まだ痛む体を引きずって、わたしは病院の屋上に来ていた。少しだけ曇った灰色の空と、高いフェンスがわたしを迎えるようにそこに存在していて、ぞくりとして少しだけ身震いしてしまう。
震える手で金網を掴んで風景を見下ろすと、広がっているのはまさしくコンクリートジャングル。見渡す限り車、車、ビル、ビル。モノクロの景色。ジュダルくんが見せてくれた景色は、もっときれいだった。
「―――――っ、ジュダルくん、」
かしゃ、と金網が揺れる音。視界はぼやけて涙が溢れ、コンクリートの床に雨が降ったような染みを作っていく。
笑った顔、困った顔、悲しげな顔、全部ぜんぶ大好きだった。たったの5日間で、わたしはいとも簡単に彼に恋をした。
『―――――好きだ、』
最後の囁きが耳に焼き付いて、離れてくれない、忘れられない。ねえ、もう一度わたしがこの世界で生きられるならば、どうして、
「どうして、忘れさせてくれなかったのっ…!」
よく物語であるじゃない、異世界に行ったけどその時の記憶はなくして帰ってくる、みたいなの。それがねえ、どうしてわたしは覚えてるの。どうしてわたしは忘れられないの。
なまえって呼んでくれた優しい声も、頭を撫でてくれた手の感触も、全部持って帰ってきてしまった。いやだよこんなの、つらすぎる、なかったことにしたいよ。
「ジュダル、くん…」
好き、好き、ジュダルくんが好き。心も体もこんなにも彼を覚えているのに、彼の存在はここにはない。会いたいよジュダルくん。
情けないくらいに涙が止まらない。でももう慰めてくれる彼はいない、涙を拭ってくれる手も、優しく抱きしめてくれる体もないの。
「ジュダルくんっ…」
違う世界にいるってわかってる、もう会えないんだって、本当はわかってるの。でもダメ、君がいない世界は、こんなにも色がない。生きているはずなのに、生きた心地がしないんだよ。
「…会いたいっ…」
震える体を無理やりに動かして、フェンスをよじ登る。自殺防止のためか高く高く作られているそれは、わたしがそこを乗り越えるのを懸命に阻んでいるようだった。
「…は、ぁっ…」
ギシ、と嫌な音を立ててフェンスは揺れる。揺れて、登って、揺れて、登って、揺れて、降りて、
わたしはようやく、向こう側に立てた。ひゅう、と風が吹き抜けて、足先をさらに冷たくする。
下を見下ろせば、コンクリート張りの道路、走る車、行き交う人々。こんな世界じゃない、違う、ジュダルくんのいた世界に、わたしは行きたい。
「…高い、」
ここから落ちて死んだところで、ジュダルくんのいる世界に行ける保障なんてない。本当に簡単に、あっけなく死んでしまうだけかもしれない。
でも、それならそれで構わないと思った。ジュダルくんのいない世界でこれから生きていくより、ずっといい。
「…ごめんね、」
身勝手だと思う、馬鹿げてるって自分でも思う。だけどでも、もうこれしか考え付かないの。
ごめんなさいお母さん。ごめんなさいジュダルくん。
弱いわたしを、許してください。
「…ばいばい、」
最後の一言は、震えた。
ゆっくり、ゆっくり、体を前に傾けていく。簡単だった、あとは落ちていくだけ。
涙で歪んだ視界に映ったのは、汚い色の空と、
―――――くろい、とり、
「…あ、れ…?」
痛みはない、だって落ちてなんかいないから。わたしは浮いていた。冷たい空気の中に、背後から誰かに抱えられて。ねえ、あなたは、
「―――――何やってんだよ、なまえ。」
ここからまた、始まる。
さよならのあとに
〜fin〜