「おい、ウサ子。」




いつもみたいに、芭蕉先輩がわたしを呼ぶ。いつもだったら喜んで返事をして、先輩のもとへ駆けて行くわたしだけど、今日は話が別だ。




「ウサ子?」




聞こえなかったと思ったのか、もう一度、今度はもっと大きな声でわたしを呼ぶ先輩。だけどわたしは、顔を先輩がいるのとは反対の方向に、ぷいっと背けた。道場に残っていた剣道部の人たちが、ざわざわするのが聞こえる。




「おい、花森が灰咲さん無視してるぞ?」




「まさか…あの花森が?ありえねーだろ。」




ええい、ざわざわするなモブキャラたちよ。別にいいだろう、わたしが何をしようとわたしの勝手だ。




「…チッ、」




芭蕉先輩は諦めたのか、はたまためんどくさくなったのか、護国先輩のとこに行ってしまった。…怒らせちゃったかな、でもわたしだって、今日ばっかりは譲れないのだ。




「珍しいな、お前がそんな態度とるなんてさ。」




「…禍津先輩…。」




芭蕉先輩と入れ替わるようにして現れたのは、禍津先輩だった。いつも通り、包帯がぐるぐる巻かれた竹刀を抱くように持っている。




「…別に…珍しくなんかないです。」




「普段だったら、そんなこと言わないだろう。…喧嘩でもしたのか?」




病的な見た目に反して、問いかけてくる声は優しい。ちらりと禍津先輩を見て、ため息を一つ吐く。




「…そんなんじゃ、ないんです…。」




そう、わたしと芭蕉先輩は別に喧嘩なんかしていない。もしそうだったら、芭蕉先輩はわたしに話しかけてなんかこないだろうし、わたしだってわざわざ剣道場になんか来ない。というかそもそも、わたしと芭蕉先輩は喧嘩らしい喧嘩なんかしたことがないのだ。言い争いになる前に、わたしが絶対に謝ってしまうから。




「…じゃあ、何なんだ?」




「…わたし、いつまでウサ子って呼ばれるんでしょうか。」




きっかけは、お昼休みにした友人たちとの会話だった。友人のうちの一人に彼氏ができたらしく散々惚気られ、挙句の果てに、名前で呼んでくれない彼氏なんか彼氏じゃないよねーなんてお言葉を聞いてしまったのだ。




別にそんなこと考えなくてもいいってわかってる、その子たちはその子たちで、わたしたちはわたしたち。頭ではわかってるけど、やっぱりわたしも女の子だ。好きな人からは、ちゃんと名前で呼んでほしい。名字やあだ名じゃなくて、ちゃんとしたわたしの名前。




「…子どもっぽいですよね…そんなことで無視するなんて…でも…」




出会った頃に、先輩はわたしにウサ子って呼び方をくれた。そんなあだ名つけられたの初めてだったし、わたしのことをそう呼ぶのは、今までもこれからもきっと芭蕉先輩だけ。




この呼び名に不満があるわけじゃない、ないんだけど、でもやっぱり聞きたい。エッチしてる時には呼んでくれるけど、それじゃ嫌だ。




「芽雨って…ちゃんと芭蕉先輩に呼んでほしいんです。」




「…だったらそー言えよ、アホウサ子。」




「そんなはっきり言えたら苦労しな……………え?」




返ってきた声は、禍津先輩のものじゃなかった。聞き慣れた、わたしの大好きな人の声。




「…芭蕉、せんぱ…」




「バカかテメーは。」




「ば、ばかって…そりゃ芭蕉先輩からしたら、大したことじゃないかもしれないですけどっ…でも、わたしはっ…!」




じわっと視界が歪んで、芭蕉先輩の顔がぼやけて見える。悲しいのと苦しいのがない交ぜになって、頭の中がぐちゃぐちゃした。




「ただ、先輩の口から聞きたくて…先輩に名前呼んでほしくて…それでっ…!」




「…めんどくせーな、お前はホントに。」




呆れたように呟く芭蕉先輩。わがまま言って嫌われちゃったかな、どうしよう、芭蕉先輩に嫌われたらわたし、どうすればいいんだろう。




そんなことをぐるぐる考えていると、体が何かに包まれて、顔が何かに押し付けられた。




「…ば、しょう…せんぱい?」




ううん、何かじゃない。知ってる温度と知ってる匂い、わたし今、芭蕉先輩に抱きしめられてる。みんな見てるのに、って視線を巡らせると、いつの間にやら道場には、わたしたち二人だけだった。




「…あとは?」




「え…っ?」




「あとは、してほしいこととか、言ってほしいことねーのかよ?」




「え…と、その…」




改めて聞かれると、なかなか浮かばない。でも浮かばないってことは、普段わたしは芭蕉先輩に不満なんかないってこと、なんじゃないだろうか。…それなのに、たったあれだけのことで無視しちゃうなんて、冷静になって考えると、わたし最低かもしれない。




「ーーーーーあ、」




「…なんだよ、」




「あの…愛してるって、言ってほしいです…。」




名前の他に、と言われて思いついたのは、なんとも安っぽい愛の言葉だった。好き、でさえほとんど言ってくれない芭蕉先輩だから、愛してる、なんて言われたことなくて。…別に、言ってもらえなきゃ死んじゃうわけじゃないし、いいと言えばいいのだけど。




「…チッ、」




「あ、いいんです先輩。なんとなく思いついただけで………………っ?」




ぐ、と後頭部に手をやって引き寄せられて、先輩の顔が耳元にくる。心臓がどきんと高鳴ったのが、全身に伝わった。




「…一回しか言わねーからな、」




「…っ、せんぱ…」




「愛してる、芽雨。」




ぎゅ、と心臓を掴まれたみたいに、胸が熱く、切なく締め付けられた。止まったはずの涙がまた溢れてきて、ぽろぽろと落ちていく。




「…芭蕉、先輩っ…!」




たとえ常に名前で呼んでくれなくても、愛の言葉を囁かれなくても、わたしは幸せだ。だってこんなに大好きな人が、そばにいてくれるんだもの。




「わたしもっ…愛してます、先輩…!」




言葉なんていらない、そんなもの必要ない。今の一回で、わたしは満たされたから。




わたしは、幸せです。








しあわせのじゅもん






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