアイ、キャプテン。……そういえば、イオリは潜水は初めてになるな」
 ふと、ペンギンさんの視線がこちらに向いた。
 言われてみれば、潜水艦に乗っていながら今まで一度も海に潜ったことはない。海中に潜らなければならないほどの嫌な敵には遭遇していないし、ひどい天候にも悩まされはしなかった。水上航行の間に蓄電池にエネルギーを貯めることも必要らしく、船に乗ってから一度も潜水することはなかったのだ。
「潜ると暑いんだよなァ……。機関室なんか最悪だぞ。ベポに至ってはシロクマだから暑さに滅法弱いし。イオリは暑いのとか平気か?」
 私は……どうだっただろうか。思い起こせば、雇い主の気まぐれな旅行や、好奇心から行う秘境などの探索。連れ回されることは多々あったけれど、相応の準備というものをする暇はなかったから、備えなんてしていなかった。暑さ寒さは感じても、我慢できていたみたいだ。
「大丈夫だと思います。暑いところにも寒いところにも行ったことはあるので」
 ローさんは小さく溜め息を吐いて、私の頭をぐしゃりと撫でた。
「我慢するのと無理をするのとじゃ話が違ェぞ。慣れねェうちは手を打ってやるから、我慢もしようと思うな」
「そうだぞ、イオリ。熱射病も怖いからな。無理して倒れられる方が困るし、心配になる」
「……、はい。ありがとうございます」
 こうして気遣ってもらえるのは嬉しいけれど、どこかむず痒い。
 案の定ペンギンさんに顔が赤いとからかわれてしまって、ネリアさんもそれを見てくすりと笑んだ。
「潜水艦ね……、カトライヤにあるのはグラープ・マールが仕入れてくるガレオン船か漁に使う小さな帆船ばかりだから、見たことがないわ」
「ウチのは最新鋭だからな。気になるなら、出航準備の間ぐらいなら邪魔さえしなけりゃ船の中をうろついてもいい」
 ローさんの言葉に、ネリアさんがぱぁっと顔を輝かせる。
「本当!? イオリさん、一緒に探検しましょ!」
「はい、喜んで」
 その後人質のふりをしなければならないというのに、楽しそうだ。地主はアベルくんを溺愛しているし、もうネリアさんには母親も自分の体も残っていないのだから、失うものがないということなのだろうけれど。そしてずっとやりたかったことを、ローさんが代わりにやってくれた。たとえ地主が糾弾されても、彼はお金の力で揉み消すことができる。ネリアさんにとって守りたいひとつだけ、アベルくんの身の安全は保障されてはいる。けれど、それでアベルくんがどう育つか……。元々貴族に時々見られる育てられ方をしているとは思うけれど、それが少しだけ心配だ。
「さて、イオリはそろそろ昼寝の時間だ」
「あァ、そんな時間か。ネリア、ベポのところに行こう」
 ローさんの言葉にペンギンさんが頷き、ネリアさんを促す。ネリアさんは一瞬不満そうな顔をしたけれど、すぐにそれを消して立ち上がった。
「わかったわ。それじゃあイオリさん、また夜にね!」
「はい」
 二人が部屋を出ていって落ち着くと、出かけた疲れもあったのかなんだか眠くなってくる。背凭れに身を預けて小さく息を吐くと、ローさんが小さく笑って私の腕を引いた。そして、私の頭を腿に載せて、いわゆる膝枕の状態にされる。
「……あ、あのっ?」
「なんだ?」
「えと、その……重くないですか?」
 咄嗟に出てきた言葉がこれ。ベッドに行くからと言うのも嫌だと言っているようで失礼な気がしたのだ。
「別に重くねェよ」
 ローさんは低い笑い声を混じらせながらそう言い、米神のあたりから耳までを指でなぞって、顔にかかる髪を除けてくれる。
 一体どうしたのだろうと思いながらその手に甘んじていると、ふと目を手のひらで覆われた。視界が真っ暗になる。
「ネリア本人が望んだことだ、今後どう転んでも自分でなんとかする気なんだろう。適当なメイドにでも名乗らせれば、憑依なんか簡単だ。演技力はあるようだしな」
「……はい」
 どうやらローさんは、私が先ほど少し考え込んでいたのに気がついていたようだ。
「ガキの育つ環境ってもんはガキには選べねェ。今後人に恨まれるばかりなのか、そうならずに済むのかは、周囲の大人次第だろ。お前を取り返すついでに、ネリアの望みは叶えてやった。あとは当事者が好きにすればいい。お前は今日明日ネリアに付き合ってやることと、出航のことだけ考えてろ。足りねェ脳なんざ使っても何も解決しねェよ」
「そう……ですね」
「大人になっても環境を選べねェヤツはいるか……」
 呟くと同時に、少しだけ目を覆っている手の指先に力が入ったのを感じた。ローさんが言っているのが、私のことなのだとすぐにわかる。
 確かに、前の世界に落ちた時は財産も社会的な身分も何もなく、強くなるしか生きる道なんてなかった。いつ、なぜ填められたのかわからない足枷も、私が望んでいたわけではないはず。この世界に来た事だって……。
 けれど、今わかるだけでも一つだけは確かに自分で選んだ。
「……ローさんについていくことは、私が、私の意思で決めたことですよ。私がこの"環境"にいることは、私の選択の結果です」
 カデットさんに"どうしたいか"と訊かれて、"ついていきたい"と言ったのは私だ。理由がどうしても思い出せないけれど、後悔なんてしていない。
「少しだけ気になっていた。おれの言葉を断れなかっただけなんじゃねェかってな。だが……、それを聞いて安心した」
「私は……、本当に仕える気がないのであれば、跪いたりなんてしません」
 たったひとつの小さな矜持。首を差し出すようなあの動作は、ローさんが相手だからできたことだ。雇い主に対して頭は下げるし、敬語だって使う。けれど忠誠を誓う動作だけは決してしなかった。してしまえば逃げることもできなくなりそうだと、そう思っていたから。
「あァ、そうだったみてェだな」
 ローさんはただ"聞いた"のだとしか言わないけれど、時折憶えているかのような言い方をする。私の記憶を消したのと正反対に、記憶を与えられているのだと思う。私が覚えていない自分のことも、彼が知っているのだと思うと少し不思議な気分だけれど。訊いてもローさんは答えてくれないだろうし、私も眠くなるだけなのだろう。
 自分で思う、ローさん"だけ"というのが少しだけ引っかかるけれど。それを考えると、頭がぼんやりして仕方ない。
「ロー……さん」
「あァ、眠ィのか。付き合わせて悪かったな。……ゆっくり寝ろ」
 静かで落ち着いた声と優しい手つきに誘われるようにして、意識が闇に溶けた。
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