だいすきな彼が海を渡って、遠い遠い国に行ってしまうという日、わたしは自分の涙で海ができるんじゃないかというくらい泣いた。一緒に見送っていた降矢家のパパとママが心配したり、竜持が呆れていたり、凰壮がめんどくさそうにしていたのを今でもはっきり覚えている。枯れるんじゃないかというくらい涙を流して、喉が潰れるんじゃないかというくらい喚いているわたしを、虎太だけがじっと冷静に見ていた。そして一言、
「泣くな、なまえ。」
おっきな黄色のキャリーバッグをガラガラと引きずりながら、わたしの目の前に来て虎太はそう言った。その言葉にわたしはさらに泣いた。遠いもん、会えないもん、虎太いっちゃやだ、さみしいよ、そんな風に言った記憶がある。少し曖昧だけど。左側にいた竜持が、今さら何言ってるんですか、と呟く。右側にいた凰壮が、お前だって虎太にサッカー頑張ってほしいって言ってたじゃねえか、とぼやく。わかってる、わかってるんだよ、今さら止めても無駄だって。虎太はサッカーが大好きで、スペインに行って、たくさんボールを蹴って、たくさんゴールを決めて、すごいサッカー選手になるんだって。わたしだってわかってる。でも虎太がいなくなるのが、悲しくて寂しくて仕方ない。つい昨日までは虎太が活躍することに胸を躍らせていたのに、今さらになって溜めていた寂しさが全部ぜんぶ溢れてきてしまったみたいだ。
「…連絡する、」
「う、ぐずっ、」
「手紙書くし、電話もたまにする。だから寂しくなんかねえ。」
「こ、たぁっ…ひっく、」
「もう泣くな。」
わたしはその時、なんと返しただろうか。いってらっしゃい、電話待ってる、頑張ってね、もう泣かないから、なんだかどれもしっくりこない、どれも違う気がする。でもわたしが最後に見た虎太は、ちょっとだけ笑ってたから、たぶんわたしは虎太にそれ以上わがままを言わずに済んだのだろう。
もっとも、虎太を乗せた飛行機が飛び立った後、また大泣きをしたわたしは、竜持や凰壮に多大なる迷惑をかけたのだけれど。でも二人は、わたしの心情を汲み取ってくれたのか、その時はやけに優しかった。竜持は珍しく、よく頑張りましたね、なんて褒めてくれたし、凰壮は凰壮で、ポケットからくしゃくしゃになったハンカチを出して、わたしに差し出してくれた。
ーーーーーこれが一年と数ヶ月前、虎太と最後に会った時の記憶である。ところどころ曖昧になっていたので、正確じゃない部分もあるだろうが、そこは目を瞑っていただきたい。
「…で、結局何が言いたいんですか、なまえさん。」
レンズの向こう側から、竜持の鋭い瞳がわたしを射抜くように見つめてくる。竜持め、視線でわたしを殺す気だろうか。そんなのは嫌だ、どうせ死ぬなら虎太の視線に射抜かれたいものだ。そんなくだらないことを考えていると、竜持の目つきがさらに鋭くなった。咎めるようなその視線から逃げるように顔を逸らしたわたしに、ため息が降ってくる。あの時と同じだ、わたしが虎太に行かないでって駄々を捏ねた時と。
「…虎太くんは不器用です。」
「…うん、」
「マメな方じゃないですし、何かに集中すると周りが見えなくなるタイプですよ。」
「…うん…。」
弱々しく返事をするわたしに、わかってるなら我慢して待っているべきじゃないですか?と竜持が訊ねる。疑問符が語尾についているのに、自信を持って言い切っているように聞こえるのが竜持らしい。もとより、わたしの意見など竜持には関係ないのだ。わたしが何を思ってるのかも、どういう答えを望んでいるのかも、彼はわかっているのだから。
(そして、自分の意見を捻じ曲げてまで、わたしの望んだ答えを返そうなどとは思っていないことを、わたしもわかっている)
「…一ヶ月に一回電話がくるだけでも、僕は十分だと思いますけどねえ。」
そうなのだ、虎太は結構我が道を行く自分勝手なタイプだった。これだと決めたら一直線で、周りになんて見向きもしない。そんな虎太が、別れ際にわたしと交わした約束を今でも守ってくれているのだ。一ヶ月に一回は必ず電話がきて、たまに素っ気ない手紙が送られてきて。わたしがあんなにも泣き喚いたからなのか、はたまた元来の虎太の正義感の強さからか、それはわからないけれど。
「…そうやって、」
「はい?」
「気にかけてくれるような素振りを見せるから…余計に会いたくなるんだよ。」
連絡がないのはもちろん寂しいが、連絡があってこそ感じる寂しさもあるのだと、わたしは虎太に気づかされた。電話越しに聞こえる虎太の声が、走るように便箋を滑る虎太の文字が、会えない距離にいることを痛感させる。それと同時に、わたしの中に虎太という存在がはっきりと蘇ってくる。何も音沙汰がなければ、忘れたように過ごせるのに。心に空いた穴を他の何かで埋めようとするのに。繋がりがあるから余計、虎太という存在を自分の中に強く感じるのだ。
これがもし凰壮だったら、電話なんてせずに、手紙なんて寄越さずに、自分のしたいようにしかしないんだろう。(凰壮ごめん)
虎太だってそういうタイプだと思ってたのに、こんなところで優しさを露わにされて、恋しくならないはずがない。彼がいなくなって一年以上経つのに、未だに慣れることはなく、ただ会いたさが募るばかりだ。
「…だから言ってるじゃないですか、虎太くんは不器用だって。」
虎太くんは今でも、自分のしたいようにしかしてませんよ、って竜持が苦笑しながら呟いた。
「…嘘、だって…わたし…」
わたしが虎太にわがままを言ったから、寂しいなんて勝手なこと言ったから、虎太は頻繁に連絡をくれるんじゃないのか。虎太自身の意思でそうしてるだなんて、そんなこと、あるはずない。
(だって、虎太がわたしに連絡をしたい理由なんて、ない、はず)
「…なまえさんは、どうして虎太くんに会いたいと思うんですか?」
「…それは…虎太が…」
虎太が、好きだから。小さい頃からずっと、竜持より凰壮より、虎太が特別だったから。ボールを追いかけるキラキラした目も、ぶっきらぼうな優しさも、負けん気の強さも、全部ぜんぶ大好きだから。
この気持ちがなんなのかわからないほど、わたしはバカでも子供でもない。虎太が好きで、だから会いたくて寂しくて。こんな風に欲張りな自分が現れるのなんか、虎太に関することだけなんだから。
「…虎太くんには、敵いませんねえ。」
「え?」
「いえ、なんでも。…それより、なまえさん、」
虎太くんだって、その気持ちは同じだと思いますよ。興味のない相手に、いくらあれだけギャーギャー泣かれたからって、同情や正義感なんかで頻繁に連絡をするとは考えられません。…つまり、どういうことだかわかりますか?
にっこりと微笑んだ竜持が、かつての通り名のまんま、悪魔に見えた。
ーーーーー…
震える指で、スペインの国番号と虎太のケータイ番号を順番に押す。思えば虎太がサッカーで忙しいから、というのを言い訳に、わたしから虎太に連絡をすることはほとんどなかった。いつも受け身で、待つばかりだったわたしに、よく虎太はマメに連絡をくれたものだ。
ドキドキ高鳴る心臓を押さえながら、日本のそれとは違う外国のコール音を聞く。受話器を持つ手が何故か勝手に震えて、変な汗がじんわりと滲んでくる。暑くもないのに、どうしてだろうか。
『ーーーーーもしもし、』
前に聞いた時より、少しだけ低い虎太の声が耳に響く。心臓がばくん、と一際大きな音を奏でて、受話器を持っていない方の手のひらも汗ばんできた。
「もしもし、虎太?」
『…なまえ?』
珍しいな、って呟く虎太。それはそうだ、わたしから電話することなんて、今までほとんどなかったんだから。
「ごめんね、急に電話したりして。」
『いーけど…そっち何時?』
「え、朝の5時…だけど。」
『はあ?お前、そんな時間に何してんだよ。』
「え、そっちは何時?」
『夜の9時。』
「…ひょっとして寝てた?」
『俺のことより、お前のことだろ。なんでそんな時間に起きてんだよ。』
「…時差考えたら、朝の方がいいのかなって思って…早起きしたの。」
『ーーーーーお前、俺に電話するためにこんな時間に起きたのかよ。』
寝るの大好きなくせに、という言葉の後、電話の向こうで、虎太がふっと笑う気配がする。胸がきゅんとして、頭の奥がふわふわする。ああ、虎太が好きだなあ、なんて柄にもなく考えてしまう自分にちょっとだけ違和感。
「…あのね、虎太、」
『なんだよ。』
「…好き、だよ。」
それは、本当にごく自然にわたしの口から零れていた。何年も何年も胸に押し留めていた思いが、言葉になってぽろりと落ちる。恥ずかしいとか怖いとか、そんな気持ちは一切なかった。意識して言ったわけではなくて、ただ虎太が好きで好きで仕方なくて、それが口に出てしまった、といった風だった。
だからなのだろうか、たとえここでフラれても、構わないと思えた。わたしが虎太を思う気持ちに嘘はないし、幼なじみに戻れない、ギクシャクする、なんて心配もしなくて大丈夫だという確信があったから。虎太はそういうのを嫌うし、わたしもすっぱりフラれたら、それで幼なじみの二人に戻ろうと思えるような気がするから。
ーーーーーだからこそ、
『知ってる。』
虎太のその一言は、あまりに予想外だった。
「…え、知ってるって…な、なんで…?」
『なんでって…お前、俺がスペインに行く日に、そう言ってたじゃねえか。』
「い、いつ!」
『ギャンギャン泣き喚いてる時。』
ーーーーーまさか、ちょっとだけ記憶が途切れてる、あの時だろうか。たしかにわたしは、あの時何を言ったか覚えていない。悲しくて寂しくて仕方なくて、それで今みたいに思ってることが言葉に出ていたというのか。
「え、あ…う、嘘…。」
『嘘なんかつくかよ。』
「でも、だって…え、虎太は…」
わたしが自分の思いをその時に伝えているならば、虎太はどうして今まで何も変わらない態度で接してくれていたのだろう。恐ろしいことに、わたしにはあの時虎太に何か言われた記憶なんかない。虎太の気持ちを、わたしは知らないんだ。
「その時…虎太、なんて返事したの。」
『そうか。』
「は…っ?」
『お前に好きだって言われて、そうか、って答えて飛行機乗った。』
「そ、それ答えになってないよ!勝手に虎太が納得しただけじゃん!」
『どうせあん時に返事しても、お前覚えてなかっただろ。』
現に今だって忘れてたし、と呆れたように言われる。…たしかに、忘れてたことは否定しない、けど。でもだからって、そんなのずるい。
「…ずるいよ、虎太…。」
『何がだよ。』
「なんで…わたしの気持ち知ってて、毎月電話くれるの…。」
同情してるのか、そんなキャラじゃないくせに。わたしはバカだから期待するよ、虎太もわたしと話したいんじゃないかって、変な勘違いしそうだよ。
『そんなもん、』
俺が電話したいからだけど、ってあっさりと答えられる。なんなのもう、いつの間にそんなにチャラくなったの。幼稚園の時に結婚式ごっこして、ほっぺたにさえキスできないくらい初心だったくせに。
「…わかんない…虎太、わかんないよ…。」
『じゃあ、お前はさあ、』
なんで俺に電話してきたわけ、と静かに問いかけられる。それは昨日、竜持にされた問いかけとぴったり重なる。本当に三つ子なんだから、と無駄に感心さえしてしまう。
「…虎太が、好きだから。声聞きたいし、会いたいなって思って…少しでも虎太を感じたいと思ったから。」
『…俺も同じだから。』
ぱちり、瞬きをすると、両目からぽろぽろと涙が溢れる。あの時みたいに悲しくはないのに、次々に出てきて出てきて、止まらない。
『なまえの声聞きてーから、電話するんだよ。』
「…虎太、」
『だから、…なまえのこと、好きだっつってんだよ!』
ああ神様、今度こそわたしは、自分の涙で出来た海で溺れてしまいそうです。
涙の海を渡る