painful fragrance

 宿に着くと、シャチさんとペンギンさんはまずベポちゃんを呼びに行った。ベポちゃんと、くっついてきたネリアさんがロビーに出てきて、おかえり、と出迎えてくれる。
「んじゃ、おれらはまた酒場に行って飲んでるから」
「はい、ありがとうございました」
 眠り始めた時に周囲で話をされると、どうにもぼんやりとした意識の中で聞いてしまう。今日もそれで少しだけ悩んでいたのだけれど、意外にもすぐにペンギンさんと話す機会ができた。
 彼の懸念は、私の過去の雇い主と同じようなもの。けれど絶対的に違うのは、彼が私に嫌悪感は抱いていないということだ。
「イオリ、なんかすっきりして帰ってきた?」
「わかりますか?」
「うん!」
「……悩みが、軽くなったんです」
 ベポちゃんはそれだけでも何か伝わったようで、にこにこと笑った。
「えへへ、そっかぁ、よかった」
 堪えきれなかった欠伸が小さく漏れると、ベポちゃんがお風呂に入ろっか、と私たちを促した。
 ローさんが使っている部屋にはシャワールームがあったのだけれど、他の皆は宿にある大浴場を使っているらしい。元々島への滞在期間中はこの宿を貸し切っているし、今日に至っては早くても夜中まで誰も帰ってこない。だから三人で入ろう、とベポちゃんが提案してきた。
 ベポちゃんはずっと体を拭くに留めていたから、包帯を解いたり着替えやバスタオルを取りに行ったりするついでに、一応宿の主人にベポちゃんが入ってもいいかを訊いてみる。どのみち日に一度はお湯を入れ替えるから、他のクルーが嫌がらないなら大丈夫だ、と返事をもらった。
「ベポちゃん、入っても大丈夫だそうですよ」
 ネリアさんはクルーのシャツを借りて寝巻にし、屋敷から出てくる時に着ていた服を洗濯して一晩で乾かしながら寝ているようで、それらを用意して待っていた。
「イオリさん、背中流してあげるわね!」
「ふふ、はい、お願いします」
 宿の主人が気を利かせて掃除中の札を貸してくれたので、それをかけてベポちゃんとネリアさんと一緒に脱衣所に入る。
「イオリさん、傷のことは……本当にごめんなさい」
 そ、と小さな手が腕の傷を撫でる。どうせ治るのだから、過ぎたことを気にしても仕方がない。
「大丈夫ですよ。見ていて不快に思うかもしれませんが、我慢していただければ……」
「わたしが元凶だもの、気にしないわ……!」
 ベポちゃんが少し困ったようにネリアさんを見下ろす。何かあったのだろうか。簀子の床に膝をついて、ネリアさんと視線の高さを合わせた。俯いていたネリアさんは、アベルくんの顔を使って泣きそうな顔をしていた。
「どうかしましたか?」
「……わたし、わかってるわ。船長さんが、もう監視じゃなくて護衛の意味でペンギンさんやベポくんをそばに置いてるって。わたし、あなたたちに迷惑をかけてばかり……」
「ローさんは、そんな風には思っていませんよ。私が勝手にネリアさんに協力したから、その始末をきちんとつけようとしてくださっているだけだと思います」
 ここでアベルくんの身を投げ出せば、身代金目当ての人攫いが現れるだろう。今、地主のお屋敷はそれどころではないから、最悪の場合にはネリアさんが守りたがっていたアベルくんが死んでしまうことになる。
 ローさんも、子どもが置かれる環境は子ども自身には選べないとわかっているといった風で、ネリアさんが居ついても何も言わなかった。
「そう、ね……、確かに、船長さんがわたしにどうしたいのか訊いてくれた……」
「ネリア! おれね、ネリアと仲良くなれて嬉しかったよ! 迷惑なんかじゃないよ」
 ベポちゃんの一生懸命な言葉に、ネリアさんは少しの間きょとんとした後、眉を下げながらも笑ってくれた。
 どこに行っても浴場のルールというのは同じのようで、ネリアさんに背中を流してもらいながら、傷を開かないように他の場所を洗った。朝見た時より、傷の数は減っている。本当に治りが早い。
「イオリ、傷は大丈夫?」
 泡だらけになりながら訊いてくるベポちゃんに、大丈夫だと頷く。ネリアさんと一緒にベポちゃんの泡を流してあげて、熱めのお湯が入った浴槽に浸かった。
 船に乗ってからはシャワーで済ませていたから、お湯に浸かるのはかなり久しぶりだ。底に沈む鎖は、お湯の中でもきれいな銀色をしている。
「ふー、気持ちいいー」
「あ……ベポちゃん」
「なぁに? イオリ」
「ローさん、明日は朝食を食べるでしょうか……」
「食べると思うよ。いつも朝に帰ってきてコックが用意したごはん食べるから。あ、もしかしてイオリが作ってくれるの!?」
「……はい」
 期待に満ちた表情に苦笑しながら頷くと、ネリアさんと顔を見合わせて頬を緩ませていた。
 逆上せないうちに上がって、幾分か涼しい脱衣所でベポちゃんを乾かした。そんな風にして時間が過ぎると、いよいよ本格的に眠くなってくる。
「あ、イオリ眠そうだ! おれもう乾いたし、部屋に戻ろっか」
「イオリさん、夜更かしできないタイプなの?」
「うん、そんなとこ」
「ふぅん……」
 深入りはしないでくれるようで、ネリアさんは相槌を打つに留めた。
 ベポちゃんたちが使っている部屋に行って、いつ寝てもいいようにベッドに寝転がる。ネリアさんが一緒に寝たいと言ってくれたので同じ布団に包まって、他愛のない話をしているとすぐに瞼が重くなって、二人の話し声もすぐにフェードアウトしていた。



「ん……」
 目を開けると、ずっと瞼で塞がれていた視界に光が入って眩しくなり、思わず瞬く。
 ベポちゃんの低いいびきと、ネリアさんのすぅすぅという静かな寝息。それから壁に掛けられた時計が秒針を進める規則的な音がしていた。時計を見ると、早朝と言っていい時間帯。昨日もそんな時間に起きたなぁ、とぼんやりと考える。
 早くに起きられたのだし、朝食を準備してしまおう。ネリアさんを起こさないようにベッドから抜け出して、厨房に行ってみた。
「ん? おはよう、イオリちゃん」
 厨房にはコックさんがいて、クルーたちの朝食を作っていた。鎖の音で気がついていたらしく、顔を覗かせるとすぐに挨拶をしてくれた。
「コックさん。おはようございます」
 少しだけ不思議そうな顔をして私を見ていたコックさんだけれど、すぐに私がここに来た理由がわかったらしく、あっという顔をした。
「船長が言ってたのを作るのかい?」
「はい。作ってもいいですか?」
「もちろん! そこの冷蔵庫に材料は入れてあるからな。出汁はいるかい?」
「はい。出汁巻き卵は魚介類が一番いいんですけど……ありますか?」
「あァ、昨日言われてたからね。ちょっと待ってな、煮干しだからすり潰した方が早い」
「ありがとうございます」
 コックさんはローさんが好んでいるからか和食に興味津々だ。二種類以上あるなら、お吸い物もいいかもしれない。そう伝えると、そちらも準備する、と言ってくれた。
 出汁を溶くために少しだけ水を温めて、準備をしておく。
 ベポちゃんもネリアさんも食べるだろうし、コックさんも食べたいと言ってくれた。私も久しぶりに和食を食べたい。卵をいくつ使うかというのは、決められたのだけれど。
「…………」
「イオリちゃん、どうかしたかい?」
 調味料を前に顔を顰める私に気がついたのか、コックさんが声をかけてくれた。
「すみません、その……、分量の計算ができなくて」
「あァ、そうだっけか」
 割合はわかっていたのでそれを伝えると、嫌な顔もせず計算してくれた。前の世界でも、料理は多少していたけれど……、どうやっていたんだっけ。それを考えると鈍くなる思考。思い出してはいけないことなのだと思う。
 計量スプーンに何杯、と言ってもらえれば覚えられたから、後は火傷にさえ気をつけて作れば大丈夫だ。簡単だから作り方もちゃんと覚えているし、焦がさない自信もある。
 お吸い物はコックさんが作り方を覚えたいから、と引き受けてくれたので、調味料と、たねになる物と入れるタイミングを伝えて後はお願いした。
 出汁巻き卵はスクランブルエッグの外側に2、3回薄い卵を巻きつけるという簡単にできてかつふわふわになる作り方だから、コックさんが出汁を作ってくれてからは短時間で出来上がった。盛り付けるのに見栄えが悪くなるので、両端を切り落としてコックさんにも味見してもらう。
「……おぉ、美味いな」
「良かったです。ローさんに出せるでしょうか……」
「大丈夫だ。すいもの、ってやつは味はこれでいいのか?」
 小皿に取られた分を少し飲んでみる。別段しょっぱいという風にも思わないから、煮過ぎなければ大丈夫だろう。
「今ぐらいがちょうどいいので、あまり煮立たせて濃くしないように気をつけてください」
「あァ、わかった。いやァ、イオリちゃんすごいな。他にも作り方覚えてるのはあるのか?」
「ありますよ。簡単なものしかありませんが……」
「じゃあ、また今度教えてくれ! 船長がこういう味付け好きだから調味料はあるしな」
「はい、私でよければ喜んで」
 私はやることが終わったし、耳を澄ませてもベポちゃんやネリアさんが起きた様子はない。鍋を見たり、材料を洗ったりということぐらいはできたので、それを手伝わせてもらった。
 しばらくそうしていると、ちらほらと帰ってきたクルーが食堂に顔を見せ始める。香水の匂いが残る人もいて、何があったかがわかるだけに少しだけ複雑だ。
「お、イオリじゃん、おはよう!」
「おはようございます。朝ご飯、食べますか?」
「あァ、頼む」
 給仕を手伝っていると、ベポちゃんとネリアさんが揃って起きてきた。
「イオリおはよー! 起きたら部屋にいなかったからちょっとびっくりしたぞ」
「おはよう、イオリさんっ」
「すみません、起こすのも悪いかと思って……。朝ご飯は和食でいいんですか?」
「うんっ! 楽しみにしてたよ」
 二人が席につくのを横目に、厨房に入ってトレーに白米とお吸い物、出汁巻き卵を盛ったお皿を載せる。コックさんが食べてきていいと言ってくれたので、その言葉に甘えて三人分用意した。ただ、ベポちゃんはたくさん食べるのがわかっているので多めだ。
 食べ始めると、二人の反応が気になって見てしまう。
「おいしいよ、イオリ!」
「こういう料理もあるのね……。初めて食べたけど、おいしいわ」
「汁物はコックさんが作ってくださったんですよ。……喜んでいただけたのなら、良かったです」
「キャプテンも喜ぶよ」
「だといいです」
 味見なんかもしたせいか、一応白米もよそってきたのだけれどあまり入らなかった。ベポちゃんが快く平らげてくれて、もったいないことはせずに済んで良かったのだけれど。二日間食べなかったせいか、また胃が戻ってしまった気がする。
 喜んで食べてくれることを嬉しく思いながら雑談していると、ローさんが帰ってきた。
「起きてたか、イオリ」
「ローさん、お帰りなさい。……?」
 ひときわ強く香る、香水の甘い匂い。くらくらする。……私は、この匂いが、嫌い?
「おい、イオリ。どうした?」
 ローさんの手が頬に伸びてきて、親指が目尻を拭う。それでやっとわかる、濡れた感触。
 私、泣いている……?
 異変に気づいた周囲から心配げな視線を向けられるけれど、原因がわからない。
「すみません……、私にも、わかりません……」
 別に何を思っているわけでもない。匂いを嫌う理由もわからないし、それが泣くような理由のわけがない。皆を困らせたくなくて、お部屋に戻ります、とだけ言って慌てて席を立った。
 ローさんが使っている部屋に入り、匂いなのか思い出していることがあるのか、原因の判断がつかない眩暈を覚えて布団に潜り込む。毎日宿の主人が替えてくれているシーツからは、洗剤の香りがした。
 困らせたくないのに、どうしたらいいのかわからない。
 今日は、思い出してはいけないことに繋がることをよく考える日だ……。
 なんだか考え事をたくさんした頭がどっと疲れたような気がして、そのまま目を閉じた。
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