めんどくせえ、と一言、目の前の彼は呟いた。それは人間が呼吸をするかのように、息を吸ったから次は吐いたのだというように、当たり前の動作として見える。




きっと彼からしたら、わたしが言ったことに対してめんどくせえと返すのは、呼吸と同じくらい当たり前のことだったのだろう。ゆるやかに働く脳みそが、そんなことばかりをぼんやり考える。だからだろうか、彼が発した言葉に対し、わたしはどういう対応や返答をすればいいのか考えられなかった。いや、もしかすると最初から考える気がなかったのかもしれない。




「…おい、」




「え、」




「お前…俺の話聞いてたか?」




「ああ…うん、聞いてたよ。」




未だふわふわした思考回路が、凰壮くんの言葉をゆっくりと吸収して処理していく。それに対してわたしが返した言葉は、この場には相応しくないものではなかっただろうか。柔らかくなってしまった脳みそは、それすらまともに考えてくれない。持ち主の言うことを聞けよ、と思うのに、それを命令する信号さえ発信してくれないのだ。




ふと、自分の脳みそがふにゃふにゃになってしまう様を想像してしまった。ゆるめに作ったプリンのように崩れやすく不安定で、ちょっとのことでゆらゆら揺れる。なんとも情けない上に生々しいその光景を、何故だか鮮明に想像してしまった。思考能力は低下しているのに、想像力はしっかりしているらしい自分に、我ながら感心さえする。




「ねえ凰壮くん、」




「…なんだよ、」




「わたしの脳みそ、本当にプリンみたいだったらどうしようね。」




「…はあ?」




しまった、思ったことが本当にそのまま口に出てしまったようだ。凰壮くんは怪訝そうな顔をして、わたしをじっと見ている。目つきが悪い、ちょっと怖い。




まあでも確かに、明らかに今この場で言うべきことではなかった、と自分でも思う。恐らく彼が思うところとしては、何言ってんだこいつ、っていうのと、お前の脳みそなんか知るか、といったところだろうか。




「…プリンって、なんだよそれ。」




その切り返しは予想外だった。




「…うーん、」




頭の中で鉛の玉がころころと転がったかのように、首がことりと傾く。今日のわたしの頭は、プリンだったり鉛だったり忙しい。




「あのね、凰壮くん、」




もうこの際、わたしの頭の中の話はどうでもいい。自分から言っといてなんだと思うかもしれないけれど、それでもこの話を掘り下げたところで、わたしにも凰壮くんにもメリットはないように思えた。いや、わたしが勝手に思っただけなんだけども。




とどのつまり、本題に入りたいのだ。最初何の話をしてたっけ、とまずそこから考える。柔らかい頭は、今度は存外早く答えを見つけ出してくれた。




「わたしの友達が、」




「その話は最初にしただろ。」




「…うん、そうだね。」




ようやく固まりだしたわたしの脳みそが、昨日の友人の泣きそうな表情を鮮やかにフラッシュバックさせる。協力して、と言ったあの子の顔は、それはそれは醜く歪んでいたのだけれど、親しい人間の頼みを断るという術を知らないわたしは、二つ返事で了解したのだ。




協力して、という言葉に、何をだと思うかもしれない。だがしかし、それを敢えて聞くのは野暮というものだ。わたしは知っていたから。あの子が凰壮くんのことを好きだって。




ただ彼は、めんどくさがりで強気な態度を決して崩さないから。誰に対してもそう。大人とか同級生とか、何も関係ないんだと言わんばかりに。だからこそ、自分でぶつかるのは怖かったのだろう。好きな人にはっきり拒まれるのは、悲しいことだから。そして凰壮くんは、それを躊躇いもせずにやってのけてしまう人だから。




かと言って、凰壮くんの言い分もわからなくもなかった。自分で来いよ、と、彼はそう言いたいのだろう。人づてにするなんて卑怯だ、と思っているのかもしれない。無駄にまっすぐで、正義感の強い人だから、あの子のやり方はずるく見えてしまったかもしれないなあ、なんてぼんやり思う。
(ただ、まっすぐで正義感が強いと言っても、彼の一番上のお兄さんには敵わないと思うけれど)




「わたしは別に、凰壮くんがどう答えてくれても構わないんだよ。それをそのまま、その子に伝えるだけだから。」




「…友達じゃねーのか、」




「友達だよ。」




「じゃあ、」




なんで断るなとか言わねーんだ、って凰壮くんが尋ねてくる。




「…嘘をついてほしいなんて、思わないもの。恋愛って、無理やりにするものじゃないでしょ?」




それに、と一区切りして、息を深く吸い込む。




「凰壮くんの気持ちは、凰壮くんのものだもの。わたしが何か言っても変わらないだろうし、変わったとしても嬉しくない。人に流されて考えを決めるなんて、凰壮くんらしくないんじゃないかな。」




プリンみたいな脳みそが、伝えたいことをちゃんと言葉にして口から発信してくれた。ふにゃふにゃのくせに、よくやったなと褒めてやりたい。いい子だ、わたしの脳みそ。




だがしかし、はたと気づく。散々偉そうなことを言ったけれど、わたしは別にそこまで凰壮くんと親しくない。らしくない、なんて言えるほど、彼のことを知ってはいないのだ。しまった、なんたる失態。これはまずい、確実にまずい。




彼の性格からして、何かを決めつけられることは嫌いなはずだ。いや、知らないけど、なんとなくそんな気がする。それなのに知ったようなことばかり言って、挙句偉そうに諭すようなことさえ言ってしまった。ああ、終わった。いやまあ、終わったも何も、始まってさえいなかったんだけど。




「…お前さあ、」




ぽつりと凰壮くんが呟いたその声音は、存外優しい響きだった。怒ってないのかな、なんて思いながら表情を伺う。眉間にシワは寄ってない、目元もきつくない。つり目なのは元々。




言ってしまえば、とりあえず怒った様子はなかった。そっと安堵のため息を吐く、心の中で。




「なんでお前なんだよ。」




「…うん?」




困った、凰壮くんの言ってることが理解できない。わたしの脳みそは固まってきたはずなのに、凰壮くんの言葉がしっかり処理しきれないのだ。何故だ、そんなに難しいことを言われたわけでもないのに。たぶん。




「…っ、だから!」




なんでお前がそんなこと言いに来るんだよ、とバツが悪そうに凰壮くんは言った。なんで、はこっちのセリフだ。なんでそんな顔するの。なんでそんなこと言うの。わたしじゃダメでしたか不愉快でしたか。




「…俺の身にもなれよな。」




「うん?」




「俺、お前が好きなんだけど。」




…どうしよう、またわたしは凰壮くんの言葉が理解できない。というより、処理しきれない。パソコンが処理速度に見合わないほどの要求をされた時みたいだ。顔が熱い、オーバーヒートしたかもしれない。




「…なんで、わたしなの。」




「なんで、って言われてもなあ。それが俺の気持ちだから。」




いやまあ、たしかにわたしは、さっき言ったよ。凰壮くんの気持ちは凰壮くんのものだって。でも、だからって、これは予想外すぎる。想像の遥か斜め上どころか、範囲を突き破って銀河に届いてしまいそうだ。…念のため言っておくけど、銀河という表現は別に、翔くんの真似をしているわけではない。




今日のわたしの頭は、プリンになったり鉛になったり、はたまたコンピュータになったりと忙しい。というより、考えなければならないことが多すぎる。明らかに容量オーバーだ。




「なあ、その友達のことはもういいだろ。」




いや、よくない。本当はいいけれど、今だけはよくないと言いたい。話題が切り替わるのが怖くて仕方ない。凰壮くんが何を言い出すか、なんとなくわかってしまう自分がいやだ。もう、なんでこんな時ばっかり働くんだ、わたしの脳みそ。




「お前は、俺のことどう思ってんの。」




わたしはこの場で、別にどうも思ってない、と言えるほど勇者ではなかったようだ。唇はかっさかさに渇いてくっつくし、喉が火傷したみたいにヒリヒリ熱くて声が出ない。これが戸惑いというやつか、なるほど。いや、身を以て体験なんかしたくなかったけど。




ざり、と砂を踏む音がやけに大きく聞こえて、体がびくりと跳ねる。赤いラインの入ったスニーカーが近づいて来るのが、俯いた視界に映った。それを理解してはっと顔を上げると、すぐ近くに整った顔があった。やはり目つき悪い…あ、意外とまつ毛長いかも。




「おうぞうく、」




「答えろよ、なまえ。」




彼の声で呼ばれた自分の名前が、知らないもののように思えた。低く甘く、囁くような声にくらくらする。麻薬みたいだ、凰壮くんの声。…あれ、媚薬?まあどっちでもいいけど。




「わ、たし…」




内臓が口から出そう、という表現は、今使うべきなのだろう。心臓がうるさく鳴り過ぎてて、今にもわたしの体から飛び出しそうだ。そりゃこれだけうるさく鼓動してたら、こんな狭くてちっぽけなわたしの体じゃ収まっていられないだろう。ごめんね心臓さん。




でも待って、出ていかないでね。わたしはまだ死にたくないし、今ここで口から心臓出したら、凰壮くんに凄まじいトラウマを植え付けてしまいかねない。それはダメだ、大問題だ。実際に心臓が飛び出すことはないだろうけど。




…ああダメだ、また思考が、変な方向に。




「なまえ、」




「あ、う、」




そしてまた困ったことが発覚してしまった。どうやら凰壮くんの声は、わたしの脳みそをふにゃふにゃにする効果を持っているらしい。彼に名前を呼ばれるたび、思考が変な方に行ったり考えが追いつかなくなったりするのだ。




たくましい想像力が生み出すのは、凰壮くんの声が染み込んで、溶けるようにふにゃりと揺れるわたしの脳みそ。声を発しただけでわたしをこんな風にするなんて、恐るべし、降矢凰壮。
…まあ実際にそうなってるわけはないのだけれど、浮かんだ幻想を消すなんてできなくなるくらい、凰壮くんの声は効果抜群だったのだ。




「や、だ…わたし別に…」




好きじゃない、の一言がどうしても喉元から出てきてくれない。どうしてだ、わたしの言うことを聞きなさいわたしの体よ。何年も苦楽を共にして、わたしの指示通りに動いてくれることがほとんどだったじゃないか。なんで、どうして。こんな時ばっかり。




「名前で呼ぶのだって…特別な意味はなくて…」




何を言っているんだ、わたしは。たしかに言ってること自体は、間違っていないけれど。降矢くん、と呼ぶと同時に三人の人を指し示すことになるのが、なんだか不便で。




「そんなに…親しいわけでもないし…」




「…じゃあなんで、」




荒々しく地面を蹴る音がして、わたしの体はぐいっと何かに引っ張られる。いや、何か、なんてわかりきっている。凰壮くんの腕にわたしの腕が引っ張られて、体がそっちに傾いているのだ。




とん、と固い体の感触が、わたしを受け止める。体温は、わたしより高そうだ。熱い、熱い、凰壮くん熱いよ。




「俺だけなんだよ。」




「ーーーーーっ、」




「竜持のことは、名前で呼んだりしねーくせに。」




言われて、言葉に詰まる。凰壮くんの言うとおりだったから。




たしかにわたしは、彼のお兄さんたちを名前で呼んだりはしない。一番上のお兄さんは接点がないにしても、真ん中の降矢竜持くんとは、委員会が同じでよく喋る。でも彼のことはずっと、降矢くん、とか凰壮くんのお兄さん、とか呼んでいる。




今思えば、果てしない矛盾だ。親しくないと言っておきながら、名前で呼んだりして。ましてやもっと親しいお兄さんを、名前で呼んだりせずに。深い意味はない、なんてとんだ勘違いだ。本当はずっと、




「…凰壮くんのことは、凰壮くんって呼びたかった。」




「…なんで?」




「な、んでって…それは…」




「お前も俺のこと、好きだって思っていいわけ?」




嬉しそうに囁かれた一言に、思考が麻痺した。今度こそわたしの脳みそは、プリンみたいに凰壮くんに溶かされてしまったらしい。




ゆるくなった頭が返答を出す前に、凰壮くんに唇を塞がれたことは、わたししか知らなくていいと思った。














Title by:エバーラスティングブルー

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