白い手
白い手が赤い盃を口へと運ぶのを幸村は見ていた。ひとつの出来上がった舞いのように白い手が、すうっと空を切る。盃を口に運ぶと、また膝の上へと手が動く。
幸村は、その一連の動作をじっと見つめていた。
視線に気付くと謙信は、何か、と訊ねるように視線を投げる。
「い、いえ…」
幸村は口篭った。
謙信の手は、また盃を傾けた。まるで水のように消えていく酒。
その香りが部屋に充満していく。
幸村は香りにくらくらと眩暈を覚えた。
「どうだ、上杉は慣れたか?」
兼続が和やかに聞いてきた。
その言葉に、あの白い手を思い出した。
顔から、さぁっ、と血の気が引いていく。
「私はあの方が怖いのです…」
正しくはあの手がだった。何故、こんなにも恐怖を覚えるのか、解らないでいた。
あの手が何か大切なものを奪うのでないかと、どうしてかそんな気がするのだ。
何かとても大切なものを。
「謙信公かい?あの方は素晴らしい方だよ」
怖いことなどないと言う兼続の顔は紅潮し、薄紅色に染まっている。
やや興奮気味に言う兼続をぼんやりと見つめた。
兼続の言葉は何でも受け入れて、教訓としてきた。だが、謙信の事を話す兼続の言葉は聞きたくなかった。
その気持ちを知らず、兼続は謙信のことを話す。
幸村は、そっと耳を塞ぎたくなった。
二人は別れ、成長した後に再び出会った。
二人は惹かれ合い、そして愛し合った。
兼続が、ふふっ、と笑い首に腕を絡めてきた。
肌が撫ぜる度に、まるで温かな絹で撫ぜられている感触に陥る。
甘い囁きが聞こえるだけで、興奮した。兼続との交合は、幸村に新たな感情を芽生えさせた。だが、それはひとえに良いことばかりではなかった。
幸村は上杉で宵を過ごすことが増えた。
しかし、幸村は眠れないでいた。兼続とこういう関係になってから、幸村は一度も宵に眠れていない。
「どうした…眠れないのか?」
兼続が夜中に目を覚ますと、隣で横になっていた筈の幸村が起きていた。闇を睨むように見ている。
睨むのを止めると、幸村は兼続に向けて微笑した。
「あなたとの大切な時間を、眠らせて終わるなんて勿体無いだけです。いつまでもあなたを見ていたい…」
そう言った。
兼続は、幸村をぎゅうっと抱き締めた。
可愛いやつめ、と微笑を落とす。
本当は違っていた。
あの白い手が闇から兼続を迎えに来るのではないかと不安だったのだ。迎えに来れば、きっと兼続はその手をとってしまう。
それがたまらなく不安なのだ。
兼続を誰にも渡したくなかった。己のものだけにしたかった。
その感情が束縛というものだとは、幸村は知らない。
兼続に訊ねたことはなかった。今も尚、謙信を想っているのかとは聞けなかった。
だが、時折、兼続は庭を見つめる。
そんな哀愁漂う兼続の顔を見て、幸村はいつも思う。
(謙信公と見た景色なのですね)
そして、その顔からそっと目を逸らすのだ。
今も忘れられない、あの手の白さ。兼続はあの手が迎えに来るのを待っている。
(この世に既に居ない相手にすら勝つことが出来ないなんて…)
幸村はしっかりと塞がれた障子を睨んだ。
月ひとつないため、今宵は暗い。
一寸先は闇。そちらを見ると、苦笑した。
終