"Rhodopis"

 医学書を読み終えて、閉じたそれを机の上に置く。手元ばかり追って疲れた目を何とはなしにベッドに向けると、イオリがむくりと身を起こしていた。
「起きたか」
「……おはようございます」
 イオリはおれに気がつくとそれだけ言い、周囲を見回す。
「私、床で寝たような……?」
「あァ、おれが動かした」
「……そう、でしたか。お手を煩わせてすみませんでした」
「?」
 どこか、先程よりも固くなった雰囲気に違和感を覚え、どうかしたのかと訊いてみる。
 しかし返ってくるのは否定の言葉のみ。あぁ、これは。
「何か思い出したか」
 びく、と言葉に反応してイオリの肩が跳ねる。
 何かイオリにとって大きな影響を及ぼしたことを思い出したのだろう。最近のことから思い出しているとすれば、二度目に旅団に拾われる直前のことだろうか。
「気になることがあるなら訊け」
 ソファから立ち上がり、イオリが座るベッドの端に腰を下ろして、どこか青褪めたように見える顔を覗きこむ。
「わたし……、どうして、カデットさんのところに……? もう死ぬのだと、そう思って……、そこから、わからないんです……」
 ひとまずイオリを落ち着かせて、どんな経緯でそうなったのかを聞く。
「仕事が終わって……、でも、その雇い主は私をそのまま護衛にしたいと考えていて……。断ったら、他の脅威になるなら殺す、と……!」
 罠に嵌まって、もう終いだと思ったところから、記憶がないらしい。おそらくそこで、一度イオリを手放したはずの旅団が助けたのだ。そこからは旅団に関わる記憶しかないのだから、死を覚悟した直後、経緯もわからずカデットにこの世界へ連れてこられたという滅茶苦茶なものになっていることだろう。
 しかしそこにどんな言葉を継ぎ足そうとも、矛盾ばかりが生まれてイオリの納得のいくものになるはずがない。言えることは、ひとつだけだ。
「……考えなくていい。お前はもうこの船の一員で、奴隷でもなんでもない。過去を気にしてどうなる?」
「それは、そうですけど……」
「わかってるならもう考えるな」
 膝の上に置かれた拳に、力が入るのがわかった。
 気になってしまうのはどうしようもないが、これ以上はイオリが自力で答えを導き出すことも、おれが答えを与えることもできないのだ。
「んん〜……、イオリ、キャプテン……?」
 ベポが起き出して声を発したことで、イオリははっとして暗くなっていた表情を消す。
「おはようございます、ベポちゃん」
 イオリはおずおずとベポの頭に手を伸ばし、撫でながらそう言った。
「おはよう、イオリ!」
 嬉しそうにイオリの手に甘んじるベポを見て、イオリはどこか安心したように口元に柔らかく笑みを浮かべる。
「お前が過去を思い出して、それでおれたちの何かが変わると思うか?」
 イオリはふる、と首を横に振った。
 不思議そうに首を傾げるベポをそのままに、言葉を続ける。
「何を思い出しても、お前の立場を忘れるな。言いたいことは言えるようにしろ」
「っ、はい……」
 それでいい、と言うと、ベポは何か察したのかイオリの頭をよしよしと撫で始めた。
「イオリ、ちょっと汗掻いた?」
「……いやな夢を見てしまったので」
 過去のことを考えながら眠りにおちてしまったというのなら、思い出したことを夢で見てしまったのだと言われれば納得がいく。魘される様子もなかったし、表面にも出していなかったのだろうが、イオリに触れたベポにはすぐにわかったのだろう。
「大丈夫?」
「……はい、目が覚めたらローさんもベポちゃんもいましたから」
 安心したように笑うイオリを見て、つられたようにベポも笑顔を浮かべた。
「そっか!」
 そういえば、こいつは船に乗ってから一度もシャワーを浴びていない。特に汗を掻くようなこともしなかったし、そもそもほとんど寝ていたので仕方がないといえば仕方がないのだが。
「イオリ、そこがシャワールームだ。おれが使っていない時は好きに使っていい」
「……じゃあ、今、浴びてきてもいいですか?」
 顔色を窺うようにしながら尋ねてくるイオリの頭を、そんな心配をする必要はないという意味を込めて撫でる。ベポが気づいたとおり、イオリの髪は汗でなのか僅かにしっとりとしていた。
「あァ。夜は宴なんだ、ついでに見栄えもさせておけ。……ベポ、その中から選んでやれ」
「アイアーイ」
 ベポは部屋の隅に行き、置かれた荷物の中からイオリの服を漁りだす。状況に置いていかれて戸惑うイオリに気がつくと、振り返ってまた笑顔を浮かべた。
「バスタオルと一緒に置いておくから、イオリはシャワー浴びててね!」
「は……、はい。お願いします」
 イオリがおれの部屋に備え付けられたシャワールームに引っ込むと、ベポは手元に集中し始める。どれがいいかな、と懸命に選ぶ姿に、イオリに選ばせても結局同じ時間がかかったのではないかとつい苦笑してしまった。
「あ、これいいかも! ねぇねぇキャプテン、どう?」
 ベポがソファに落ち着き直したおれに見せたのは、レースのあしらわれた、ゴシック風のデザインのワンピースだ。おそらくこれはあの船員が選んだものだろう。派手なものが好きそうだった割に、イオリに合いそうな、シンプルかつ動きやすそうなものを選んでくれている。それでもイオリが合わないからと遠慮するのを押し切って、無理に荷物に入れたのだろう事は容易に想像がついた。
「あァ、いいんじゃねェか」
「あ、そういえばこの間の収穫の中にこれに合いそうなペンダントとかあったよ! おれ持ってくる!」
「バスタオルを忘れるんじゃねェぞ」
「うん!」
 ばたばたと慌しく船長室を出て行くベポを見送り、静かになった部屋の中で、"またイオリが遠慮して一悶着起こりそうだ"と小さく溜め息をついた。
 短時間でベポが戻ってきて、いくつか手にしてきたアクセサリーをおれに手渡し選んでおくように言うと、バスタオルと服を置きにシャワールームに入っていく。さすがにイオリも驚くんじゃないだろうかと思ったが、同じベッドで寝ていても動揺しなかったし、加えて相手がベポなら鉢合わせても問題はないだろうと考えないことにした。
「しかし、選べと言われてもな……」
 イオリがベポが選んだ服と合わせて身につける姿を想像しながら選ぶというのは、変な気分だ。なぜこれだけおれに任せるのかと、特に考えもなく言ったのであろうベポを少しだけ恨めしく思う。
 タオルと服を置くだけにしては遅いな、と思いつつ選び取ったものを分けて置く。
 少しするとシャワールームの扉が開いて、ベポがイオリの頭を被せたタオルで拭きつつ何やら説教をしながら出てきた。
「……何があった」
「あ、聞いてよキャプテン! イオリってば髪拭くの適当なんだよ! 風邪引いちゃうかもしれないのにっ」
 ベポはイオリをソファに座らせると、丁寧に髪についた水分を取っていく。一体今朝の会話でどれだけ懐いたというのか。イオリはといえば、ベポが選んだワンピースを着て、おろおろと視線をさ迷わせながらされるがままになっている。
 カデットが用意した荷物の中にあったというブラシでこれまた丁寧に髪を梳くと、満足げに頷いて解放した。
「うん、これでよしっ。キャプテン、イオリにそれ着けてあげて」
「なんでおれが……」
「だって、おれの手じゃそれ上手くできないし……。イオリも着けたことないでしょ?」
「確かにそうですけど……。ローさんの手を煩わせてまで着けることはないんじゃ……」
 困ったように言うイオリだが、言いたいことは言えと言った矢先にこれだ。ベポに勧められるのは嬉しいが、といったところか。なんだかイオリの言葉通りになるのも癪で、選んだアクセサリーを手に取りイオリの後ろに立った。
「ローさん?」
「大人しくしてろ」
「は、はいっ」
 ぴしっと姿勢を正したイオリを内心で面白がりながら、細い首にペンダントのチェーンを回し、留め具をつける。
 ベポが適当に選んで持ってきた物の中にブレスレットも混じっていて、ついでだからとワンピースに合った薄い色の宝石が控えめにあしらわれたそれも着けさせる。
 おれが選んだのはどちらも銀色の物で、やはり足枷との釣り合いを考えるとこうするしかなかったのが本音だ。それでもアクセサリーを彩る淡い色の宝石がイオリの白い肌とよく合っていて、それを見てまぁまぁだな、と満足する自分に"つい先程まで不満たらたらだったくせに"と内心で呆れる。
 結局おれはベポに甘いし、知らず知らずのうちにイオリにも甘くなっていたのだ。
「これで満足か? ベポ」
「うん! ありがとうキャプテン。イオリ、すっごくかわいいよ!」
「……本当、ですか?」
 不安げに問い返すイオリに、ベポが言い聞かせるように何度も頷く。
「本当だよ!」
 イオリがこちらにちらと視線を寄越してきて、言いたいことはわかっていながらも、気づかないフリをして視線を返してやった。
「なんだ?」
「! あ、えっと……、その、変じゃ、ないですか……?」
「お前……、おれが選んでやったのにそれを訊くのか」
「え、あ、そうじゃなくて……!」
 イオリが"足枷を身につけていながらこんな上等な物を身につけておかしくはないか"、と言葉足らずに訊いてきたというのはわかっている。
 泣きそうな表情で慌てて弁解しようとするので、流石にいじめ過ぎたかと思い慰めるように頭を撫でた。
「冗談だ、わかってる。別に変じゃねェよ。あとは堂々としてりゃあいい」
「う、はい……」
 ぎゅ、と自分の胸の前で不安そうに両手を握り合わせるイオリ。これはまだまだ改善に時間がかかりそうだ。
「あァ、それはやるよ」
「え?」
 呆けた表情をして聞き直すイオリに、言葉が足りなかったかと付け足す。
「そのペンダントとブレスレットだ。また島に降りる時にでも着ければいい」
「で、でも……」
「どうせ他の海賊から奪ったもんだ。別に今は搾り出さなきゃならねェほど金に困っちゃいねェしな」
「うんうん、似合ってるからイオリが持ってた方がいいよ!」
 イオリは少しだけ戸惑った様子を見せたが、照れくさそうに頬を染めて笑う。
「……ありがとう、ございます」
「あァ」
 くしゃりと髪を撫でてやると、ベポが"せっかく整えたのに"と頬を膨らませたので、ほどほどに手を離した。
 イオリがすっと扉に視線を向ける。何かと思いその視線を追った直後に部屋に響く、ノックの音。人が来たことに気がついたのかと視線を移した理由に納得して、扉の向こうにいる相手に向けてノックの返事をする。
「誰だ?」
「シャチです。宴の準備できたんで呼びに来ましたよ」
「あぁ、開けていい」
「失礼しまーす……って、うお、イオリ!」
 シャチの驚いたような声に、イオリがびくりと身を震わせて、おずおずと視線をシャチに向ける。
 何を言われるのか、と覚悟しながらも必要以上に身構えている様子だったが、シャチはそれに気がつかずまじまじとイオリを見つめた。
「あ、の……?」
「え、ちょ、船長、どうしたんすかこれ……!」
「ベポがやたら着飾らせたがるんでな。こうなった」
「へぇ……! イオリ、良かったじゃん! すっげェかわいい!」
 イオリはシャチの言葉を聞くと面食らったような顔をして、それから次第に赤くなった顔を両手で覆ってしまった。
「え? イオリ? あれ、なんかまずいこと言った……?」
「いや……嬉しいやら恥ずかしいやら、だろ」
 動揺するシャチに対する苦笑しながらのおれの言葉に、イオリは顔を隠したままこくこくと頷く。
 シャチはそれを見て苦笑し、イオリの正面にしゃがんで俯く顔を見上げる形になって、顔を隠す手を半ば強引に外させた。
「あー、なら良かった。ほら、それ皆にもお披露目すんぞ!」
「あ、う……」
「シャチ、ベポ。連れていけ」
「アイアイ、キャプテン!」
 乗り気な一人と一匹に任せ、おれも傍に立てかけてあった太刀を担ぎ後を追う。
 必要以上に甘やかしてしまうのは、果たして本当にイオリを囲い込んでおきたいからというだけなのか、それとも。
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