兼続は家臣から届いた文を読んでいた。
眉の間に皺が寄る。
それを見ていた慶次は何だと首を傾げた。
読み終え、ぱたりと文を置くと慶次を見やり口を開いた。

「京では、虎になる奇病が流行っていると文が届いた」

慶次がなんだそれはと訊ねるより先に兼続は続ける。

「正しくは虎のように気性が荒くなり、人を襲うようになるらしい」

原因も分からぬその病に特効薬はなく、虎になってしまった人は殺されるしかないらしい。

「慶次は…京に行っていたな」

少し前に慶次はふらりと京に出掛けていた。
特に理由はなかった。ただ、ふらりと出掛け、三日ほどして戻ってきた。

「大丈夫だよ」

ふっと慶次は笑って、兼続の側に寄る。
不安にさせてしまうなら、京など行くべきではなかったなと慶次はそう思いながら兼続を撫でた。



数日後、慶次は消えた。
雲のように、痕跡ひとつ残さず。
直ぐに森の中に虎が出ると噂が流れた。



兼続は甲冑を着込み、1人森の中を歩いていた。
光も差さない、黒い森。
虎が出ると噂の森だ。

一際暗い場所の手前で兼続は立ち止まった。

「慶次、居るのだろう」

兼続が先にそう声をかけると、地を揺るがす叫びが轟いた。
人とは思えぬ声はびりびりと鼓膜を揺する。
すうっと闇から現れた姿は慶次だった。
だが、荒く呼吸を繰り返し、目は血走り真っ赤に染まっていた。爪は鋭く尖り、歯も犬歯に当たる部分が知っているよりも尖って見えた。
成る程、虎だと兼続は思った。慶次の見た目と相成って、まさしく目の前にいるのは虎。
言い得て妙だなと苦笑した。

「慶次…お前を殺しにきたよ」

薄く笑うと、慶次は口元を緩ませた。
僅かにまだ感情は残っているらしい。
そして、吠えた。

兼続は刀を構える。

「毘沙門天の加護を…」

そう呟くと、刃を指先で撫でた。赤い血がひとつの線を作る。

「慶次…」

眸が僅かに揺らいだ。
兼続はすぅと呼吸すると、慶次に向かい駆けた。
慶次の胸を目掛け、横に刀を走らせる。即座に避けたが、慶次の胸の横に赤い筋が走った。
低い唸り声を上げ、爪が飛んできた。それを兼続は後ろに飛び避ける。
装束の端がすぱっと切れた。
刀を再び構える兼続に慶次は飛んだ。歯がぎらりと光る。

あと少しで慶次の歯が兼続を襲おうとするところで、兼続は構えを解いた。刀を地面に突き刺すと、慶次へ両手を広げる。
そして、満面の笑みを浮かべた。

痛みはなかった。
ただ、倒れる感覚と共に視界がぐらりと動く。
首に感じる生暖かい息と、そして己の上に乗っかる慶次の重み。

慶次の歯が兼続の首に食い込んでいた。
血が滴り落ちる。
流れる血の温かさも、やがて感じなくなった。何も感じない。

兼続は慶次の髪を撫でた。

「けい…じ…」

名をそっと呼んだ。
掠れた声は、己のもののはずなのに、そう聞こえなかった。

びくっと慶次の身体が震え、口を離した。

「この病にき、くのは…女人と…まじわりのない男の…ち なんだそうだ」

きちんと声を出せているのかすら分からなくなった。
喉からひゅぅひゅぅと音が出ているのが聞こえる。

「か…ねつ…ぐ」

涙で歪む視界の中、兼続は慶次の目を見つめた。
いつもの慶次と同じ眸をしていた。
正気を取り戻しつつあることを知り、兼続が僅かに目を細めた。溜まった目じりの涙がぽたぽたと垂れた。

兼続は京での病を調べさせた。特効薬が無いと言われていた病には、実は薬になるべきものがあった。
血だ。しかも、女人と交わりの無い男の生き血。

それを知った直後、慶次が居なくなった。兼続は即慶次が病にかかったのだろうと思った。
話によると、血を飲ませても直ぐに戻るわけではなく、時間がかかるらしい。だから、兼続は、刀に己の血を塗り、それで慶次の胸を斬った。
胸…心の臓より多少でも入れば、己の血がそこから巡り、正気に戻るのも早いだろうと。
だが、多少では効果はない。それなりの量を飲ませなくてはならない。初めから慶次に喰い殺されるつもりで挑んだ。兼続を襲うことになれば、血も口に入るだろう。さすれば、慶次の病も治る。

赤く染まった慶次の口元へと目を移し、これで大丈夫だろうと兼続は安堵した。
慶次を撫でたいと思うのに、既に手に力が入らない。
地面に倒れたままの身を慶次が抱き起こした。首から流れる血は止まらず、白い装束を赤く染め上げる。

最後に名を呼んで貰えた。もう後悔はない。

兼続は辛うじて、慶次の手に手を重ねる。
力入らぬ手で、慶次の手を押し、言葉を伝えた。喉から声はもう出せなかった。ごぷっと血が込み上げ、顎から首へと流れた。

(長谷堂での恩を返すことが出来て良かった…)

くっ、くっと手を押し伝える言葉に慶次は兼続の顔を見た。
兼続は、涙で濡れた眸を僅かに揺らした。
兼続は指で押し、言葉を伝えようとするが、それもままならなくなり始めたのか、段々と力が弱くなった。
腕の中の身体も段々と冷たくなっていく。

(慶次、あいして…)

そこまで言うと、兼続の手は動かなくなった。

慶次はふぅふぅと深く呼吸すると、叫んだ。
まだ人の声ではない叫びが森を揺らす。鳥がばさばさと激しい音を立てて飛び去った。

不意に人の気配に気付き、慶次は兼続の身体を強く抱き締めると、そちらを睨んだ。
闇に浮かぶように、白が現れる。慶次も知っている綾だった。
慶次の腕の中の兼続を見ると、手をすっと掲げた。
横から数人の男が現れ、兼続の側に寄った。

「まだ!」
「早くなさい!!」

叫ぶ声に即座に反応した男たちは攫うように兼続を慶次の腕から奪い取った。
慶次がそれを阻止しようとするが、杖の先でそれを制された。

ぎろりと赤い目が綾を射抜く。
震えそうな眼力にも怯みもせず、綾は慶次を見下ろした。

「兼続から貰った命、大切になさい」

杖で慶次の顎を上げさせた。
大分、人としての正気を取り戻したようではあったが、まだ猛る感情を抑えられずにいるようであった。

「オれも つレて、いけ」

低い唸り声が慶次の口から漏れる。
綾はそれを聞くと、ぱんぱんと手を叩いた。

「この者も連れていきなさい」

その言葉と共に慶次の視界は真っ暗になった。



腹の底に響くような声で兼続は眸をあけた。
覚えのある天井。己は生き残ったのだとそれだけで理解した。
左に感じる僅かばかりの熱。兼続はそこに声を掛けた。

「…けいじ…は…」

喉が焼けるようだった。喉はそう熱いのに身体は寒くて仕方ない。
きゅうっと微か、熱に抱き締められたのが解った。

「あなたたちは互いの心配ばかりしていますね」

すうっと白い手が伸び、兼続の頬を撫でた。

「あなたなど、あの者に殺されそうになったというのに」

深い溜息が吐かれた。
綾は布団の中、兼続を抱き締めていた。身体を温めるために。

「私の許可なく、死ぬことは許しませんよ、兼続」
「は、い…」

ひゅっと兼続の喉が鳴った。
首を其方に向けることすら出来ない。ただ、返事だけを返した。

「あの者は無事です。時間はかかるでしょうが、やがて正気に戻るでしょう」

その言葉を聞くなり、兼続は安堵し、意識を失った。
綾は少し身体を起こすと、兼続の胸に頬をあてた。小さな心音がとくとくと聞こえる。

「馬鹿な子…」

綾はつうっと、兼続の胸を撫でると、眸を閉じた。
地下からまた唸りが聞こえた。



それから兼続が目を覚ましたのは三日経った後だった。
己の手を握る、大きな手。
直ぐに慶次だと思った。
やはりそちらを見れば、慶次の姿。
身体を丸めているその姿は、大きいはずなのに小さく見えた。

「……」

慶次は兼続の首を見た。
深く深く後悔しているのだろう。

言葉で大丈夫だと伝えたかったが、声が出なかった。
痛みからだけではなく、元に戻った今の慶次の姿に胸を打たれたからかも知れない。
代わりにきゅうっと強く手を握り返した。

「抱き締めても平気かい?」

慶次が躊躇いながらそう聞く。
こくりと頷くと、縋るように抱きついてきた。
身体が震えていた。

兼続は眸を閉じると、慶次の肩に額を乗せた。
震える背を何度も何度も擦った。

「兼続…兼続…」

そう何度も名を呼ぶ慶次。
まるで愛していると、愛の言葉を囁かれるよりも非道く甘い。
生きていることを確かめるように、大きな太い指が身体を撫でる。
だが、口を吸うことはなかった。

皮膚の感触がまだ、残っているからだろう。
噛み付いた肌の感触が、まだ。

兼続からそこにくちづけた。
最初は軽く。
兼続の身体は慶次を拒まなかった。その唇に怖さは感じない。
殺されかけても、尚愛しい。
再び、口付ける。今度はじっくりと時間を掛けて。
慶次を感じるように、愛しさを込め口付けた。

唇を離すと、兼続はまるで春の風のように軽やかに笑う。
それに慶次は、全て洗い流されたように感じた。

罪の重さに謝ることも憚れる。それほどまでの罪なのにも関わらず、それでも兼続は愛してるよと繰り返した。










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