ちかなり | ナノ



やられた。

傾ぐ視界。
気付いた時には、もう遅い。

「っ、」

縁側に崩れ落ちる。持っていた湯飲みがごとりと落ちる。膝を濡らす冷茶。倒れる身体が咄嗟に肘をつく。力が入らない。くらくらと緩く視界が歪む。
とんだ失態だ。金木犀に紛れて気付かなかった。これは。この香りは。

「無様な」

嘲笑。鈍る視界を必死にそちらに移せば、夕暮れの残光を髪に散らし口元を綺麗に歪めた男が一人。先刻までは憮然としていたその表情が微かに愉悦に染まっている。
男の傍らで同じく残光を燈すのは翡翠の香炉。そこから燻る細い白煙をかろうじて目の端で捕らえ、眉を寄せる。
ああ、やられた。

「ハ、悪趣味にも、程度があるぜ」

この香りは。

「さて」

男の笑みがニタリと夕闇に拡散する。庭の植木が紫に染まり始めた。夜が近い。先刻零した冷茶がじわりと着流しを伝い肌を濡らす。気持ち悪い。気持ちが悪い。ぞくぞくと悪寒が背筋を撫ぜる。
悪寒?いや、そうじゃない。けれども身体がそれに気づいてしまえばこの男の思う壺だ。両肘をつき、ずる、と重たい躯を引きずる。早く、少しでもいい、早くここから逃げてしまいたい。

「っ…」

首元に男の指先。
冷茶に浸した人差し指。
熱を持ち始めたこの身は温度差に堪えられず僅かだが跳ね上がる。
熱い。この香りは、この香りは。ぐらぐらと歪む視界でギリと睨むが効果はない。男の顔には欝陶しいくらいに傲慢な笑みが張り付いていた。夜が夕暮れをじわりじわりと飲み込む。もはや地平の端に、僅かな赤が細い糸を描くのみ。鎖骨を辿り始める指を引き剥がそうと持ち上げた左手は、ぱしりと叩き落とされた。

「…お前…、なぁ…」

熱い。絞るように吐き出した言葉は自分でもぞっとするくらいに熱を帯びていて、これでは、まるで。男は仰向けに尻をつく身体に被さり、先刻叩き落とした左手を取り上げ、舐める。ゆっくりと、熱の灯る舌で。
その瞬間脳髄を走ったのは紛れもない快楽。駄目だ、知覚してはだめだ。指の間を丹念に這いまわる湿った熱。知覚してはだめだ、思う壺だ。けれども甘やかな震えは背筋を通し、腰の奥に重く響く。

「長曾我部」

愉悦に染まる眼光が、綺麗に歪めた口元が、そこから覗く真っ赤な舌が、はっきりと欲情を魅せつける。
その全てにどうしようもなく疼くのはこの躰。庭の精影はとうの昔に黒に染まった。宵が深まる。視界が歪む。思わず掴んだ胸元。喉元に引き寄せた吐息のなんと淫靡なこと。

今だ僅かに残る白煙の、香りのなんと甘いこと。











 


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -