足跡
―あなたも生きているのでしたら、幸せになってください。
幸村の声がその言葉を繰り返す。
「幸せになってください…か」
何度も言われた言葉を反芻するが、兼続は己の今の幸せを見つけられないで居た。
見つけられぬまま、時だけが流れ行く。
季節は冬となった。
米沢の冬は深い。雪は一面の銀世界を作る。
全てを覆い隠す白い雪。
何故かそれに安堵を覚えた。
己の非道く醜い感情さえも隠してくれるように思えたからだ。
夜は酒か、慶次に抱かれて終えた。
どちらも思考を鈍らせてくれる。
余計なことを考えずに済む。
慶次には男として惚れては居たが、未だ心にあるのは幸村。
抱かれたくなれば誘い抱かれ、誘われれば断ることもなく抱かれた。
慶次もただ肌を合わせたいから、己を抱くのだと思っていた。
「そろそろ、春も近くなってきた。雪が溶ければ、松風と何処か旅にでも出るのか?」
それとなしに兼続はそう慶次に聞いた。
「いいや、あんたの傍に居るつもりだ。最後までな」
兼続はその言葉におや、と思った。
「春になったら、旅に出ると散ざ言ってたではないか」
戦が終わり、落ち着き、春になったら松風と旅に出る話を慶次は前もって兼続にしていた。
そういう約束で、慶次は景勝に仕官していた。
だが、慶次は旅には出ないと言う。
「気が変わった」
「何か気変わりになったきっかけでもあったのか?」
慶次のことだ、惚れた相手がこの地ででも出来たのだろうと思った。
「あんたが気になって、旅なんてしている余裕もないさ」
「ハハッ…それでは、まるで私に……」
言い掛け、兼続は言葉を止めた。
言っているのだ、兼続を愛していると。慶次の言葉はその意味が含まれていた。
一度、慶次を見た。あまりにも真剣な表情に、兼続はさっと目を逸らした。
「わ、私の想いは…幸村の元だ」
そんなこと言い訳だと思った。
確かに、己と幸村の想いは人の形になりすらした深いものだ。
だが、それは今までのもの。これからの未来の想いはどうなるかは解らない。
正直なところ、怖かったのだ。
己も慶次も、もうそれなりに生きている。残されていかれるのも怖かった。
誰かを愛することすら怖かった。
何よりも幸せになることが一番怖いのかも知れない。
(だから、私は幸せを見つけられずに居るのか…)
兼続は思った。
苦い顔をしていたのか、慶次がわしわしと頭を撫でた。
何も言わない。
ただ、暫く撫で続けた。
兼続は生き難い性格をしていると何度か言われたことがあった。それを今、思い出した。
(慶次のようには生きれぬ…)
慶次もまた、楽には生きてないだろう。
だが、頭よりも本能で生きている分、兼続よりは楽かも知れない。
慶次の撫でる手の熱が気持ち良く、兼続は眸を閉じた。
「慶次の…幸せとは何だ…?」
褥で身体を交じ合わせながら、兼続は慶次にそう訊ねた。
今宵は普段に増して感じる。心まで蕩けてしまいそうなくらい熱い。
「あんたとこうして、交わり」
慶次が兼続の手と手を合わせた。
「あんたの肌に触れ」
頬に頬を摺り寄せる。
「あんたと感じ合うことかな」
ぐっと、身体を突き上げた。
「っ、はっ!!」
兼続は身体を反らせた。
快感が押し寄せる。慶次の手を握る手に力を入れた。
「あんたはね、美しくなったよ。出逢った頃より…悲しいほどに美しくなった」
兼続はあの時とは違っていた。
表情も、性格すらも。
何かを諦めたような生き方をしている兼続。傍で見ていた慶次は辛かった。
幸村を想っていることを知っていた慶次は何もしなかった。想いすら告げず、哀愁で美しくなっていく兼続をただ、傍で見守っていた。
「だけど知ってたかい?絶頂を感じた時の顔は、あの頃から何も変わっていない」
兼続の顔がかぁっと赤く染まった。
思わず、繋いでいた手を離した。
「慶次っ!!」
「ははっ、真実だから仕方ないってもんさ」
にこりとひとつ笑いを落とす。
顔を引き締めると、兼続に言った。
「俺も、幸村が言うように兼続に幸せになってもらいたいだけだ。俺の感情なんてどうでもいい。己の幸せを見つけてくれ」
兼続は手で顔を覆った。
「皆、随分と勝手なことを言ってくれる…」
声が震える。
慶次はまた、黙って撫でた。私は童ではないぞと小さく言っても、それでも撫でてくれた。
幸せを願ってくれる人のためにも兼続は幸せになりたいと思った。
三成も、きっとそれを望んでくれているのだろうと。
怖いという感情はもうなくなっていた。
兼続は慶次と共に、庭先を見ていた。
朝日に輝く、未踏の残雪。きらきらと光って美しかった。
もう安堵することはなく、純粋に美しいと思えた。
(そう言えば、三人で見たな…)
幸村と三成と同じような雪を見た記憶を思い出す。
何の会話をしたかは忘れてしまったが、表情は鮮明に思い出せる。
幸せそうに笑う幸村と三成。
胸に熱が生まれる。
顔が僅かに緩んだ。
草履を履くと、まだ踏まれていない雪に足跡を残した。
一歩、また一歩。
歩むとそれは道になっていった。
振り返り、見つめる。続く道は、まるで今まで歩んできた人生のようだと思った。
(私の歩んできた道は、どうだったのだろうか)
そこは白く、その下にある大地は見えない。
美しいものなのか、それとも醜いものなのか。
「兼続、冷えないかい?」
慶次が同じ道を辿り、兼続の傍に来た。
ひょいと抱き上げると、同じ道を歩む。
三度も踏まれた雪は退かされ、その下の大地を見せた。
其処には、緑の生命の息吹が覗いていた。
雪の下には既に春があった。小さな草や花などがぽつぽつと育っている。
兼続はぎゅうっと慶次の身体を抱き締めた。
「どうした、兼続?寒いか?」
「…慶次」
「うん?」
ひとつ、小さく呼吸を吐いて、言葉を続けた。
「今までの想いは幸村にあげてしまったが…慶次には、……と、私の残りの人生をあげよう」
兼続は顔を上げた。
ふたりの足跡を見ると、緑が疎らにだがある。存在している。
可愛らしい小さな芽吹き。心に響くそれを兼続は素晴らしいと思った。
「だから…これからも傍に居てくれ、慶次。私は、おまえと幸せになりたい」
慶次は、うんと小さく頷いた。
兼続を抱き上げてしまうまでに大きな身体をしている慶次が、まるで叱られた後の童みたいな返事をするので、思わず笑ってしまった。
腹の底から笑う。
こんな風に笑うのは、どの位振りだろうか。
胸を突く温かなものは、何か覚えのある感情だと思った。
「なんだ、兼続」
「いや、幸せだと思っただけだよ。…そうか、この感情か。こんなにも簡単に思い出せるものなのだな。私はあれこれと考えすぎていたのか。慶次のお陰で思い出せたよ、ありがとう」
兼続がそう言うのを聞きながら、慶次は縁側へと降ろした。
顔を見ると、慶次が惚れたきっかけになったと同じ笑顔。思わず照れて、顔を逸らした。
うん、と返事をすると、また兼続が笑うので、慶次は不貞腐れて見せた。
兼続は笑いながら、慶次の髪を指で撫でた。猫が戯れるように、指先で弄る。
「ほら、冷えちまってるじゃねえか」
されるがままになりながら、慶次は兼続の草履を脱がせた。
そこは冷えている。
「温めてくれないか、慶次」
そう言うと、兼続はまるで青年のような微笑を浮かべた。
終