charm of Cattleya island

 ごほ、と咳き込むとワンピースに血が数滴落ちた。お腹を蹴られた時に、内臓を傷めてしまったらしい。体もずっと同じ体勢でいたせいか少しだるい。鎖で持ち上げられた腕もほとんど感覚がなく、動けそうになかった。
 今は何時だろうか。あれから貴族は規則正しく夕食、湯浴み、就寝とわかりやすく過ごしてくれたので、まだ一日経っていないことは確かだ。次に来るとしたら、朝食の後のはず。一晩寝たおかげですっきりした頭で、そんなことを考えた。
 名前ひとつ訊くだけの質問のお陰に、いくつも傷ができてしまった。せっかく買ってもらったワンピースも、踏まれた跡や血の滲みで汚れ、途中使われた刃物のせいで裂けてしまっているところがいくつもある。傷は襲撃の時以上の数で、あの時傷を治しただけでも相当疲れたのに、と今より後の方が億劫に思える自分の思考に少しだけ笑ってしまった。後のことを考えられるのは、"ローさんが必ず助けに来てくれる"と、そう信じているからだ。
 地下牢があっても拷問には慣れていないのか、殴る蹴るという行為から、鞭で打つなど武器を使ったものに少し進歩しただけ。まだ大丈夫、死ぬような怪我じゃないから、耐えられる。正直に言って爪を剥ぐなどされるのではないかと思っていたのだけれど、一向にそんな気配はなかった。痛みを感じないのだから、そんな治す手間だけを増やすようなことはされなくて良かったと思う。
 それから、あの子どもとしばらく向き合って気がついたことがひとつ。
「おはよう。名前を言う気になった?」
 無邪気に笑いながら檻に入ってきた子どもからは、食べ物のにおいがした。朝食を食べ終えて、こちらに来たのだろう。何も名前を聞くためだけにこんな不釣り合いな場所に入り浸らなくともいいだろうに、と思うも、自分が考える可能性を思うと、それも仕方のないことなのかもしれないと息を吐いた。
 何も答えないままでいると、子どもの目に苛立ちの色が浮かぶ。……今だ。
「あなたは、誰ですか?」
「……あはは、なに言ってるの? 昨日たくさん殴られたから、頭がおかしくなっちゃった? ぼくはこの家の子どもだよ」
「いいえ、違います。あなたは時々、文字通り目の色を変える。私に執着する時だけ」
 私の言葉に、子どもは一瞬で無表情になった。
「すごいね、お姉さん……。この子を溺愛する父親ですら見抜けなかったのに」
 子どもは私の正面に膝を抱えて屈むと、愉しそうににんまりと笑った。相手はただの子どものはずなのに、身動きが取れないせいかどうしても後ずさりたくなる。
 違うと言い当ててしまったのは失敗だったか、と考えても、後悔とは先に立たないもの。
 しかし子どもの方には、これ以上危害を加えようという様子はなかった。
「わたしはね、この子の姉なの。とはいっても、この家の旦那様に手を出されたメイドの子ども、腹違いの姉よ」
「……なぜ私に執着するのですか?」
「わたしが生きていたら、あなたぐらいの歳だったから」
 よくわからない。首を傾げると、子どもはくすりと笑んだ。
「いいわ、最初から説明してあげる。母はね、わたしのことを愛して育ててくれた。住み込みで働いていたんだけど、他の男の子どもだと偽って、わたしにも仕事を叩き込みながら育ててくれたのよ。けれど、気立ての良い母を快く思わない同僚がいた。余計なことを嗅ぎ回ってくれてね、けれど誰に聞いてもわたしの父親がわからない。可能性のあった使用人すら、まったく知らない様子だったから。そこでその同僚は考えた。"誰も知らないということは、このお屋敷に残る男性は一人だけではないか"。問い詰められた旦那様は、すぐにわたしの母を殺した。海賊の仕業に見せかけるために、人のいない場所を買い出しの帰りに歩いているところを狙って。わたしも、証拠の隠滅のために殺された。誰もいない部屋で、旦那様にナイフで気が狂ったようにめった刺しにされて。"おまえさえいなければ、誰かに一夜の過ちが露見することはなかったのに"ってね。それが……そう、8年ほど前のことだったわ。ちょうどこの子が2歳の誕生日を迎えた頃。わたしは今のこの子と同じ歳の時に、殺されたのよ」
 回らない頭で、女の子と思しき子の年齢を考える。この子どもは10歳のようだから、それから8年……。生きていれば、18歳ということだ。やっぱり私は10代だと思われているようだった。
「私……24なんですが……」
「え!? 全然そうは見えなかったわ! ……ところで、ずっと気になっていたんだけど」
「?」
 子どもは立ち上がると、私を指差した。
「その、白いもやもやしたもの……なんなの?」
「え……?」
「見えない? あなたの全身に白い湯気みたいなものがまとわりついているの」
 指摘されて、自分の体を見てみる。言われてみれば、彼女が表現する通りのものが体から出ていた。
 記憶を手繰り寄せてみると、戦いの中でこれを体の各所に集めて戦っていたのがわかる。気にしなかったから認識できなかっただけなのだろうか。
 多分、ローさんが言っていた"五感を鋭くする"というのは、これを目や耳に集めて行うものなのだろう。
「あ……」
 目に意識を集中させた状態で子どもを見ると、先程とは違う状態が視界に映る。
「どうかした?」
「あなた……、私と同じ髪と目の色をしているんですね……」
 子どもの顔に重なるようにして映る、私と同じように湯気のようなものに包まれた女の子。私の言葉に、驚いたように目を見開いていた。
「やだ、わかるの?」
 頷くと、観念したかのように息をついて目を伏せる。
「……そうよ、だからあなたを選んだ」
「あの……、その旦那様、あなただと勘違いしたら私まで滅多刺しにするのでは……?」
「あら、わかっちゃった?」
 くすりといたずらっ子のように笑む姿に、ここに来て初めて危機感を覚えた。でも、まだ大丈夫。この子が先程からずっと名前を聞きたがっている理由があるはずなのだ。
「私の口からあなたに向けて名乗らないと、憑依、と言っていいのでしょうか……それができないんですよね?」
「頭悪いのかと思ったら……。ずいぶん鋭いじゃない。だめね、あなたには憑依できないわ。だって名乗ってくれそうにないもの」
「名乗ったらどうなるかわかった上で、そんなことをするような馬鹿ではありません」
「ふふ、そうみたいね。痛みも感じないみたいだし……、あなた、どうしたら口を割るの?」
「拷問は……慣れていますから。あなたに私が殺せない以上、名前を教えることはありえません」
 はっきりとそう返すと、女の子は諦めたように苦い笑みを浮かべた。
 この女の子は、一体何をしたいのだろうか。あの父親を勘違いさせても、私が死ぬだけ。彼に何の損害も与えることなく、終わってしまう。
「わたしが何をしたいのか……、気になる?」
「はい、とても」
「……そうね、あなたが殺されるだけじゃあ、何も変わらないものね。あいつがまた地主として、のうのうと生きていくだけ。……復讐をね、したいのよ」
「復讐?」
「とにかくあなたをここから自由にして、わたしが誰とでも接触できるようにするの。そこで……、あいつの前で、皆に本当のことを明かしてやるの」
 8年経ったといっても、この子の思考力は変わらないらしい。8年も前に殺した子どもが、島に立ち寄った海賊に憑りついて現れたといって、簡単に信じてもらえるわけがないのに。
「……あなたは、今憑依している子には真実を知らせたくないようですね」
「罪のない弟だもの、何も知らなくていいわ。この子はあなたを奴隷として欲しがって、名前を知りたいだけの子ども。それでいいのよ」
 憑りついておきながら、何も知らなくていいと言う。この子を溺愛する父親の前で明かしてしまえば、この子も真実を知ることになってしまう。理想ばかりを並べ立てた、無謀ともいえる行き当たりばったりな計画とも呼べないものに過ぎなかった。
「あなたは……子どもですね。無理ばかりを言う」
 女の子は眉根を寄せて、俯いてしまった。
「わかってるわ……、でも、わたしにはこれしか考えられないの」
「あなたの名前を聞いても?」
「……ネリア。聞いてどうするの?」
「その子に憑くのをやめて、少し私に任せていただけませんか? 私には憑依しなくてもあなたが見えますし」
 ネリアさんは目を丸くして、私の顔を覗き込んだ。
「……どうするつもり?」
「あなたが憑依したと言っても、信じてはもらえないでしょう。でも、この島に来たばかりの私が細かい事情を知っていたら?」
 私の言いたいことがわかったのか、心配そうに目を見つめられる。
「いいの……? あの人、何をするかわからないわよ」
「大丈夫です。きっと、助けが来るから」
 頭の良いローさんのことだから、あの手がかりだけでもきっとここを突き止めてくれるはず。地上から聞こえる音に耳を傾けてもまだ何も変化はないけれど、大丈夫だと、そう思えるのだ。
「……あぁ、あの人。ふふ、初めに会った時はとても怖かったわ」
「ネリアさんは、先程まで私が死んでもかまわないようなことを言っていたのに……急にどうしたのですか?」
「だって、あなたが協力的だから。いいわ、あなたを信じてみる。頭は悪いみたいだけど、生きた時間が違うものね。霊としてどれだけ過ごしても……、成長しないんだもの。だから、"大人"のあなたに任せるわ」
 子どもに重なっていたネリアさんの霊体が、ふ、と外れて女の子だけが浮かび上がった。
「ねぇ、名前を言って」
 憑依された状態から解放されても、相変わらず私の名前を聞きたがる子ども。けれど先程までのように、狂気を孕んだ目はしていない。やはり、あれはネリアさんの目だったのだ。今のこの子なら、素直に"お願い"を聞いてくれるかもしれない。
「……あなたのお父様と、二人きりで少しお話をさせていただけませんか? そうしたら、教えて差し上げます」
「本当に?」
「はい、本当です」
 無邪気な子どもの目を見つめ返し、はっきりと頷く。子どもは少し迷う様子を見せた後、踵を返して地下牢を出て行った。
 それからしばらくは誰一人として地下牢に現れず、時間だけが過ぎて行った。ネリアさんが様子を見に行ったところ、地主としての公務が忙しく、中々下りてこられない様子だったと言われた。一度眠り、もう一度目が覚めた頃。ネリアさんに陽が完全に沈みかけた時分だと教えられた頃、父親だけが地下に下りてきて、檻の中に入ってきた。
「奴隷風情が交換条件を出してくるなど、腹立たしい……。一体何の用かな」
「……8年前」
 その単語だけで、ぴくり、と父親の肩が動いた。顔を見れば、見るからに青褪めている。私は気づいていながらもそれには構わず、言葉を続けた。
「あなたは使用人との間に生まれた10歳の子どもを刃物で滅多刺しにし、殺害した。"おまえさえいなければ、誰かに一夜の過ちが露見することはなかったのに"、と」
「な……、何故、きみがそれを……」
「その子どもの名前は……"ネリア"、ですね?」
「!!」
 私と父親の間に立つネリアさんは、真剣な表情で父親の様子を見つめている。
 父親は体をカタカタと震わせながら俯いていたけれど、突然どこか吹っ切れたように狂気の混じった笑みを浮かべ出した。
「ふふ、ふふふふ……! そうか、これがこの島の魔力か……!」
「……?」
 言葉の意味が分からず、思わずネリアさんのいる方に視線を遣る。ネリアさんは私の視線に気がつくと、父親に視線を向けたまま解説してくれた。
「この島にはね、ある魔力があると言われているの。……死者の強い思いを、実現してしまう力。島の中央には、グラープ・マールという会社があったでしょう。50年ほど前に、あれができてからだったらしいわ……。"海賊たちの墓標"が、いつしか死者の無念を晴らすものになったと、そう伝えられている」
 恨みは災厄となって相手に降り、心配は支えとなって相手を包み込むのだと。ネリアさんはそう続けて、わたしの場合は恨みね、と付け加えた。
「きみには、ネリアが見えているのかね?」
「はい。今のお話はすべて、彼女から聞きました。彼女はあなたを恨んでいると……、復讐がしたいのだと、言っています」
「復讐! まさか、今の話を使用人たちに言いふらすなどといった、幼稚な発想をしているのではないだろうね?」
「……そのまさか、ですよ」
 父親は膝を折り一度しゃがむと、足元に落ちている拷問に使われていたナイフに手を伸ばした。それを拾い上げて逆手に持ち、再び立ち上がる。
 銀色の刃を振りかざし、それを思い切り私の左肩に振り下ろした。
 ずぶ、と金属が肉を割いて沈む音。皮膚の内側に金属の冷たさは感じるけれど、痛みはない。どくり、と傷が疼くように脈打ち、血が溢れ出た。
「ちょっと……!」
 ネリアさんの言葉を遮るようにして、父親に向けて追い討ちをかける。
「誤解のないように、あの子にわかりやすくお伝えしましょうか? きっと間違えずにいろいろな人に教えて回ってくださいますよ」
 ナイフが引き抜かれ、今度は太腿に突き立てられた。
「何を強気なことを!! 住民が口止めされ情報源を断たれて、あの冷酷な"死の外科医"が助けに来ると思うのか!?」
 父親が私の腿の肉を引き裂きながら声を荒げるのに比例するように、私の声は冷静なものになっていく。
「彼はきっと助けに来てくださいます。決してクルーを蔑ろにしない人ですから」
「できるわけがない! 海賊が暴力沙汰を起こせば、グラープ・マールの武力が牙を剥くのだから……!!」
 ――コツ、怒声の中に、聞き慣れた革靴の音が混じって聴こえた。
 思わず顔を上げると、気がついたネリアさんが霊体のまま地下牢の入り口に移動し階段の上を見て、こちらに顔を向けふわりと笑んだ。
「来たわよ、あなたの船長さん」
「……!! ローさんっ!」
「なっ……!」
 思わず入り口に向けて名前を呼ぶと、父親が私の脚からナイフを抜き、後ろを振り向く。
 冷たい石造りの地下へ続く階段を、ゆっくりと降りてくるのがわかる。父親が声を発していない今、その足音だけが地下牢いっぱいに響いていて、その余裕が父親に焦燥感を抱かせたのか、一歩後ずさったのが分かった。
 長刀を担いだローさんは地下に降り立つと、こちらへ視線を向けて眉間に深く皺を刻んだ。その表情から、不機嫌を通り越し怒りを覚えているのだと容易にわかった。ぴり、と肌を刺すような空気。この感覚を、私は覚えている。彼から溢れ出る殺気が、父親に限らずこの場にいる全員の肌を刺していた。
「……ほう? ウチのクルーの良心につけ込んで盗んでいった挙句、傷までつけやがったか」
 静かな、低く威圧感のある声。その声は確かに怒りに満ちていて、言葉を向けられていない私ですらその感情が向けられているのではないかと錯覚してしまうほど。けれど、ずっと来て欲しいと願っていたその人を目の前にして、自分が置かれた状況は変わりもしないのに、安堵から溢れた滴が頬を滑り落ちた。
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