流
慶次は一人、川辺に居た。
空には彩る欠けた月。それに呼ばれた気がしたのだ。
さらさらと流れる川を見ながら、酒を呷る。
何が己の身に起きるのだろうかと考えた。ざわつかない心を考えると、大したことは起きないかもなと思った。
命に関わることなどになると、嵐の最中のように心ざわめくのだが、今は水面に波紋一つない静かなものだった。
どれくらいの刻が経ったのだろうか。
背後に人の気配がした。
何か面白いことだと良いのだがと、慶次は振り返る。
其処には黒川城に居るはずの伊達政宗が立っていた。
周りを見渡しても、供は居ない。政宗は一人、酒の入った徳利を持って、身一つで此処に来た。
「小十郎殿はどうされた?」
流石の慶次も呆気にとられた。
伊達の頭首が一人、城を抜け出し現れて良い場所ではない。
「さて…今頃は寝ておるのではないか?」
「はっ!?」
政宗の言葉に慶次は素っ頓狂な声を出した。
それをふっと笑うと、慶次の横に座った。徳利から直接、酒をぐびぐびと口に運んでいく。
聞けば、一人で月を見たいと云うのを頑なに拒むので、殴り黙らせたとのこと。当たり前だろうと慶次は呆れた。
「今宵はどうしても此処へ来なければならないと思った」
徳利を口から離し、手の甲で口を拭った。
そして、川へと目を向ける。悲しげな目だった。
「月が儂を呼ぶのだ」
政宗は又、酒を呑んだ。
慶次と同じだった。
月がまるで二人を引き合わせるために、そうしたのではないかと思った。
「一つ、問いたい」
ぽつりと政宗が零した。
何だ?と慶次が訊ねれば、心忘れられない相手が居る。思えば胸が痛くなる。この感情はなんだろうかと恥じることなく云う。
慶次は茶化してやろうと政宗の顔を見た。酷く悲しい顔に、そんな事が出来なくなった。
「その相手に惚れているのだろう」
そうとだけ云うと、酒を呑んだ。
「そうか…これが…」
政宗は己の左頬を撫でる。
「……儂は、人の愛し方を知らない」
愛してくれる筈の母親からは疎まれ、殺されかけた。
唯一、愛してくれた父親は自らの手で殺した。
寄って来るものは常に疑い、裏切るものは殺し生きてきた。
そんな政宗が人の愛し方を知らないのも、仕方がないことだった。
「簡単なことではないか。まずは相手に惚れたと伝えれば良い」
政宗は首を振った。
慶次はそれだけで、耐え忍ばなければならない恋なのかと悟った。
そんなにも惚れてはならぬ相手なのかと問おうとして、慶次は口を開いた。
だが、言葉が出なかった。
政宗の頬を撫でる仕草に相手が判ったからだ。
政宗は柔らかな微笑を浮かべた。
浮かんでいるのは微笑だが、痛いくらいの悲しみが慶次を襲った。
抱いている感情には続きがない。
敵になるかも知れない相手に惚れたなど、誰にも知られてはならなかった。
伊達を背負うというのはそれほどまでに大きく、険しいもの。
想いは封じなければならない。
政宗は立ち上がると、川へと歩みを進めた。
濡れるのも躊躇わず、冷たい川へと入っていく。
幾らか進んだとこで、足を止めた。
髪を結わいていた紐をしゅるっと解くと、川へと投げた。
紐は流れに流れ、やがて消えていった。
「儂もあのように流れていければ良いのにな…」
言葉が突き刺さる。
生まれたときから、定めが決められた男の悲痛な叫びのようにも聞こえた。
慶次に惚れてしまった今の政宗には、伊達の名はあまりにも重かった。
「今宵、俺はただの男になろう」
慶次はそう口にした。
政宗は振り返らずに、その言葉を聞いた。
「お主も今宵に限り、名を棄てれば良い」
生まれた感情をただ殺すのは、切ないではないかと慶次は云う。
水面を見ていた政宗が慶次の方へと振り返る。
強い風が吹いた。
政宗の長い髪が煽がれ、空を泳ぐ。
靡く髪は月に照らされ、川の水面と共に金色に輝く。
綺麗だと思った。
その髪も、政宗自身も、僅かに濡れた瞳も。
政宗は僅かに頷いた。
確かに、この感情をただ終わらせてしまうのは切ない気がした。
政宗はゆっくりと唇を動かす。
その言葉が慶次の耳に届いたのと同時に、立ち上がると誘われるように川へと入った。
強く政宗を抱き締める。
残された刻は夜が明けるほんの僅か。
最初で最後。心が解け合えぬなら、せめて体だけでも。
慶次とのまぐわいは熱く、蕩けてしまいそうだった。
喜びに、憂いに涙を流すことすら出来ないほど、激しく政宗は抱かれた。
朝日が輝く頃には政宗の姿はなくなっていた。
当たり前ではあったが、やはり心痛かった。
慶次は政宗が流した紐が消えた方向へと向かって歩いてみた。
さらさらと流れる音が歌のように聞こえてくる。酷く悲しい歌だなと思う。
いくらか歩いたとこで、赤いものを見つけた。
石に引っかかっていた政宗の紐だった。
それを拾う。
川の水に濡れたそれから雫が垂れた。
ぽたぽたと垂れる雫は、昨晩流せなかった政宗の涙のようで、慶次の胸が酷く痛んだ。
終