謙信はあまり部屋より出なかった。
伝えることがあれば紙に書いて、部屋の前に置く。
それを綾が家臣に伝えた。

「謙信の字…」

穏やかで優しさのある素朴な字の書かれた紙に綾は鼻を近付けると、すうっと息を吸った。
墨の香りがする。
それに心地よさを感じた。



共に居て綾は、謙信が言葉に傷付けられたのではないだろうかと、だからこそ、人と話すのをやめたのではないかと気付いた。
しかし、言葉はそれだけではない。
綾は思った心を、特に称える言葉をよく口にするようになった。



綾は謙信の部屋へと入った。
畳の上には何枚もの紙が並べられていた。その一枚を綾は拾う。
それは思いつくままに書き並べられた字。
主に軍略について書かれているものが多かった。

綾は数日前、初陣を思えたばかりであった。
初陣とは思えぬ冷静沈着な戦略指揮をしていたと聞いていた。
紙を撫でながら、綾はふふふ、と、声に出して笑った。
そして、謙信を見つめる。
軍略について筆を走らせていた謙信。その眸は何処か歓喜を帯びているように思えたからだ。

「謙信はまるで、軍神となるべくして生まれた子ようですね」

またふふふ、と、綾は笑う。
それを聞いた謙信は、書いていた手を止め、筆を置いた。綾の方へと向く。

「姉上…」

声が綾を呼んだ。あの経を唱えていた、神との会話のみを求めていた声がだ。
それにふるっと身体が震えた。

「今、上杉は人と人の繋がり…纏まりがない。このままでは、均衡を失い、内戦が起こり上杉は滅びる…」

綾も同じことを考えていた。今の上杉を纏める支えが必要だと。
実際、兄に上杉を統べる力はなく、謀叛が何度も起こっている。

綾はこくりと頷いた。

「兄上ではなく、謙信が上杉を継ぐこととなるでしょう。その時、今の上杉を統べるには、謙信はどうしたらいいでしょうか…姉上」

きっと謙信には謙信の考えがあっただろう。だが、謙信は敢えて綾に訊ねた。

綾はふぅと息を吐いた。まるで周りが風が吹いたように冷たくなる。

「神になりなさい、謙信…。心身共に神となるのです」
「神に?」
「そう、軍神…毘沙門の神となりなさい。神ならば人もその声に耳を傾けるでしょう。そして、この上杉を貴方が統べるのです。家臣のため、兵のため、民のため…私のために」
「…御意」

謙信には秀でた才能があった。戦での軍略、そして兵の使い方。
家督を継いだ後も、何度も謙信は上杉に勝利を導いた。
それは始め謙信が家督を継いだことに不満を持っていた者ですら、謙信を軍神として拝めるようになるほどに。
拝めた謙信の元に人は集まり従った。綾の言葉通り、謙信は上杉を統べた。

謙信は己の戦で発する力に喜びを感じた。
一度は、不要な者と斬り捨てられそうになった謙信。しかし、戦でならば、己を必要としてもらえる。
謙信はあの時、死ななかった意味を深く知る。あの時より、己には毘沙門天が宿ったのだと感じた。



「姉上、人とはなんでしょうか?」

謙信はあれより綾と語らうことが増えた。
人と接することを拒んできた謙信には足りぬ部分があった。多くが感情、想い。それを補うべく、謙信は綾に問う。

綾は、謙信の手にそっと触れると、己の頬へと導き、触らせた。

「人とは心。私はそう思います、謙信」

あたたかな熱が謙信に伝わる。
それは、あの時感じた血のあたたかさとは違う。

「心…」

言葉にすると、とても深いものとなる。
謙信は綾を見つめた。
綾はにこりと笑うと、己の心の臓の部分に触れた。

「此処にあるもの」

とくとくと流れる血流。生きている証。

「其処に抱くべきものとはなんでしょうか?」
「義」
「義?」
「人が人を大切だと思う心…。人がゆくべき正しい道。それが義」

謙信を見つめると、ふんわりと柔らかな微笑を浮かべた。

「そして、愛を忘れてはいけません」

上杉を、越後を守りたいと思う心はあるだろうが、謙信は人を愛することがないように思えた。
何処か線を引いているように思えるのだ。

謙信は、軍神となると決めた後、ある枷を己に負わせた。その一つに不犯があった。もとより、僧は女犯。還俗したとはいえ、謙信はそれを貫いた。
そうだとしても、この時代、稚児を愛する風がある。
裏切りだけではなく、謀叛、そして身近にある死。綾は一時も気が許せないこの世にあって、深い信頼関係で結ばれた者を謙信の側に置き、心休まる時を持って欲しいと望んでいた。
小小姓と身体も心もすべて許し、女性からも得られない深い絆で結ばれて欲しかった。
だが、謙信はその者すら側に置かなかった。

「家臣や兵、民…この越後を守りたいとは思います。ですが…」

一呼吸置いて、謙信は綾を見つめた。

「謙信が姉上を想う心が愛だとすれば、他の者に同じ感情を抱くことはないでしょう」

謙信の言葉に綾は驚愕した。
女だから解っていたことがあった。謙信が誰を見ていたか。女だから、そういうことには敏感に感じる。
だが、謙信は己に気持ちを告げることはないと思っていた。

「それは、姉弟としての愛の感情ですよ、謙信」

そう言ったものの声が震えていた。
言葉に謙信は目を細めた。



やがて、綾に子が生まれた。喜平次と名がつけられた子はすくすくと成長した。

「喜平次様は謙信公に似ていらっしゃる」

家臣の一人がそう告げた。

「繋累の少ない謙信の甥だから余計にそう感じているのでしょう」

綾はそう返した。

喜平次は無口で物静かであった。そして、謙信の幼少の時に似ていた。
笑うと益々似ている。

綾は喜平次の笑顔を見て、微笑を浮かべた。






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