ちかなり | ナノ



人間は学習する動物だが同時に忘れる動物であることを、忘れてはならない。いくら日常茶飯の事柄であっても数週間、いや数日でも別環境に放り出され日常そのものを破壊し略奪されてしまえばそれは簡単に狂い朽ち果て腐敗する。記憶の混濁に巻き込まれたそれを引き出すのはもちろんたやすい。忘れるとはいえども一度はこの身に染みついた行為だ、完全なる消失は余程のことでもないとあり得ない。だが、だからこそ、その習慣を忘れてしまっていたという事実を認識する瞬間が恐ろしい。いかに自分の行動が曖昧で疎かで薄っぺらなものであるかに気付く。いかに自分が希薄な存在であるかに気付く。

声の出し方を忘れた。連日窓から見える曇天に何とは無しに独りごちようとしたら声が出ない。そうだ。人と喋らなくなって幾日が経つのだろう。あれとは会話をしない。いつからか途絶えた。あれが話しかけてこなくなったから、自分も何も喋らない。あれはただ、閉じ込められた自分のために半ば機械的に食事を運び衣類を替え身の回りの世話をしていく。あれは自分に話しかけないし触れない。かといって存在を完全に無視されているわけでもなく、その証拠に、部屋に入るとあれは必ず数秒自分に視線を向けた。ある時は流すように軽く。ある時は舐めまわすようにじっとりと。特に不快ではなかったがかといって愉快でもなかった。あれの瞳は読み取れない。思考の伝わらない眸で見つめられる瞬間に思い浮かぶは一種の恐怖。いや、あるいは。

だから、あれが自分の頬に触れた時は無様にびくりと躰を跳ね上げた。

とろとろと眠りに付きかけていた意識が瞬時に覚醒し、飛び起きる。窓に視線を流せば夜はまだ深い。そんな時分にあれが室内に入ってくること自体珍しい。寝台の端に、あれは静かに腰かけていた。こちらを見据える眸に視線を捕えられる。暗闇の中、ただ無言で視線を交わす。距離はほとんど無い。軽く手を伸ばせば互いの首を絞められるくらいの。あれの指先の熱が頬に残っている。それを自覚し思わず視線を断ち切ると同時に、再びその指先が頬を撫ぜた。先ず右手中指の腹が触れる。続いて残りの三指。顎までの輪郭を緩慢になぞり、唇に親指が触れる。今度はゆるく握った指の背で左頬を撫で上げ。そのまま頬を往復し、手の甲が首筋をなぞり。鎖骨を辿り始めた指先に思わず、吐息。あれの視線を感じるが自分の目は伏せたまま。今は、いやだ。今目を合わせてしまえばなにかどうしようもないことが起こってしまいそうだった。ふわりと夜の空気が動く。

「あ、」

鎖骨に落とされた唇の。
あまりの甘美さに忘れていた音を微かに漏らす。
瞬間、忘失を自覚する。絶望。喉元に突きつけられた己の希薄性。記憶で形成されるこの躰を手放す。等しく愛した過去すら手放す。

「あ、あ、あぁ、」


かいなに堕とした躯を緩く抱きしめられる。胸元からふと見上げた。意思の見えないそれの片眸に、劣情の深みがぎらりと宿る。




 


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