ある日、部屋へと戻ると、年六、七ほどの子が正座し、謙信を待っていた。

「汝は?」

訊ねれば、子は深々と謙信に頭を下げた。
慣れた礼の仕方。年のわりに姿勢が良い。

「与六、と申します」

頭を上げると、謙信の眸を見つめた。
その輝く眸に謙信は何かを感じ取った。
己の顎を撫でる。その感情にぴたりと来る言葉を探すが見付からない。

「御前が本日より、公の側にと仰いまして、此方へと参りました」
「姉上が…」

謙信が小姓はつけないと言ったにも関わらず、綾は与六に謙信の側へと就かせた。
謙信は、与六の眸の強さに綾も何か感じた部分もあったのだろうと思った。

与六は、一教えれば十を知り、器用も良い。そして、素直であった。
謙信の言葉をしっかりと受け止め、心に刻んでいく姿は見ていて心地良いもの。

何よりも謙信が惹かれた部分があった。
ある時、与六は突然、墨をすり始めた。
謙信はそれを見つめた。
何も言葉を言っていない。だが、謙信は与六に墨をすらせるつもりでいた。

「違いましたか…?」

己が行動を見つめる謙信に与六は訊ねた。

「何故、墨をすり始めた」
「謙信公が書より、文机へと眼を移したからです」

そう、謙信は思うことがあり、それを書き残そうとしていた。
与六は謙信の行動をよく見ていた。しかも、ただ見ているだけではなく謙信が望んだことを先だってする。
然程、共に居るわけではない。だが、与六は謙信が言葉発せずとも汲んだ。それは行動だけではなく、意向までもだ。
謙信は与六が何処まで己についてこれるかに興味を持った。
軍略、知謀、そして志についてまで与六に伝えた。与六は水の上に置いた布のようにそれを吸収し、己が心とした。
清き心は、また与六の姿へとも反映し、成長するほど美しくなっていった。



ある時を境に謙信の心には、今までに感じたことがない気持ちが湧き上がり始めていた。
それは与六と居ると、特にそう感じる。
軍神としては不要なものかも知れない。だが、謙信はその感情を大切にしたいと感じた。



「謙信が与六に名を?」
「…はい」

軒猿からの報告に綾は驚いた。
それもそのはず、謙信が与六に元服した後の名をつけてやったというのだ。偏諱…謙信の名を一字与えたのかと問えば、そうではないらしい。だが、名の一部を謙信は与六に与えた。

「そうですか…」

綾は息を吐くように言葉を告げた。

謙信の部屋に行けば、膝の上に与六が座っていた。綾に気付くと退こうとした与六の腹を謙信は抱き締め抑えた。

「謙信、その子が…」

言葉の続きは言わなかったが、謙信には解ったようであった。
謙信が僅かに口角を上げた。笑ったのだ。謙信が。

「御前!」

与六が綾の顔を見、するりと謙信の腕から抜けると綾に駆け寄った。

「どうしたのですか?何処か痛いのですか?」

綾は泣いていたのだ。
駆け寄ってきた与六を綾は強く抱き締め、あぁと言葉を漏らした。

「御前、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ……与六…」
「はい」

綾は兼続の耳元でこそっと話をした。

「謙信は好き?」

与六はくすぐったそうに身を捻らせた後に、失礼しますと綾の耳元で話した。

「はい…好きです。母よりも父よりも…好きです」

顔を見ると、与六ははにかんだ。
そして、言葉を続ける。

「同じように御前も好きですよ」
「この子は…」

微笑すると、謙信を見つめた。
二人の姿を慈しむ優しい眼で見ている謙信の姿があった。



謙信と綾、二人は外で与六が蝶と戯れているのを見つめている。

「不思議な子ね…」

綾はそうぽつりと話した。
丁度、与六の年は綾が謙信と離れた年でもあった。
綾はあの時、謙信と離れたのを今まで悔いていた。だが、与六一人のお陰でその悔いもまるで嘘のようになくなりつつある。

「流石、姉上が見込んだ子なだけあります」

謙信は与六から目を離さずにそう告げた。
ふふふ、と綾は笑う。
綾が最初に出逢ったときに感じた直感は間違っていなかった。

「あの子はきっと、この上杉を守る役目に生まれし定め…」

それならば、しっかりと私たちが担っていかなければと綾は言った。

「あなたは己が運命…」

一度、綾は言葉を切った。まるで躊躇っているかのようだった。

「悔いていますか?」

すっと、謙信を見つめた。
過去のことを話しているのだろう。

「いいえ」

謙信ははっきりとそう告げた。
そして薄く笑う。

(そう笑えるようになったのも、この子のおかげなのですね…)

綾はその笑みを見て思った。
与六に目を移すと、綾は微笑し、頷いた。









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後記

捏造にも程がある、謙信公の過去で謙与でした。
そんな関係が希望なのです。

あと、補足ではありますが、本文では謙信公を謙信公のままにしてあります。
それは日記にも書きましたが、ややこしくなってしまうのと、何よりも私が御前が「謙信」と優しく呼ぶのが好きだからです。
ご了承ください。
少し長いものではありましたが、読んでくださりましてありがとうございます。







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