「そういえば、虎太くんがもうすぐ帰って来ますよ。」




それは突然、何の脈絡もなく、明日の天気は雨らしいですよくらいのテンションで竜持が言ったので、わたしは言葉の意味を即座に飲み込むことが出来なかった。力が抜けた手から、さっきまで目の前のチョコレートケーキをつついていたフォークが落ちて、皿にぶつかってカラカラと耳に痛い音を上げる。何してるんですかなまえさん、と小首を傾げて尋ねてくる竜持の声さえも、何処か遠くで聞こえているかのような感覚に陥る。




「り…りゅうじ、今なんて…言ったの…。」




「聞いてなかったんですか?虎太くんがもうすぐ帰ってくる、って言ったんですよ。」




どうやら聞き間違いでも勘違いでも、はたまた思い過ごしでもなかったらしい。虎太が帰ってくる、竜持はたしかにそう言った。帰ってくるって、どこに?そんなものは愚問である、この桃山町の他に虎太が帰ってくる場所なんて、そうそうないだろう。どこから?もちろん今現在彼がいるスペインから、だ。頭がそんなによくないわたしは、スペインの正確な場所なんてよく知らない。地図帳や地球儀がないと、日本とどれだけ離れてるかなんてわからない。それでも、虎太が帰ってくる。真っ青な海を渡って日本に、桃山町に帰ってくるんだ。ああそれとも、空を飛んで帰ってくるのかな。もうこの際そんなことはどっちでもいいけど。




「かえって、くるの…。」




「ええ、長期休暇だとか。二週間はこっちにいるつもりらしいですよ。」




二週間といえば、実に一ヶ月の半分近くである。長いように思えるが、一年半くらい虎太と会えていないことを思うと、ひどく短く感じる。でも、会えなかった一年半はもう過ぎ去っていて、会える二週間はこれから来るものだ。実際はずっとわたしとなんかいられるはずがない(降矢家のパパママもいるし、竜持や凰壮とだって積もる話があるだろう)けど、たった一目でも虎太の姿を見られるかもしれない、二週間だけでも虎太が同じ桃山町の大地を踏んでいる、というだけでわたしは嬉しかった。スペインと日本より、同じ日本にいた方がずっとずっと近くて幸せなのだ。




「いつ、帰ってくるの?」




「だから、もうすぐですってば。」




「もうすぐじゃわからないよ竜持。ねえ何日?何時の飛行機?わたしも空港まで迎えに行きたいなあ。」




「そうですねえ、…そろそろじゃないですか?」




竜持が含みのある笑い方をしてから、手に持っていたフォークをゆったりと皿の上に置く。さっきのわたしみたいに、うるさい音を立てることはなかった。思わず置かれたフォークに目をやると、銀色のそれは蛍光灯の光を反射してキラリと光っている。




「…そろそろ?」




「ええ、そろそろです。」




竜持がこの笑い方をする時は、大概何か企んでいる時だ。小さい頃わたしのランドセルに虫を入れた時や、お気に入りの消しゴムを半分に割った時、給食のプリンを横取りした時、思い返せば腹が立つし、この笑顔が怖くなる。いやいや、竜持もわたしももうだいぶ大人に近づいてきてる。大丈夫だ、きっと。




「ということで、僕は部屋に行ってますから。そうそう、インターホンが鳴ったら出ておいてくださいね?」




「え、竜持?」




「ではなまえさん、ごゆっくり。」




わたしが何か言う間もなく、竜持はリビングから出て行ってしまった。なんなんだ、爆弾だけ落として行って。…でも、虎太が帰ってくるんだ。いつかはわからないけど、たしかに帰ってくる。竜持は昔から意地悪だけど、わたしに嘘をついたことは一度だってない。だからきっと、本当なんだろう。どうしよう、楽しみすぎて今から心臓がドキドキうるさい。正確な日付は教えてくれなかったけど、虎太が帰ってくるまで眠れない夜を過ごしそうだ。




いろんな考えを頭に浮かべていると、小気味いいチャイムの音が降矢家のリビングに響いた。…そういえば、竜持が出てって言ってたっけ。ソファーから立ち上がって、ドアホンに手を伸ばす。




ーーーーーそこで、わたしの妙な勘が働いた。…ひょっとして、虎太?さっき竜持は正確な日付は教えてくれなかった。もしかして最初から今日帰ってくる予定で、わたしを驚かそうとして?サプライズやイタズラが好きな竜持のことだ、それは大いにあり得る。




ドクリドクリと心臓が急激にうるさく高鳴り始める。ずっとずっと会いたかった虎太が、玄関の向こうにいるかもしれない。電話じゃなくて、直接声を聞いて話せるかもしれない。手紙じゃなくて、虎太のぬくもりを直接感じられるかもしれない。




『もう泣くな。』




最後に直接聞いた虎太の声が、ノイズ混じりのスピーカーで再生されたかのように、ぼんやりと頭の中に反芻される。虎太、虎太、わたし話したいことがたくさんあるの。まずはね、目を見て直接大好きって言いたい。今度は忘れないから、ちゃんと覚えてるから。そうしたらね、虎太もそうか、なんて答えじゃなくて、ちゃんと気持ちを教えてね。それから、学校のこととかたくさん、たくさん話したい。虎太が口下手なのはわかってるけど、スペインでのことも教えてほしいなあ。




とんでもなく早く回転する頭と、とんでもなく速く鼓動する心臓をそのままに、降矢家の真っ白なドアホンを手に取った。白黒の画面に映ったのは、わたしが、待ち望んだ、




「…あ、れ?」




虎太の姿、ではなかった。目元にかかる前髪を真ん中で分けている髪型は、けれどもわたしがよく知っている人のそれで。




「…おう、ぞう。」




ドアホンに拾われないくらい小さな声で、ぽつりともう一人の幼なじみの名前を呟く。角度的に顔があんまり見えないけれど、あの髪型は間違いなく凰壮だ。忙しなく働いていた頭と心臓が、途端に冷静になって正常に動く。




…なあんだ、虎太じゃないんだ。勝手に期待したのは自分だけど、なんだか気が抜けてしまった。ドキドキしてたことも、あれこれ考えていたこともバカらしいとさえ思った。なんとなく凰壮に失礼な物言いかもしれないけど、許してほしい。それほどにわたしは虎太に会いたかったのだ。




…じゃあ虎太は、いつ帰ってくるんだろう。こうなってくると、何も教えてくれなかった竜持が恨めしい。わたしはいつ来るかわからない日を待って、指折り数えながら眠れない夜を過ごさなければならないのか。…一年半近く待ったんだから、と思うかもしれないけど、先のことがわからないのは怖いし嫌なのだ。期待だってする、待ちわびたりもする、本当に帰ってくるのかと疑ったりもする。竜持は嘘をつかないけど、冗談くらいは言うから、やだなあなまえさんあれは冗談ですよ、とか言われたらどうしようもない。




「…っ、う…」




する、とほっぺたに生ぬるい水が落ちてくる。またわたし、泣いてる。虎太がスペインに行ってしまう日も、虎太から手紙が来た日も、虎太に電話越しに告白した日も、わたしは泣いていた。地球の70%は海で出来ていると竜持に教わったけど、その海の半分くらいはわたしの涙でできているような気がする。実際はそんなこと絶対にあり得ないのに、わたしのこの泣きっぷりはそう思わせるくらいで、いつか身体中の水分が涙になって枯れ果ててしまうんじゃないか、とさえ危惧してしまう。




虎太が恋しくて、虎太が好きで、虎太に会いたくて、わたしはいつか干からびるかもしれない。その前に一度でいいから虎太に抱きしめてもらいたいなあ、なんて馬鹿げたことを考えるくらいには、わたしは悲しかった。会えないとなると、余計に会いたくなってしまう。一年半近くも待ったのに、わたしは愚かだ。




ぼろぼろ涙を流しながらぐすりと鼻をすすると、催促するかのようにもう一度チャイムが鳴る。早く開けろってか、凰壮め。大体自分の家なんだから、普通に鍵開けて入って来なさいよ、と無意味に心の中で八つ当たりをする。凰壮は何も悪くないのに、ごめんね。




申し訳なさと悲しさとやり場のない怒りで思考をぐちゃぐちゃにしながら、玄関までよろよろと歩き出す。本当に早く開けないと、後で凰壮にブツブツ言われる。乱暴に袖で涙の痕をこすって、これ以上涙が出ないように唇を噛んだ。きっと凰壮には、また泣いてんのかよ、とか言われるけど仕方ない。




パタパタとスリッパの音を響かせながら玄関に辿り着き、鍵を開けてから重々しいドアをガチャリと開ける。ーーーーーそこで、またわたしははたと気づいた。凰壮、髪長かった。昔は目にかかるくらい前髪長くて、襟足だってそこそこあった。けど今は柔道のために、短く切っているはず。引っ張られたりするから、ってぼやいてたのをよく覚えている。凰壮には一昨日会ったばかりだし、そんなに急激に髪の毛が伸びるはずがない。




ーーーーーじゃあ、ドアホンに映っていたのは?




「…え、」




そこにいたのは、昔の凰壮のように髪を下ろした、凰壮にそっくりな男の子。でも違う、やっぱり凰壮じゃない。目元は少しだけ優しげな二重だし、そばにある大きな黄色いキャリーバッグには見覚えがあった。




「…こ、た?」




震える声で名前を呼ぶと、開けんのおせえよ、と小さく呟く。間違えるはずがない、電話越しに何度も聞いた虎太の声だった。旅立ったあの日より頭が高い位置にあって、体つきもなんとなく逞しくなったように見える。今気づいたけど、外は雨だったらしく、肩や頭が少し濡れていた。だから髪の毛が下りているのか。




途端に、ぶわっと涙が再び溢れてきて、ほっぺたが濡れていく。さっき拭ったばっかりだし、泣かないように唇を噛んでいたのに、全て無意味だと言わんばかりに溢れて溢れて止まらなかった。今度こそ本当に涙が海になって、溺れてしまうような気さえした。自分の涙に溺死するなんて、何それ笑えない。




「また泣いてんのかよ。」




先刻、凰壮に言われそうだと思った言葉を、そっくりそのまま虎太に言われてしまう。やっぱり兄弟だなあと思って、同時に、虎太に言われるなら腹なんか立たないなあとも思った。




「こた、」




「泣くなっつっただろ。」




ぐい、と少しだけ乱暴に涙を拭う虎太の手つきは、だけどもさっきの自分で拭ったそれよりすごく優しい。濡れたほっぺたに虎太の大きな手が触れて、水分を少しずつ攫っていく。




「なまえ、」




電話越しじゃない、虎太がわたしを呼ぶ声に、さらに涙は止まらなくなる。会いたくて会いたくて、虎太のことを考えない日はなくて、虎太を連れて行ってしまったサッカーが憎くて、それでもサッカーを頑張っている虎太が好きだった。いつ帰ってくるの?そう思っても言えなくて、虎太が旅立ったあの日から、ずっとずっと恋しくて寂しくてたまらなかった。




「…虎太…わ、たし…会いたかっ…」




「…んなこと言う前に、もっと言うことあんだろ。」




眉間に皺を寄せて、射抜くようにわたしを見つめる虎太。昔からそう、自分からは絶対大事なこと言わないの。好きだって言ったのもわたしから、返事もちゃんとしてくれなかった。でも、虎太の鋭い目は言葉より虎太の気持ちをはっきり伝えてくる。いつだってそうだった、目は口ほどに物を言う、なんて虎太のための言葉だとさえ思う。




だからねえ、わかるんだよ。今虎太がわたしに何を言ってほしいか。それがわかるわたしがすごいのかな、それとも目だけで伝えてくる虎太がすごいのかな。




「…おかえり、なさい…。」




「おう。」




短く返された虎太の声に、わたしの瞳から海のかけらがまた流れ出した。










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