紅梅の谷の白一点
紅梅が咲き乱れる谷をご存じだろうか。
もし聞いたことがなければ、少しお付き合いいただきたい。
詳しい場所は言えないが、村の人なら誰でも知っている有名な谷で、紅梅が舞い落ちる頃にはその谷を流れる川が花びらで紅く染まるらしい。
私はその村で唯一の旅館を経営している女将から、その話を聞いた。
あまり外の人には話さないのですが。谷が荒らされると困るので。
しかし、話好きの女将は、私の杯に熱燗を注ぎながら、谷の場所を教えてくれた。
翌朝、私は日の出と共に起きると支度をして、紅梅の谷へ向かった。
旅の目的がそれでは無かったが、最後に美しい景色を見るのもいいなと思ったからだ。
砂利の坂道を登り、山の中へと進んでいく。獣道よりは整備された山道を二十分ほど上り、三叉路に辿り着く。女将は、右の道へ進めと言っていたはずなので、その通りに進む。
今度は下り坂。山道の両脇が、少しずつ紅く明るくなっていく。
やがて道は平坦になり、その先に満開の紅梅が咲き乱れているのが見えた。
谷に風が吹くと、ざあっと音を立てながら紅梅は揺れ、花びらを落としていく。
桜も綺麗だが、梅の紅い花びらは、私の今の情緒に合っている。
ここでもし死ねるなら、きっと美しく散れるだろう。
私は上着から、白い紙に包んだ薬を取り出した。
これは最後の薬。これを飲み続けなければ私は死んでしまうのだが、これ以上の薬を持ってきてはいない。
心臓を患った私が、この谷に来られるのはあと一回だろうか。
それとも今、このまま。
「お客さん」
突然、背後から声を掛けられた。
振り返ると、白い和服姿の女将と、鋤や鍬を持った村の人と思われる男が数人立っていた。
「お客さん、ここで死ぬつもりでしょう。言わなくてもいいのです。私にはわかるんですよ。この時期に、うちの旅館に来るお客さんは、だいたいそういう人なんです。この谷の紅梅に呼び寄せられて、来てしまうんですよ」
女将はそういうと、するすると着物の帯を外し出した。
はらりと布を地面に落とすと、真っ白な体を私に向ける。
「いいんですよ、お客さん。死んでも。ここ紅梅たちは誰かの血を吸って、こうも紅く色付いているんですから。私はあなたの死を止めに来たわけではないんです。ただ、ちゃんと極楽浄土へ行けるように、導くお手伝いがしたいんですよ」
一糸まとわぬ女将が、私に絡みつく。
村の男たちは一様に背を向け、その行為を見ない体(てい)を示した。
「極楽浄土なんて、あるんですかね」
「さあ。私は行ったことがありませんから。でも、みなさんとても満足したように旅立たれましたよ」
紅梅の谷の、白一点。
女将の艶やかな肌に、やせ細った指を滑らせる。
柔らかな肉を溺れるように抱きながら、私は自分の高なる鼓動で心臓が動いていることを、上気する熱で体温があることを思い出す。
生とは、こういうものであったのだ。
行為を終えた後、女将が乱れた髪を直して着物を身に着けている間に、私は川に入って体を洗おうとした。
その時に、川底の藻に足を滑らせてしまい、私はそのまま川に落ちて流されてしまった。
木から落ちた紅梅と共に、流される私の身体。
想像していたものと違ったが、梅の花に囲まれるこれは花葬になるのだろうか。それとも水葬になるのだろうか。
そんなことを考えている間に、意識を失った。
目を覚ますと、私がよく見慣れた真っ白な病室の天井が見えた。
近くにいた看護師が、私の意識が覚醒したことに気付き、すぐに医師を呼びに行く。
「ご気分はどうですか?」
「悪くないですね」
「ご自分がどういう目に遭われたか、記憶にありますか?」
「紅梅を見て、川で足を滑らせて落ちたところは覚えています」
「あなたは裸だったことは?」
「さあ。覚えていません」
それからいくつかの質問に答えが、私は医師に、紅梅の谷での出来事はしなかった。
誰かの血を吸って、桜よりも紅く染まった梅たちのこと。
梅たちのために、私のような死の臭いを纏った旅人を谷に埋めてきたのであろう村人たちのこと。
私があの場所で見たこと感じたことは、潔白な秘部として、私の心の中に留めておこうと思ったのだ。
ただ、もしかすると私のような人間が、同じようにあの紅梅に呼ばれて谷に行くことが来年以降もあるだろうと思って、この手記を残しておく。私と同じあなたの目に付くといいのだが。
【おわり】
**365日のお題〜二月/11.梅**
(2014.3.5)即興小説トレーニングの『潔白な秘部』というお題も追加して。
あ、要素の『織田信長』をすっかり忘れてました。じゃあ、この男の人がそういう名前だったということで・・・すみません!