綾が水を飲むために、謙信の部屋の前を通った時、中から声が聞こえた。
謙信が経を唱えていた。
それはほんの僅か音を出せば消えてしまいそうな小さなものではあったが、謙信は話すことを忘れた訳ではなかった。

声に綾は、そっと耳を傾ける。
声変わりし、聞こえるそれはやはり別人のよう。
しかし、節々に出る言の癖は幼き頃より変わらない。

人と話すことをやめた謙信が経を唱えるという行為は、まるで神とのみ会話を求めているかのようだった。

実際、謙信がこうなってしまったことには理由があった。
非道く人に絶望したからである。
綾が聞いた者は知らなかったのだが、謙信は寺で殺されそうになったことがあったのだ。



幼き子供が、寺の厳しい修行に身を投じるということは容易なことではなかった。
慣れぬ体の限界は疾うに過ぎ、精神的にも謙信を苦しめた。
唯一の支えが姉であった。姉が勧めた道をしっかりと歩もうと謙信は心に決めていたのだ。

姉に会いたかった。己を大切にしてくれたのは姉だけだ。しかし、女人は門より先は踏み入ることが出来ない。
そんな頃、父親がやってきた。疎まれているとばかり思っていた謙信は喜び勇んで父親が待つ部屋へと行った。
父親は笑いながら謙信を迎えてくれた。見たこともない笑みに、謙信も心が解れた。
しかし、次に口から出た言葉は暴力とも言えるもの。
散々吐き捨てた後、隣に居た者に向かい、謙信にも聞こえる声で言う。

「あの者を殺せ」

それだけ言うと父親は寺を去った。
父親は謙信の持つ何か底知れぬものに恐怖を感じていた。このまま謙信が生きていては、何時か己の脅威になるだろうと思い、家臣に謙信の殺害を命じたのだった。

謙信は、深い絶望に襲われた。

その後のことは、謙信すら覚えていない。
気付けば血だらけの畳。そして、握られた赤く染まった刀。目の前には無残な姿となった人だったものが転がっていた。
血のあたたかさが、現実だということを教える。

住職は故意に殺したと思い、謙信を蔵へと閉じ込めた。
そして、この件を目撃した者に誰にも話してはならぬと約束させた。寺でそのような出来事があったと知られては大事になってしまうからだ。

謙信は誤解が解けるまでの三日もの間、暗く寒い蔵で過ごした。

父親は笑っていた。だが、腹では謙信を殺すことを考えていた。
感情とは何か、人とは何か、己の生きる道とは何か。
謙信は考えた。皮肉にも時間ならあった。

(これが人なのか…)

口は虚言を吐き、他の者を傷付ける。何と醜い部なのだろうか。
己が口もあのように他の者と話す内に醜くなるのかと思うと嫌気がした。

人を憎いと思えば、姉である綾の顔が浮かんだ。
全てを憎むことが出来なくなる。
謙信は考えに考えた。一通り考えた後、口から出たのは経だった。
あれほど荒んだ心が収まっていく。
人とは話したくないとは思ったが、その口は経を止めることはしなかった。
謙信は己が求めるのは神なのだと気付く。
謙信が口は、神への教えを求めているのだと。

蔵から出た後、謙信は人と口をきくことも、ましてや感情を面に出すことすらなくなった。







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