太陰


「今夜は何かありそうだな…」

空に浮かぶ満月を見るなり、慶次はそう呟く。
其れは恐怖を覚える程に神秘的に輝き、地を照らす。
ざわっと、血が沸くような感覚に陥った。

突然、ぶるると松風が嘶いた。
誰かが来たのだ。
直ぐにじゃりっと石を踏む音がした。

「兼続…」

屋敷の陰より現れし男は、兼続だった。
目をほんの僅か細めると、口角を上げて微笑する。

「じゃねえな。あんたは誰だ」

兼続を見て、慶次はそう吐き捨てた。

「何を言い出す。私のことはお前がよく知っているではないか、慶次」

姿形、声も同じ。
だが、何時もの兼続ではない。

慶次は兼続を睨み付けた。

「非道い男だな。折角、抱かれに来たというのに…」

くすくすと笑って、近寄ると滑り込むように胸へ撓垂れ掛かってきた。
胸に触れる手の感触も、熱も、鼻腔を擽る香りも…口付けの仕方も、唇の柔らかさも全ては兼続其のもの。
忍びの術か何かではない。

「帰んな。あんたが兼続だとしても、今のあんたじゃ俺は抱けない」

きっぱりと目の前の兼続にそう言った。

「…流石、『私が惚れた男』だけはある」

そう言うと、微笑する。
言葉に違和感があった。やはり兼続ではないのだろうか。

「この私は、確かに直江兼続ではあるが、直江兼続ではない。そうだな…別の人格と言った方が解りやすいか」

さらりと流れるように言われた言葉に、衝撃が走る。

「何故、お前が生まれた!!」

叫ぶように慶次は言う。
怒りをぶつけるようでもあった。

「私が生まれた理由など一つ、だ」

即座に理解した。
兼続が別の人格を生み出す程、苦しんだ理由は一つしかない。

上杉謙信が身罷られたからだ。

ぎりっと、慶次は拳を握りしめた。
その日は確か、今日と同じ怪しげな月が輝く日だったと思い出す。

「…抱いてくれぬのなら、私は帰る」

消えるような小さな声で兼続は呟く。
ふらりと立ち上がろうとするが、慶次に抱きとめられた。

「そうやって、あんたは誰かに抱かれないとならないのかい?」

諭すように優しく、それでいて悲しく慶次は言った。

「私は、それしか知らないからな…」

ふっ、と寂しそうに慶次の胸元へと目を落とした。
謙信を失い、悲しみの末に生まれた彼は、誰かに抱かれ、それを紛らわすことでその日を過ごしてきていた。
己が存在していられる時は、満月が浮かび、そして落ちるまで。少ない時間を激しく抱かれ、悲しみを忘れ、そして終える。
次の満月の日まで−

「己を傷付けるような抱かれ方は止めな。…止めるのなら」

「慶次が抱いてくれる、と?」

慶次は深く頷いた。

「解った」と言うと、兼続は慶次の胸に寄りかかった。
胸から聞こえる、規則正しく刻む心音に耳を傾けた。とくん、とくんと耳から全身へと巡るように聞こえる其れは切なくなる程、安心出来た。
暫く、聞いた後に口を開く。

「…愛さなくてもいいから、私を認めてはくれないだろうか…」

もう一人の「直江兼続」として。

慶次の胸元を指先で撫でた。
その指先を慶次は強く握り締めた。

顔を上げれば、破顔した慶次の姿。当たり前だろうと言っていた。
兼続は、照れを隠すように微笑すると、こくりと小さく頷いた。


空に浮かんだ月が僅かばかり、歩みを進めた。 残された二人の時間を刻む。


「残りの時と共に…抱いて、慶次」









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