腕時計

 僕の左手に付けている時計は、今年の春にオジさんから貰った物だ。
 レトロなデザインの金色の文字盤は、数字が大きめに書かれていて、近眼の僕でも読みやすい。その文字番を挟んだ牛革の黒いベルトは、よく鞣(なめ)されていて、しっとりと肌に馴染んだ。
 まるで昔から僕の物であったみたいなその時計を、時々ぼんやりと眺めては、オジさんのことを思い出していた。


  ***


 オジさんは、車通りの多い交差点の、横断歩行の横に立っていた。その場所は数日前に交通事故があったので、オジさんの足元には花束やペットボトルが供えられていた。
 あの時、僕は横断歩道の信号待ちをしていて、なんとなくオジさんのことを横目で観察した。オジさんは縦横ともに幅がある体格の良い人で、Tシャツから伸びた腕は僕の足の太さくらいあった。彫りと皺の深い日焼けした顔に、もみあげから顎の先まで白髪交じりの髭が生えていた。岩のような手の中に腕時計があって、オジさんは瞬きもせずにずっとそれを見ていた。きっと、息子さんのなんだ、と僕は直感で思った。時計のベルトははオジさんの手に巻くには細すぎるし、短そうだったから。

「息子さんの、ですか?」

 オジさんはゆっくりと首を回して、僕を睨んだ。まるで不躾な質問をされた仁王像のように。その恐ろしい顔に、僕は声をかけたことを後悔して首を竦めた。しかし数秒間だけ険しく睨んだ後、オジさんはふっと表情を和らげ、落ち着いた低い声で話し始めた。

「そうだ。息子はごく普通の、特長らしいものもない、平凡な大学生だ。サラリーマンよりも規則正しい生活をして、専業主婦かと思うくらい部屋の中も食生活もしっかりしている。自分が学生だった頃を振り返っても、あんなまともな奴は一人もいなかった」

 オジさんは話しながら、胸ポケットの煙草を取り出し、口に一本挟んで火を点けた。

「そういう風に育ったのは、俺のせいだったんだがな。あいつの母親を早くに亡くしてから、後妻を取らずにあいつに家事を任せていた。俺は長距離トラックを転がしているから、家内以上の女を見つける機会も、あいつに構ってやる暇も無かった」

 白くなった灰が、煙草の先からほろりと落ちた。灰は風に吹かれて、コンクリートに落ちる前に消えた。

「この時計はあいつが成人した時に、俺があげた物だった。いつも生活費を渡すだけで、ろくな物を買ってやれなかったからな。誕生日から一週間後になっちまったが、初めてまともに買ったプレゼントだ」

 オジさんは淋しそうに笑うと、腕時計を握り締めた。

「でも、もう必要なかったのかもしれない。20年間、何もしてやってなかったんだから、今更だと思っていたんだろうよ。あいつはこの時計だけ置いて、手も合わさずいなくなったんだから」
「じゃあ、僕に下さい」

 また自分でも驚くような言葉が、口から飛び出た。僕もオジさんも呆気にとられた顔で、互いを見つめ合った。

「僕が息子さんの代わりに、その時計を大切に使います」

 僕は左手をオジさんに差し出した。オジさんは困ったような怒ったような顔で、僕の手を睨んだ。でも、オジさんは持っていた時計を、僕の手の中に置いた。

「あんたは俺に話し掛けてくれたからな。それに、俺の心の楔にも気付いてくれた」

 時計を手放したオジさんは、安らかな顔で微笑んだ。

「そいつには俺の気持ちが篭ってる。大切な物なんだ。あんたに、じゃないが、大事に使ってもらえると、二十年間の罪が償える気がする」
「大事に使うよ」

 僕は、自分は本当にオジさんの息子になった気がした。
 時計は無機質な触感をしていたけど、オジさんの温もりが、それから伝わってきたからだ。

「ありがとう、親父」
「親父か……いい言葉だ。あいつからは、オジさんとしか呼ばれなかったからな…」

 オジさんは煙草を地面に落として、靴で火を消した。
 煙が消えた頃には、オジさんの姿も消えていた。
 僕は左手に時計を巻いて、花束の前で手を合わせた。

「ご苦労様」

 僕の後ろに、突然人が現れた。
 立ち上がって振り返ると、そこには黒いスーツとサングラスを身につけた、前髪の長い男が立っていた。彼は黒い台帳に何か書き込み終わると、閉じて脇に挟んだ。

「四十九日ギリギリだったわね」

 話し方が女臭い男は、前髪をかきあげて、僕に微笑んだ。けど僕は、この男から背を向けて、青になった横断歩道を渡った。

「あら、今日もつれないわね。せっかく仕事上がりのお茶にでも、誘おうと思ってたのに」

 誰があんたみたいな怪しい格好をしたオカマと一緒に歩くか!と心の中で毒づき、早く離れようとした。だが反対側の歩道にたどり着くと、男は僕の目の前に悠然と立って、待ち構えていた。

「また仕事が入ったら、連絡する」

 事務的な温度の無い言葉に、僕は少し気を抜いて返事をした。

「わかりました」
「じゃあ、またねーん」

 しかし別れ際の投げキッスに、一瞬で黒い感情が溢れた。
 どうせ殺しても死なないんだから、一回くらい僕が殺しても罰は当たらないだろう。


  ***


 僕の仕事は、自縛霊になりそうなヒトを、助けること。
 僕は幼い時から普通の人には見えない、死んだヒトを見る能力を持っていた。
 十六歳になった時、その能力をヒトの役に立てませんか?と、あの男に交通死亡事故現場でスカウトされた。
 男は真面目で紳士的な口調をしていたから、僕は自分がヒトの役に立てるならと、スカウトに乗った。

 あれからもうすぐ二年になる。仕事は数ヶ月に一回くらい。今まで助けたヒトは15人。
 それが多いのか少ないのかわからないけど、社員であるあの男は月に百人以上助けているらしい。僕はそれを、羨ましいと思っていた。

「じゃあ、後ろから回収してください」

 教壇の先生の声に、僕はハッとして時計を見る。もう授業が終わる時間だった。僕は慌てて、ボールペンを手に持った。
 白紙の進路調査票に、僕は第一第二と自分の成績に見合った大学の名前を書いて、第三に『ヒトを助ける仕事』と書いた。



【おわり】



(2004/5/28)
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