枯れない花
月夜の照らす綺麗な晩。
助右衛門は寝れずにいた。何週間も前ににあった出来事が脳裏から離れない。
もう月日はそれなりに経ったというのに、先刻の出来事のように思い出す。
空に浮かぶ月が、あの日と同じ月だからだろうか。
怖いまでに美しい月。
それに照らされ輝く水面。
歌うように流れる川。
空に浮かぶ月を映し出す酒の注がれた杯。
横にいた、満足げな友の顔。
右手にはまだ残る、着込みと刀がぶつかる鈍い感触。
心新たに出来た感情。そして、しこり。
加賀藩士と家族のためにとは口にしたが、言葉には本当の真実に足りないものもあった。
友として、それだけは認めてはならなかった。
伝えれば、友としてもいられなくなるのは判っていた。
縁先へと出ると、手に持っていた一冊の書物の間から何かを取り出した。
それは一輪の小さな野菊だった。指先で茎を弄る。
今ではこの菊を見る度、罪悪感が己を襲うようになっていた。
この菊の先に見ていたものは、まつだと思っていた。
しかし、そうではなく見ていたのは、それをくれたまつを見ていた他の人物だった。
幼きころから共に歩んできた漢。
菊は自然のまま、枯らしてしまえば良かったのだが、どうしてもそうすることが出来なかった。
あの頃の己はこのことを判っていたのだろうか。
感情とそれがかけられているのか、今では枯らしてしまいたい感情と、枯らしたくない感情が鬩ぎあっていた。
感情に気付いて、余計に慶次を避けた。
何度か屋敷を訪ねてはくれたが、今は逢いたくなかった。
逢いたくないというのは嘘かも知れない。心から言えば逢いたかった。だが、感情を抑えることは出来ないと感じた。
だから、避けた。
己を照らしていた月が雲に隠れたのか、照らすことをやめた。
月も呆れているのだなと助右衛門は失笑した。
「…衛門…助右衛門!!」
そうではなく、背の高い漢が助右衛門の前に立ちはだかったのだった。
突然、耳に飛び込んできた声に姿に助右衛門は驚き、手に持っていた野菊を落としてしまった。
月に照らされ真っ白に輝く花は、ぽとりと黒い地面へと落ちた。
「け、慶次…」
そればかりではない。
声をかけてきた相手に大袈裟だと思われるくらいに驚いた表情を見せた。
慶次からしてみては、一件があったものの、こんなにも驚く理由はないはずだった。
何時までも避けられているのが嫌だったというのもあったが、今宵の月があの日の月と同じだったので、慶次は助右衛門に逢いに来たのだ。
「落としたぞ」
落ちた菊を拾うと、それを助右衛門に渡す。
一瞬、躊躇う様子を見せたが、助右衛門はそれを受け取った。
指先が僅かに触れる。
受け取った菊を再び、書物の中へと挟むとそれをぱたりと閉じた。
それを見た慶次は訝しげな表情を浮かべる。
どうして本に挟んでおくのだと訊ねようとした。
「枯らしたくないからだ」
慶次の訊きたいことに気付いた助右衛門は部屋にある棚の隙間に書物をしまい込むと、慶次に背を向けたまま、ぽつりとそう言った。
助右衛門の言葉には別の意味がある。勿論、それは慶次には判らない。
助右衛門の言葉を訊き、まつに貰った菊を枯らしたくないから押し花にしたのだと悟った。
まつを愛しく想っているのだと。
「傷が痛む。今宵は帰ってくれないか」
一度も振り向かず、そう言う。
傷は末森城の合戦で出来た傷だろう。それにしても、出来たのはだいぶ前ではないかと慶次は思ったが、それ以上は訊けなかった。
あまりにも、その背が悲しかったからだ。
「そうか、悪かったな」
胸元から小さな丸い容器を取り出すと、縁先へと置いた。
「良い薬だ」
傷口に使えと。
その場から立ち去ろうともしたが、足が一向に動かない。
「恩にきるよ」
そう言い、ほんの僅か此方を見た助右衛門は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「助右衛門!!」
前にあった出来事のことなど忘れていた。
居ても立ってもいられず、すぐさま立ち上がると助右衛門の後ろを追いかけた。
「来ないでくれ!…来ないでくれ、慶次…」
「助右衛門…」
助右衛門の声が濡れていた。
慶次はそれ以上、近付くことが出来なかった。
「どうしたんだ、助右衛門…」
前の件が前の件だったとはいえ、ここまで避けられてしまうと悲しさしかない。
「友ですらいられないのか?」
不意にその言葉が口から落ちた。
「違う!違うんだ!!」
苦しそうに搾り出した声だった。掠れて消えてしまいそうな声は慶次の胸を酷く痛めた。
何が違う?と問いたかったが、慶次は次の言葉を待った。
どれだけ刻が流れたのだろうか。
助右衛門は言葉を発した。
「……俺は慶次が好きなんだ…」
風に掻き消えてしまいそうだった。
助右衛門の瞳から、はらはらと流れる涙が止まらない。
「軽蔑してくれ、この俺を。おまえは俺を友だと思っていたのに、俺は違う目で見ていた」
慶次はそれを言葉を静かに訊いた。
「……っ…うっ…」
それ以上、言葉に出来なくなった。
荒く呼吸を繰り返す。
慶次はきっと、帰るだろう。そして、俺たちの関係は終わるのだろうと助右衛門は思った。
ぎしっと板が鳴る音がし、慶次が動いたことが判った。
音が近くなる。
「莫迦だな、おまえは」
その言葉に助右衛門は瞳を閉じた。目尻に溜まっていた涙が零れ落ちていく。
確かに莫迦だと思った。
こんなことで友誼の関係を終わらせてしまうなんて。
だが、慶次を愛しくて愛しくて仕方ない気持ちはもう隠し通せなかった。
身体が引かれた感覚のち、強い腕に抱かれた感覚があった。
後ろから慶次に抱き締められていた。
速い心臓の鼓動と熱が伝わってくる。
「そういうことは早く言え」
言葉に慶次の顔が見ることが出来ない。
「慶次…」
「莫迦だな…」
優しげな声に再び涙が溢れてきた。
己を抱き締めている腕を掴むと、その腕に涙を零した。
終